廓然無聖:かくねんむしょう

妙心寺大摂心報告9最終報告「廓然無聖:かくねんむしょう」

今回、改めて痛感させられたことは
「文化としての宗教」「哲学としての禅」です。

毎春、欧州にワインセラー巡りの旅にでます。
そこでは何百年と風雪に耐えてきた建造物が普通の生活の中に生きている。
そこに住む人の心にも百年単位の考え方が息づいています。

今の日本では、
なかなかそのような環境に住むということはできません。

しかし日本もまんざらではないと、
心から、身体をもって認識をあらたにしました。

一言でいえば、
「文化としての宗教」「哲学としての禅」です。

達磨大師が「廓然無聖」と答えて以来、
人は連綿と坐禅してきたわけです。
惜しいかな一般の生活の中では、
このような坐禅や参禅に接する機会は希有です。
是非、機会を見つけて禅寺に足を運ばれることをお勧めして、
報告を終了いたします。

「喝」!

坐禅

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