BBTime 670 霜月晦日

「あたたかき十一月もすみにけり」中村草田男

2024/11/30投稿
 今日は霜月晦日(みそか)明日から師走。今年の霜月は、まさに掲句。句の解説は『旧版の角川書店編『俳句歳時記』には、この句と並んで細見綾子の「峠見ゆ十一月のむなしさに」が載っている。長年親しんできた歳時記だから、毎年この時期になると、二つの句をセットで思いだすことになる。並んでいるのは偶然だが、いずれもが、十一月という中途半端で地味な月に見事な輪郭を与えていて、忘れられないのだ。忙中閑あり。……ならぬ、年の瀬をひかえて「忙前閑あり」といえば当たり前だが、両句ともそんな当たり前をすらりと表現していて、しかもよい味を出している。ただ草田男句の場合は、どちらかといえば玄人受けのする作品かもしれない。(清水哲男)』(引用元)。今回はオレンジページネット版掲載拙記事のご紹介です。冒頭画像は今朝(11/30)のお姿(桜島)7:47。

1)9/27掲載分「栗のスイーツ」
「栗饅頭に栗は入っていますか?」との問いに、おそらく殆どの方が「入っているから栗饅頭でしょ」と答えられると思います。本来はさにあらず・・あくまでも栗の実に似ているので栗饅頭だったのです、当初は。ブログ中にも紹介していますが「新和菓子噺」(薮光生著)には『ひと昔までは栗が入っていないのが普通でした。小判型をした焼き菓子で、白餡だけしか入っていなかったのです』(114頁)。

次のように続きます。

ご納得いただけたでしょうか。実は先日「きつねうどん発祥の店」で狐の肉は入っていない狐うどんを食べてきました。大阪市の「うさみ亭マツバヤ」です(詳しくはこちら)。

つゆは意外と薄味で、長方形の油揚げにしっかり味が染み込んでいました。発祥店はひと味違うと痛感しつつ店を後に。

さすがの味!お値段手頃、是非一度ご賞味あれ。
本題に戻ります。栗のスイーツはこちら

2)ワインの楽しみ方について。
画像はおやつ堂のマークをあしらった赤ワイン(仏)です。「ワインの楽しみ方」はこちら。と言うことで、明日から師走です。皆様、ご自愛の程ご歯愛の程

BBTime 669 入れ歯洗い

「地玉子のぶつかけご飯今朝の冬」笠 政人

2024/11/18投稿
画像は今朝11/18のお姿(桜島)です。立冬(11/7)は、とうに過ぎたものの残暑のような暑さでしたが、今朝はやっと冬の足音が聞こえてきそうです。年年歳歳、秋が短くなってます、そのうち秋が消滅して四季から三季、春も消え二季となるのでしょうか。句の解説は『季語は「今朝の冬」、立冬のことだ。雪の便りもちらほらと聞こえてくる。まだ東京あたりではそんなでもないが、もう名実ともに冬に入っている地方もあるだろう。長くて厳しい季節のはじまりである。作者は、そんな寒い地方の人だろうか。ほかほかのご飯に玉子をぶっかけて、勢い良く掻き込んで食べている。さあ「冬よ、やってこい」と、身構えている。わざわざ「地玉子」と玉子に「地」をかぶせたのは、新鮮で栄養価の高い玉子をイメージさせることで、句の勢いを増すためだろう。単に玉子と言うよりも、よほど迫力が出る。すぐに連想したのは、高村光太郎の詩集『道程』に収められている「冬が来た」だった。昔、小学校の教室で習った。「きっぱりと冬が来た/八つ手の白い花も消え/公孫樹の木も箒になった」というのだから、季節的にはもう少し寒くなってからの詩だ。最後の二連は、こうなっている。「冬よ/僕に来い、僕に来い/僕は冬の力、冬は僕の餌食だ//しみ透れ、つきぬけ/火事を出せ、雪で埋めろ/刃物のような冬が来た」。こちらも相当な迫力で、子供のときにも圧倒された。掲句の作者にしても光太郎にしても、とにかく若くて元気だ。若くて元気でなければ、こういう詩は書けない。そこへいくと今の私などは、冬と聞くだけでへなへなとなりそうだ。あ~あと、溜め息の一つもついてしまう。これではならじ。句の作者にならって、今朝はいっちょう、ご飯に玉子をぶっかけて食うことにしようかな。今日、立冬。『新版・俳句歳時記』(2001・雄山閣出版)所載。(清水哲男)』(引用元)。卵ご飯の後もしっかり洗いましょう、入れ歯洗いについて(セミナー用の内容です)。

卵かけご飯に限らず食後にはお椀やお皿を洗います。入れ歯は口の中の食器です。食具(しょくぐ)という言葉があります。食事に用いる器具、食器などを意味します。歯も食具と言えます。お店に限らずご自宅でもほとんどの方は、洗ってあるキレイな食器に料理を盛って、キレイな箸やスプーンで食事されます。美味しいのためにも、健康のためにも!

お皿と入れ歯の違いは「表面」です。簡単に表現するならば、お皿の表面はツルツルです。入れ歯の表面はヌルヌルです。陶磁器の表面には釉薬(うわぐすり)がかけてありツルツルです。食器用洗剤の入った水に、汚れたお皿をつけておくと汚れは浮いてきます。かたや入れ歯の表面は拡大すると凸凹(多孔性)しています。この凸凹に水が入り込むために入れ歯はヌルヌルしているのです。ソフトコンタクトレンズと似たような表面構造と思ってください。この凸凹に常に水が入り込みヌルヌルしているので口の中にあっても(形に問題なければ)痛くないのです。

お皿と違って入れ歯の洗い方は異なります。入れ歯洗いは汚れを物理的に除去することが基本です。洗面器に水を張り、流水下でのブラシ洗いがおすすめ。その後に洗浄剤使用がベターでしょう。つけ置き時間は製品によって様々ですので、パッケージの説明書きをお目通しください。次の表の引用元はこちら。洗浄後(洗浄液から取り出したら)水洗いして水につけておいてください。外出時や移動時には濡れたティッシュで包んでジップロックでも構いません、乾燥が良くありません。

最後に夜は外すか?着けたままか?
1)上下のご自分の歯が噛み合う人→外して寝てもOKです
2)ご自分の歯が噛み合わない人→可能であれば、どちらか着けてお休みください。
3)一晩洗浄液につけておく必要はありません。
4)就寝中の使用に関しては「BBTime 352 口の中へ」もどうぞ。

入れ歯は口の中の食器。キレイな食器でキレイなスプーンで美味しく食べたいものです。皆さま、ご自愛の程ご歯愛の程。

BBTime 668 浸透圧

「いちまいの皮の包める熟柿かな」野見山朱鳥

2024/11/02投稿
 鹿児島市は日によっては暑く未だ秋ではなく晩夏です。秋は来るのでしょうか。句の解説『掌に重い熟した柿。極上のものは、まさにこの句のとおり、一枚の薄い皮に包まれている。桃の皮をむくよりも、はるかに難しい。カラスと競い合うようにして、柿の熟れるのを待っていた我ら山の子どもは、みんな形を崩さずに見事にむいて食べたものだった。山の幸の濃密な甘味。もう二度と、あのころのような完璧な熟柿を手に取ることはないだろう。往時茫茫なり。なお、この句には、同時にかすかなエロスの興趣もある。『曼珠沙華』所収。(清水哲男)』(引用元)。今回は本来の意味とは異なりますが「浸透圧」について。

本題に入る前に御報告ひとつ。前回「湯島通れば」に書きました・・ご家族と話す機会があれば「お母様の好きな歌手は?」と聞きます。ある時は「お富さんです、母の名前がトミ子ですから」でした・・訪問診療行ってきました、この唄を自信たっぷりにかけました。この高齢女性、予備検診時には「なにも困っちゃおらん」「誰が歯医者を頼んだ?」「息子が歯医者を呼ぶはずがない」など、取り付く島もない反応。ということで息子さん同席で診療開始。お二人(母と息子)のやりとりはまさに漫才、さすが息子さん。お母様のネガティブ発言にもうまく対応されてます。2回目の開始に「お富さん」流したところ、歌詞が「・・死んだはずだよ お富さん・・」すぐさま「わたしゃ生きてるよ!」とお母様も大笑いでした。

さて本題「浸透圧」について。イラストはこちらから引用しました。ナメクジに塩をかけると、ナメクジは縮みます。この理由(原理)が浸透圧です。引用すると『半透膜はんとうまく両側りょうがわさのちがう食塩水しょくえんすいがあるとき、両方りょうほうさをおなじにしようとする圧力あつりょくのことを「浸透圧しんとうあつ」といいます』(引用元)。ナメクジに塩をかけると、ナメクジの表面の方が塩分濃度は高くなります。するとナメクジ体内の水分が、ナメクジの皮膚(半透膜)を通して外にひっぱり出されるので、ナメクジが縮むのです。

先日、坐禅中のこと。道場内は機会音ゼロです。その日は他の方の息遣いも聞こえません。たまに周りの道ゆく車のエンジン音と小鳥の声だけ。言わば浸透圧の逆のようなことを感じました。濃度の高い頭の中が、次第に周りの無音・静寂の濃度の低い方へ流れ出るような感覚。脳内の雑音・煩悩・迷いなどが徐々に薄らいでいくようでした。汚れたものを洗い清めるような、汚れた水が清くなるような、とも表現できます。

ある時、和尚さん曰く「坐禅中は感覚が鋭くなっており、目の前にある線香(タイマー替わり)の灰の落ちる音が「ドサッ」と聞こえるんです」。脳内の雑音・雑念が薄まると感覚が研ぎ澄まされるのでしょう。お寺の境内に銀杏の大木があった頃、坐禅中に銀杏の実が地面に落ちる瞬間、確かに「ボトッ」とはっきりと聞こえた記憶があります。

日常はこの真逆でしょう。テキスト情報・画像・動画・SNS、音声電話、メール、LINEなど次から次から洪水のように押し寄せてきます。当然のこと、頭の中は雑音だらけ煩悩だらけとなります。情報や感情でごちゃごちゃの脳に冷静な判断ができるでしょうか。

坐禅初心者が来られると担当の方が「映画を見るように頭に浮かぶことを次から次へと流してください」と説明されます。流して流して空になって「無」に近づくのでしょうか。今の日常はあまりにも多すぎます。夏に引っ越した時に自戒として痛感しました。

自己所有テレビで見た最後の番組は「おしん」(途中まで)でした。車を手放して九年。次にやめるのは年賀状ですかね。「放下著:ほうげじゃく」という禅語があります。何もかも捨てちまえ!の意です(こちら参照)。到底小生には無理ですが万分の一でも近付きたいと思います。皆様、ご自愛の程ご歯愛の程。

https://youtu.be/iuuaFrnj-IY?si=tJDGXeMauN0i2SN7

おまけ:おやつ堂が南日本新聞10/27朝刊に載りました。
たのし味(み)めぐり