BBTime198 錯覚
「雪の朝二の字二の字の下駄のあと」田 捨女

先日の今年初冠雪の桜島です。この句はおおよそ380年前1639年頃に詠まれたそうで、驚くことに作者(田ステ)六歳。彼女は芭蕉より11歳年上で交流があったそうです。今時(平成30年)雪の朝に下駄で歩く人はいませんが、彼女の見たであろう光景は容易にイメージできます。また俳句には「五七五」のリズムがあります。この句はさらに「の」が5回も繰り返し使われており、一度聞いたら忘れないテンポを醸し出しています。五文字の「の」、三分の一が「の」です。句をジッと見ていて与謝蕪村の「菜の花や月は東へ日は西へ」(1774年旧暦2/15)を連想しました。これは漢字と平仮名が交互に使われています。「雪の朝二の字二の字の足の跡」としなかったところが捨女の非凡さでしょうね。連想というより錯覚についての一言。追加:ネットで調べてみると「下駄の跡」の表記も見られます。いずれにせよ、当時六歳の女性が詠んだ俳句がきちんと残ったということが驚きであり、「名句」であることの証明でしょうね。

年末からNHKラジオ聞き逃し番組「人間を考える より良く生きる」第1回花園大学教授仏教学者:佐々木閑氏の話を繰り返し聴いています。そこに出てくる言葉が「六根」と「錯覚」です。六根とは「眼根(視覚):目」「耳根(聴覚):耳」「鼻根(嗅覚):鼻」「舌根(味覚):舌」「身根(触覚):皮膚」「意根(意識):脳」です。人はこの六根を使って生きているが、錯覚する生き物であるとのこと。

二つの赤丸はどう見ても左が大きく見えますが、物差しで測ってみると同じなんです。講演では錯覚を錯覚と知った上で生きるのか、錯覚を事実のように受け止めて生きるのでは大きく違ってくると言うわけです。話の中では視覚のみならず他の五根も同じく錯覚を起こすとのこと。以前話題になった「プリン+醤油=雲丹」は味覚の錯覚。いろはすの味付き砂糖入り水は嗅覚・味覚の錯覚等々。

丸の絵は物差しで測ることで錯覚と知ることができます。問題なのは個人個人で錯覚と確認できない錯覚とのこと。先日も「缶コーヒームシ歯」の人(20代男性)を発見!ムシ歯のでき方が尋常ではないので「缶コーヒー飲んでますか?」とお聞きしたところ「はい、仕事中に飲んでます」。これも錯覚!前々回「病気」も錯覚。御本人は体に良かれ、心に良かれと錯覚して缶コーヒー飲んだり、ゲームをしたり。講演では本人が確認できない錯覚を解くのは難しいと話が続きます。宗教とは人々の苦しみを少しでも軽減し、より良い生き方に導くのが宗教とのこと。

小生は毎朝、保温機能なしのマイボトルにお茶か紅茶持参です。缶コーヒームシ歯の方には次のようにアドバイスしました。「缶コーヒーをキッパリやめるか」「缶コーヒー飲んだ後に歯磨きは無理でしょうから、せめて水やお茶でうがいだけでも」「ブラック、無糖、甘さ控えめなどの表示はイコール砂糖ゼロとは言えないものもあるので要注意」「表示も炭水化物と記載してある」等々。

「二の字二の字」から「下駄のあと」を連想可能ですが、大人の方でも実際の光景(下駄のあと)を見た人はどれくらいいらっしゃるでしょうか?連想と錯覚は紙一重だと思います。仏教において五感(五根)に六根目(心・脳)を加えているのは大正解です。余談ですが、「どっこいしょ」の語源が六根清浄だとも言われています。3430
今回の一言「錯覚は錯覚と知るべし」
今回の一曲「イメージ」
下駄とくれば、やはりこの歌でしょう。
https://youtu.be/2va2GuF3Uig
ムッシュかまやつ氏は昨年鬼籍に入られました(2017.3.1享年78歳)。なんと次の歌もこの人でした。はじめ人間ギャートルズのエンディング曲。
ラストは「足の跡」です。
ムッシュかまやつ氏の言葉を見つけました。折々のことば 2017/10/22朝日新聞朝刊
910「自分のデッドラインさえ超えていれば、デカイ顔をしていられるのだ。ムッシュかまやつ」「プライドを捨てず、自然体でいられるギリギリのラインを設定して、それより下にはいかない」と決めてしまえば、気後れすることなく生きてゆけると、元ザ・スパイダースの歌手は言う。しかもその線はできるだけ低めにと。世間に合わせず自分の波長はこれだと決めると、自分の感性を傷めずに「とぼけた顔して」生きてゆける。音楽と交遊をめぐる自伝『ムッシュ!』から。(鷲田清一)折々のことば
カテゴリー: 健康
BBTime196 病気
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「竹馬やいろはにほへとちりぢりに」久保田万太郎

「竹馬」が冬の季語とは知りませんでした。記事(俳句一口講座)には「どの季節にも遊べそうな気がしますが、冬の季語になっています。もともとは川を渡るときや降雪の際に使われる生活用具だったそうで、そんなところから冬のものという意識が定着したのではないでしょうか」とあります。同じく「竹馬」がアマゾンなどで売られているのも驚きでした。もっとも竹製ではありませんがね。

年明け早々気になる記事を見つけました。「ゲームのやり過ぎで日常生活に支障をきたす症状、WHOが疾病分類へ」との見出し。端的に言うと新たに「ゲーム病・ゲーム症」を定義し、診断されれば患者として治療が必要であるとのこと。

いやはや・・です。小生とコンピュータゲームの出会いは高校時代、喫茶店設置型のインベーダーゲームでした。当時ワンコイン(百円)で1回。鹿児島の公立高校でしたので即禁止。学校近くの喫茶店で密かに興じていると「そげん面白かや(そんなに面白いのか)?」との声。横を見ると補導係の先生、瞬間凍りつき敢え無くゲームオーバー・・その後マリオ登場です。

「遊びを遊ぶ 安田武」 凧(たこ)あげ、蝉(せみ)とり、竹馬、お手玉、綾(あや)とり、花いちもんめ。すっかり見かけなくなった昔の児戯には二つの特徴があった。自然を相手に「ゆっくりと、のびやかに」遊ぶこと。勝ち負けを競うものではないこと。遊びは「合理性を拒否する」ものなのに、余暇として計画したりすれば、遊びを再び合理性の中に閉じ込めることになると、評論家が一昔前警(いまし)めていた。『遊びの論』から。2017.9.10 (鷲田清一「折々のことば」/朝日新聞連載)
本来、大人にとっても子供にとっても「遊び」とは楽しむもの癒すもの育むもの。逆に蝕むものならそれは遊びではなく毒や害です。9900

かたや、このような記事も。
「スイッチ、1家に1台?1人1台? 任天堂社長一問一答」揶揄(やゆ)するならば「一家に一害、一人一毒」です。自己責任ではなくゲーム機そのものに「時間制限自動ロック」が付いているば別ですが。人が創り出したもので病気になるとすれば妙な話です。「癒し・楽しみ」と「害・中毒」は紙一重。食べ過ぎると太ります、飲みすぎると酔っ払いますが、ゲームは少々異なります。太らないし、酔わないし、さほどお金を使い過ぎるでもなし。だからこそ恐いのではないでしょうか?所詮ゲームでありエンターテイメントであるべきものが「毒」になるとは・・トホホ。
https://youtu.be/mnipB_8Br8U