BBTime 677 Abc

「なずな咲くてくてく歩くなずな咲く」小枝恵美子

2025/02/28投稿 3/3追加
気が付いたら如月も終わり!句の解説『なずな(漢字では「薺」と難しい字を書く)は、陰暦正月七日の七種粥に入れる七草の一つなので、単に「なずな」だと、歳時記的には「新年」に分類される。が、花が咲くのは早春から梅雨期にかけてであり、掲句の場合には「薺の花」で春。またの名を「ぺんぺん草」とも「三味線草」とも言う(こちらのほうがポピュラーか)。さて、この句の魅力は「てくてく」にある。「歩く」といえば「てくてく」など常套的な修辞でしかないが、実にこの「てくてく」の用法は素晴らしい。いたるところに咲いているなずなの道を行く気分は、別にいちいち花を愛でながらというわけでもないので、むしろ常套的な「てくてく」がふさわしいし、句の情景を生き生きとさせている。「むしろ技巧的に思われるほどだ」と句集の栞で書いた池田澄子は、さらにつづけて「そこここに咲いている『なずな』と、そのことを喜び受け止めながら歩いている人物は、春を輝く万物の細部としての代表である」と述べている。これまた素晴らしい鑑賞だ。春の道は、こんなふうに「てくてく」と歩きたい。なお「なずな」を「ぺんぺん草」「三味線草」と呼ぶのは、その実を三味線のバチに見立てたことにちなむそうだ。今日調べてみるまでは、つゆ知らなかった。『ポケット』(1999)所収。(清水哲男)』(引用元)。さて今回は「abc」の「A」、abcとは歩くa、口から食べる(バイト)b、きれいにする(クリーニング)c、についてのお話。

「ABC=歩く・食べる・キレイにする」について考えるようになったのは、訪問診療に携わるようになってのことです。ご存じかと思いますが「2025年問題」を日々耳にします。小生、施設の職員さんに話します「残念ながら、もしあなた方が将来、要介護になっても今あなた方が行なっているような介護は受けられないかも知れません」と。必要なのは、考え方を変え「介護予防=亡くなる直前まで自立する・できる」、介護を受けられないのならば、介護を極力必要としない生き方に「今日」から変えることです。まずはA=歩くについて。

ヒトの定義においてまず挙げられるのが「直立二足歩行」です。直立二足歩行する生き物が「ヒト」ならば、極端な表現ですが直立二足歩行しない・できなければ「ヒトにあらず」とも言えます。しかしどうでしょう、周りを見渡すと・・。ちょっとそこのコンビニ行くのも車、デスクワークにおいては座りっぱなし、小学校から大学まで授業中はほとんど椅子。足に問題がない人も「歩いていない・歩かない」日常になってます。

小生、ほぼ毎日一万歩は歩いております。歩きにシフトしたきっかけは3つ。
1)きっかけ1:車が無いこと。車を手放して9年になります。当然、公共交通機関を利用し歩いて自転車に乗ります。
2)きっかけ2:アップルウォッチ。時計が「Move」「Exercise」「Stand」を計測してくれます。日々の目標を設定し達成するようになりました。
3)きっかけ3:睡眠の波形。ウォッチで睡眠をトレースできます。以前は片道8キロ弱を自転車通勤。ある時、気がつきました。自転車通勤日の睡眠波形よりも、路面電車と徒歩通勤の波形の方がキレイなのです。それ以来、電車+片道徒歩30分通勤に変えました。

現生人類は約五万年前にアフリカから出て世界中に進出していきました。それを可能にしたのは「直立二足歩行」で、歩いてこそ「ヒト」であり、歩いてこそ「人」なのです。にもかかわらず人々は車に乗り、椅子に座り・・。

2025/2/2 朝日新聞「天声人語」、次のように続きます。

〈歩け、歩け/どんなものが出て来ても乗り越して歩け/この光輝く風景の中に踏み込んでゆけ〉・・歩くからこそ「乗り越して歩け」ができるのです。自転車でも車でも段差があると進めません。道がなければ車や自転車では進めません。しかし人生は〈僕の前に道はない/僕の後ろに道は出来る〉のです。歩きであれば道なき道を「乗り越す」ことも可能です。日々毎日、歩いていると、歩くことは単なる移動手段ではなく、ヒト・人の生き様に深く関わっている気がしてならないのです。

2/8の桜島、雪化粧しております。小生、カフェ日は朝、歩いて桜島に会いに行きます。鹿児島はようやく寒さが抜けました。徐々に歩く季節が近づいて来ました。薺を見つけに歩きましょうか。では皆様、ご自愛の程ご歯愛の程。

追加(3/3)「歩く」についてオススメの一冊

この著者「池田光史氏」を知ったのはYouTubeでした。ひょっとすると多くの方が「歩く=面倒臭い・疲れる」のイメージをお持ちかも知れません。本に「歩くのってこんなに楽しかったっけ?」とあります(2頁目)。ヒトがアフリカを出て世界の果てまでたどり着いたのも「楽しみ・心地良さ」を彼らが身体感覚として感じていたからだと思います。「人間の幸せは、動物として快調かどうかにかかっている」(8頁目)。御意!

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です