BBTime 499 知るほどに
「神のみぞ知ることの多すぎる春」稲畑廣太郎
「春」には、ちと早いのですが・・『平成二十二年三月、と前書きがある。この一年後の平成二十三年三月から今日までのさまざまを思うとまさに、多すぎる、が今現在の実感として伝わってくる。掲出句が生まれたきっかけは何か個人的なことだったのかもしれないが、クリスチャンである作者の神に対する思いは常日頃からきっと深く、全ては神の思し召し、と受け止めていたと思われる。それでもそれにしても、と口をついて出た言葉がそのまま一句となっている。大地が芽吹き花が咲き、多くの人生の門出が祝われるこの季節に、その人生が思いもよらない方向へ行ってしまう出来事が次々起きる昨今。五、五、五、二、の破調が、そんな不本意な春をこの先もずっと語り残す。『玉箒』(2016)所収』(解説より)。東日本大震災は2011年平成23年3月11日、阪神・淡路大震災は1995年平成7年1月17日のこと。
「神のみぞ知る」と発言してブーイングを受けた大臣もいましたが、この世はまさに「神のみぞ知る」「一寸先は闇」です。明けたばかりの2021年もこの先どうなるやら。今回は違う意味合いの「知る」について。
洋書「CHIC SIMPLE」の前書きに「The more you know, the less you need.」とあります。訳せば「知るほどに、必要なくなる」でしょうか。前回「人生の触媒」に書きましたが、まさに小生にとってのいいモノは「The more you know, the less you need.」です。ちなみにこれはアボリジニの言葉です。
学生時代に「閾値:いきち・スレスホールドthreshold」を習いました。例えば「痛い」・・人によって痛みの感じ方(痛いか、痛くないか)は異なります。痛みに対する閾値が低い人は、ほんの少しの刺激でも「痛い」と感じ、閾値の高い人は言わば「痛みに強い」「痛みに鈍感」となります。閾値とは、その人のその物事に対する物差しであり、最低限の基準と言えましょう。
話を「知るほどに」に戻します。スペシャリティ珈琲を知って外食の際、デザートと共に供される珈琲が飲めなくなりました。選択肢があれば別の飲み物にします。それまで珈琲は黒っぽく苦いもので、ミルクと時に砂糖も加えないと飲めないと思ってました。確かにコーヒーの歴史ではストレート珈琲は亜流です。今ではストレートで飲む方が小生にとっては本流です。ワイン・焼酎も同様で、小生が教授と呼ぶ方(酒店店主)に出会って以降、その店で売ってあるワイン・焼酎しか飲みません(さすがに外食時、そうはいきませんが)。
パスタやピザに関しても同様で、新店情報を得たら調査には行きますが、定番店は数店のみです。結果的にトンカツならここ、パンならあそこ、おでんなら・・と閾値となる店があります。知れば知るほどに閾値は上がり選択肢は狭まります。まさに「知るほどに悩まない」となるのです。これはモノに関しても同様!
「神のみぞ知る」・・人には知り得ないことが多々あるのも事実です。我のみぞ知る・知り得ることがあるのも事実です。ステイホームを利用して「我を知る」ことも面白いのではないでしょうか。「己を知るほどに欲少なし」。できれば「口の中も知る」・・鏡で見ることもやって頂きたいと思うのです(笑)。鏡でウイルスは見えませんが、ウイルスの棲んでいるであろう箇所(歯の汚れ)、好みそうな状況(汚れている状態)を見ることはできます。皆さま、ご自愛の程ご歯愛の程。6740