BBTime 040 無事の人最終(その五)無常

BBTime 040 無事の人最終(その五)無常
「休むとは流れることねあめんぼう」黒田早苗
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その昔、小学生の頃、ぽつんとある水たまりにあめんぼうをみつけ、どこから来たのかな?と真剣に考えたことがあります。飛んで来るんですよね、あめんぼうが飛ぶなんて、その時は考えもしませんでした。
「普通、安定というと、大きな岩かなにかがどっしりとすわっているような状態を言うが、無論、それも安定にはちがいないけれども、そういうのは、どうも世の中の安定というたとえには、当てはまらないように思う。世の中は絶えず動いているのだ。一分間も休むひまなく動いているのだ。動いていながら、その動いているあいだに落ちつきを保つものでなくては、ここにいう安定とは言えない。それは、ちょうど地球がすばらしい速さで回転しているのに、その回転している事実を、誰も気づかないでいるようなものだ。地球は一秒間に約三十キロの、すごい速力で回転しているということだが、「ああ、いま地球が動いている。」などと心配する人は、ひとりもいない。万人が万人、ことごとく、なんの不安も持たずに、地球に身を任せている。およそ、これくらい安定した状態はないだろう。」(無事の人 28-29頁)
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この下りを読んだ時に思ったのが1212年、鴨長明によって書かれた「方丈記」です。「ゆく河の流れは絶ずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人と栖と、またかくのごとし。たましきの都のうちに棟を並べ、甍を争へる高き賤しき人の住ひは、世々を経て尽きせぬものなれど、これをまことかと尋ぬれば、昔ありし家は稀なり。或は去年焼けて、今年作れり。或は大家ほろびて小家となる。住む人もこれに同じ。所も変らず、人も多かれど、いにしへ見し人は、ニ三十人が中にわづかにひとりふたりなり。朝に死に夕に生るるならひ、ただ水の泡にぞ似たりける。知らず、生れ死ぬる人いづかたより来りて、いづかたへか去る。また知らず、仮の宿り、誰がためにか心を悩まし、何によりてか目を喜ばしむる。その主と栖と無常を争ふさま、いはばあさがほの露の異ならず。或は露落ちて、花残れり。残るといへども、朝日に枯れぬ。或は花しぼみて、露なほ消えず。消えずといへども、夕を待つ事なし。」(解説はこちら
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独楽の安定、ゆく河の流れは絶えず、すなわち諸行無常です。絶えず移ろい行く、無常である、これは取りも直さず「新陳代謝」だと思います。口の中の粘膜は三日で再生、皮膚は一週間で再生するそうです。三ヶ月経つと体全体の細胞がほぼ全て入れ替わるそうです。三ヶ月前のあなたと今のあなたは細胞レベルでは別人とも言えます。高校二年から大学卒業までの八年間銭湯通いでした。体を洗いながらふと「一番キレイなのはこのタオル」だといつも思っていました。このタオルが、きれいである為に人々を銭湯に通わせているのではないのか・・日々いつも使っているものほど、汚れが残りにくくキレイが保てるのではないかと思います。
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無事の人から、自転の安定、無常観、新陳代謝と話しがすっ飛びました(笑)が、生物=新陳代謝と言えるでしょう。生きていることは新陳代謝=無常です。その行動も無常です。無事の人になるべく、普通の人が普通に生きていると、普通に(人並みに)病気になります。食欲で食べ、睡眠欲で眠るなど一見普通に思われる生活を送ると、病気になります。無常が人の常ならば、歯を失うことも人の常なのかも。人の常に逆らうのが予防であり、若々しくありたいと思うアンチエイジングです。加えて前回の「コマと自転車」でも書いたように、歯だけは体の中で新陳代謝しません。こう考えると予防にはちょっとした踏ん張りが必要です、食後の歯磨きも必要です。無事の人になるためには無事でない生き方が必要と今回結論づけます!減欲するか努力するか、あんパンをとるか引き締まった体をとるか。やはり無事の人になるのは少々難儀なことのようです。流れにちなんで今回の曲はエンヤのオリノコフローです。オリノコ川についてはこちら。1750 twitterは@hide1961 です。

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