BBTime 658 成功の法則

「六月を奇麗な風の吹くことよ」正岡子規

2024/06/07投稿
今朝(6/7)の桜島です。句の解説は『前書に「須磨」とある。したがって、句は明治二十八年七月下旬に、子規が須磨保養院で静養していたときのものだろう。つまり、新暦の「六月」ではない。旧暦から新暦に改暦されたのは、明治六年のことだ。詠まれた時点では二十年少々を経ているわけだが、人々にはまだ旧暦の感覚が根強く残っていたと思われる。戦後間もなくですら、私の田舎では旧暦の行事がいろいろと残っていたほどである。国が暦を換えたからといって、そう簡単に人々にしみついた感覚は変わるわけがない。「六月」と聞けば、大人たちには自然に「水無月」のことと受け取れたに違いない。ましてや、子規は慶応の生まれだ。須磨は海辺の土地だから、水無月ともなればさぞや暑かったろう。しかし、朝方だろうか。そんな土地にも、涼しい風の吹くときもある。それを「奇麗(きれい)な風」と言い止めたところに、斬新な響きがある。いかにも心地よげで、子規の体調の良さも感じられる。「綺麗」とは大ざっぱな言葉ではあるけれど、細やかな形容の言葉を使うよりも、吹く風の様子を大きく捉えることになって、かえってそれこそ心地が良い。蛇足ながら、この「綺麗」は江戸弁ないしは東京弁ではないかと、私は思ってきた。いまの若い人は別だが、関西辺りではあまり使われていなかったような気がする。関西では、口語として「美しい」を使うほうが普通ではなかったろうか。だとすれば、掲句の「綺麗」は都会的な感覚を生かした用法であり、同時代人にはちょっと格好のいい措辞と写っていたのかもしれない。高浜虚子選『子規句集』所収。』(引用元)。鹿児島はそろそろ梅雨入りですが、晴れの朝はまさに句のような風が吹きます。
ほぼ日から「成功の法則」について。

最後の文章「アイディアの総量が足りてないと思う」で思い出しました。
Steve Jobs「ほとんどの人は十分な時間やエネルギーをかけていない」
Most people just don’t put in the time or energy to get there.

「何か問題を解決しようとしたとき、最初に思いつく解決方法は非常に複雑なので、ほとんどの人はそこで考えるのをやめてしまう。ここでさらに考え続け、問題を胸に抱き、タマネギの薄皮を剥き続ければ、しばしば、非常にエレガントでシンプルな解決策に到達できる。ほとんどの人は十分な時間やエネルギーをかけていない。我々は、消費者は洗練されており、よく考え抜かれた商品を望んでいると信じているんだ」(アエラ付録より)。
かのジョブズさえ「しばしば」としているのは深いです。

昨日(6/6)で26周年(365×26=9490)約9500回。ほぼ日「今日のダーリン」は続いていることになります、一日も休まず9500回、これが誠実!・・簡単には「成功」に辿り着けません。皆様、ご自愛の程ご歯愛の程。

BBTime 657 生きるヒント

「花柘榴生きるヒントの二つ三つ」森 慎一

2024/05/25投稿 5/31加筆 6/4追加
まさに「時不待人:時人を待たず」早くも五月下旬です。句の解説は『こころが瞬間にぶつかって句が成る。よくあることなのだろうか。人事句でありながら、花石榴(はなざくろ)の実が一樹にぽつりぽつりとあるのを、永年見つづけてきた人の句。花はたくさん咲くが、実は少ない。やはり、二つ三つ。『風のしっぽ』所収』(引用元)。解説を読んで混乱するのは柘榴の花と実の時期です。花柘榴(柘榴の花)は初夏五月から七月、実は十月から十一月です。今回はセミナーのネタとして「生きるヒント=健康に老いる」について。

訪問診療に行き始めていろいろな気付きがあります。当たり前ですが、最後まで食べられます。コミニュケーションが取れなくなっても、ご家族のことがわからなくなっても、食事されます。食べるということは「口腔ケア」が必要になります。・・・先日ラジオを聴いていて合点しました。

ラジオ登場は「澤田誠:さわだまこと」氏。
かいつまんで話していきます。
1)脳は100%使われている!
『脳は考えたり記憶をしたりする以外にも、身体を動かしたり、内臓を制御したりしています。眠っているときでさえ脳はせっせと働いていて、起きているときよりも活発に活動する脳部位もあるくらいです。一部分だけが動いて、他の部分が休んでいるということもなく、全ての部位がそれぞれの役割を果たしながら、協調的に活動しています。』(引用元)。
*有意識下では数%しか使われていないが、正しい解釈のようです。いろいろなことを忘れても(記憶を引き出せなくても)食事はできるのです。
*「あなたはだあれ?」なのにご飯を食べる・・脳の約95%は生きることに使われています。一般的に言う「記憶」は脳のほんの数%が行う作業でしかありません。

2)使わない記憶は劣化していく!・・去る者は日々に疎し
『記憶を保管するネットワークは活性化されると、そのつながりが強化されます。逆に、あまり使われないネットワークのつながりは弱くなります。よく使う記憶は強化され、使わない記憶は劣化していくのです。非常に合理的な仕組みです』(引用元)。
『脳は非情ともいえるほど合理的です。使わない記憶は必要がないと判断して、ネットワークを作るのに必要なシナプス(神経細胞の連結部)を刈り取っていきます。その結果、ネットワークのつながりは弱くなり、最終的に記憶は失われます』(引用元)。
『きちんと覚えていた記憶も、思い出さないでいると、少しずつ薄れていきます。そのおかげで、私たちは過去と現在を区別することができます。昨日朝食をとった記憶が、食べた直後と同じように今日もありありとよみがえってしまったら、「もう朝ごはんを食べ終わった」と勘違いしてしまいますが、実際には、そのようなことは起こらないのは、脳に忘れる仕組みが備わっているおかげです』(引用元)。
*食べたばかりなのに「ご飯は?」・・まさに生きるために脳が働いている証拠です。何度もトイレに行きたい・・これも同じ、排泄しなければ健康を害する(生命に危険が及ぶ)ので脳が働きます。

3)思い出は美しすぎて!(記憶違いは必然)
『情報を長期的に取っておく「長期記憶」は大脳新皮質の神経細胞のネットワークに保管されていますが、思い出ごとに1つにまとめられて、1ヵ所に保管されているわけではありません。要素ごとにバラバラに別の場所に保管されています。そして、思い出すたびにそれぞれの保管場所から呼び出されて、ひとまとまりの記憶として再構成されるのです。』(引用元)。上下ひと揃いの服を上下バラバラ(ジャケットとパンツ(ズボン)にわける)にしまうようなことです。では、なぜこのようにするのか?
『記憶は、未来に役立てるための貴重なデータベースです。未来の生存確率を少しでも上げるために、脳は苦労して情報を取り込み、取り込んだ情報を取捨選択して整理し、記憶として保管しているのです。記憶があれば、過去に経験したのと似たような出来事があったときに、より適切な対処方法を考えることができます』
『ひとまとまりに保管しない方が、応用範囲が広がります。実際には、脳は、もっともっと細かく分けて保管しています。そして、さまざまなシチュエーションに応用できるように備えているのです』(引用元)。
『記憶はオーケストラに似ています。オーケストラの音楽を作るのは、いろいろな楽器の奏者たちの奏でる音です。大勢の奏者によって奏でられる曲がひとまとまりの記憶です』
『このようなことを繰り返していくと、本来とは別の奏者が間違って演奏した曲や、多くのメンバーが欠けた曲のほうが上達してしまい、元々の曲自体(つまりは元々の記憶)が変わってしまうのです』(引用元)。
*その方のおっしゃるストーリーの場所や時期が異なるのはこのためです。

4)隠れ脳梗塞
『神経細胞が加齢で死ぬ主な原因は、血流不足です。脳は体重の40分の1程度の重さしかありませんが、身体全体の約2割の酸素を消費します。酸素を消費するのは脳にある細胞たちです。すべての細胞に酸素を届けるために、隅々まで細かい血管が張り巡らされています』
『年を取って、動脈硬化などで血管の内側が狭くなると、その細い血管内まで血液が流れにくくなります。また、悪玉コレステロールや糖が多い血液によって血管が傷つけられたり詰まったりします。年齢を重ねていくと自覚できないほど小さな脳梗塞が脳の中で起こる確率が高くなるのです。その隠れ脳梗塞が起こると、そこから先で血液を待っていた神経細胞は死んでしまいます。小さな脳梗塞は健康な40代で3割、60代になると7割の人に見られると言われています』(引用元)。
『過度な飲酒習慣の継続は、確実に脳に悪影響を及ぼします。脳も臓器のひとつですから、身体の健康と精神や知的活動の健康は、直結しています。飲酒習慣によって睡眠の質が悪くなったり、栄養バランスが悪くなったりして、身体の健康状態が悪化すると、脳にも影響するからです。   脳の細胞を少しでも減らさないために私たちにできることは、たくさんあります。血管の健康を保ち、適度な運動をし、質の良い睡眠をとりましょう』(引用元)。
*生活習慣病:体重や体型、血液検査のデータは意識しますが、脳の数値データは健康診断には現れません。脳も臓器!お忘れなく。

5)認知予備能とは
『認知症の傾向は40代から始まっていると言われています。認知症を予防したいという人は、なるべく若いうちから、脳をいたわり、運動や充分な睡眠など、身体によいことを始めるとよいでしょう』
『高齢者の死後脳の解剖研究から、明らかに認知症を発症しているだろうと思われる脳の状態でも、生前はまったくその症状が認められなかったという例が報告されました。脳の損傷や変性があっても、柔軟で豊かな脳であれば、認知機能が保持される「認知予備能」があると考えられるようになりました』(引用元)。
『認知予備能は、高齢になっても人との交流を絶やさなかった人に見られることが分かっています。人との交流は脳の複数の部位を活性化させます。専門的で高度な仕事をしているだけでは、脳は限られた箇所しか使われません。長い間使われなかったシナプスは刈り取られ、細胞も死んでしまいます。   普段とは違う余暇活動や、人との交流を絶やさないことによって、さまざまな部位の脳の細胞を活性化させておけば、細胞の数が減っていっても機能を保つことができるでしょう』(引用元)。
*認知予備能をしっかり持つためには・・まずは「感謝の意を伝える」ことでしょう。声に出してジェスチャーを添えて!より多くの人と交流するためには、あなたが相手から受け入れられなければ無理です。常に好奇心を持って人との交流をすることが予備能を保つコツです。
*現在、介護職に携わる方は予備能保持にプラスで有ると言えましょう、ただしストレスが多くなければ・・ですがね。

6)意思ではなく記憶が将来を決める!
『将来の認知症のリスクが心配になってきた世代の人たちにとっては、記憶力という言葉を聞くと、ぎくりとしてしまうかもしれません。何か物忘れをするたびに、もしかして自分は認知症になってしまったのではないかと不安になるからです』(引用元)。
『私たちの脳はまず生き残り、そして子孫を残すために、記憶という能力を発展させました。スマートフォンを手に入れた現代人も、とっさの判断や無意識に下してしまう数々の決断は、脳内の記憶をもとに行われます。また、何かを経験した時に、何の情報を残して何を忘れてしまうかということも、私たちの脳の中にすでにある記憶をもとに判断されています。   自分の意思で決めていると思う人もいるかもしれませんが、意思が関与できる部分はほんのわずかです。ヒトが意識できる情報量は脳内で処理されている情報の100万分の1以下だという説もあるくらいです』
『記憶というのはただの情報の集積ではありません。脳は記憶を形成し、活用するために、情報の抽出、再編集、関連付けを常に行っています。脳の中の記憶はあなた専用にカスタマイズされた唯一無二の情報源なのです。  もっといえば、私たちは、それぞれ脳の中に外界を解釈するための、記憶をもとに作られた自分だけの世界を持っているのです』(引用元)。
『脳の中に作られた世界のことを、私は「マインドセット」と呼んでいます。(中略)簡単には「思考の癖」とも説明されます』
『私たちが何かを経験し、記憶すると、このマインドセットが変化していきます。育っていくと言ってもいいかもしれません。マインドセットが豊かで健全な状態であれば、自分の望む未来に進みやすくなります。逆に、マインドセットが乏しく偏ると、その人の判断や行動は決まったパターンから抜け出せなくなり、自分にとって本当に利益になる合理的な選択ができなくなります。   マインドセットが私たちの未来を左右します。そしてそのマインドセットを形成する基礎になるものが記憶なのです』(引用元)。
*高村光太郎「道程」には『僕の後ろに道は出来る』とありますが、後ろに出来た道を踏まえて、これからの「道」「人生のゴール」を歩むのです。

「脳」は生存維持装置であって、本来は記憶装置ではないと理解してください。脳もひとつの臓器、体に良い事は脳にも良いのです。健康的な生活(食事・睡眠・運動)が健康な脳を維持します。良質の睡眠について一言。歩くことと早寝早起きの習慣化で良質の睡眠を得ることができます。詳しくはこちら「BBTime 651 リズム」をご覧ください。では皆様、ご自愛の程ご歯愛の程。

追加:六月四日は何の日?かつて「むし歯予防デー」で、今では「歯と口の健康週間」となってます。始まりは1928年(昭和3年)。実はこの年に始まったもうひとつの健康づくりに関することが・・「ラジオ体操」なんです。
おまけ:花柘榴・・紅一点の「紅」はこの花のこと。王安石の詩「万緑叢中紅一点」が出典だとか、詳しくはこちらを。
*オススメ本 だいじょうぶだよ ぼくのおばあちゃん 長谷川和夫

この絵本の原作者「長谷川和夫」氏登場のラジオ番組見つけました。6/11午前2時まで視聴可能です)。6/14は認知症予防の日、ドイツ人医師アロイス・アルツハイマーの誕生日にちなんで。

ラジオはこちら! ジャンプ先、上から三番目、是非お聴きください。


BBTime 656 オレンジページ

「くちびるに夏欲しければ新茶飲む」小迫倫子

2024/05/17 投稿
前回投稿から三週間ほど空いてしまいました!まずは句の解説から『載せようか、載せまいか。何日か思い悩む句がある。偉そうにしているわけではないけれど、私なりの評価が定まらないからだ。この句も、そのひとつ。若々しく新しい感覚ではある。だが、どこか私にはいぶかしい。それは「新茶飲む」という表現のせいだ。これまでの句では、茶は「汲む」ものであり「喫する」ものでありと、「飲む」というストレートな言い方はゼロに近かった。茶には「飲む」だけでは伝わらない風合いがあるので、多くの俳人はあえて婉曲的な表現を選んできたのだろう。そんななかで、作者はずばり「飲む」と詠んでいる。ミルクやジュースと同じ「飲み方」をしている。そういうふうに読める。おそらくは、このあたりの表現法が今後の俳句の大問題になるはずで、当サイトの読者はどうお考えになるだろうか。「喫茶」という言葉が持つ色気を追放したときに、どんな新しい風が吹いてくるのか。私にも、大いに興味がある。その意味で、この作品は重要だと考え紹介することにした。小迫さんは1969年生まれ。『21世紀俳句ガイダンス』(現代俳句協会)所載。(清水哲男)』(出典元)。今回は、空いた三週間の間にアップしたブログのご紹介(言い訳です)。BBTime 655「シンブログ」でご案内の通り雑誌オレンジページネット版に先月から投稿しております。

No.001「くう」001:惜春のバタークッキー
「BONJOUR KUCHIBUE の BUTTER COOKIES」

No.002 「あそぶ」001:バウハウスのポスター

オリジナルはこちら

No.003「くう」002:河内晩柑(かわちばんかん)

オリジナルはこちら

No.004「くう」003:日本一の豆腐

オリジナルはこちら

と言うことで言い訳がましくアップしました、ご容赦のほど。では皆さん、ご自愛の程ご歯愛の程。


BBTime 655 シンブログ

「ある朝の焼海苔にあるうらおもて」小沢信男

2024/04/26投稿 4/25「惜春のバタークッキー
4/30「バウハウスのポスター」 5/8「河内晩柑
本当に、今年は晴日の続かない春です。句の解説『海苔(のり)に裏と表があるくらいは、誰でも承知している。でも、食卓でいちいち裏表を気にしながら食べる人はいないだろう。ご飯などに巻きつけるときに、ほとんどの人は海苔の表を外側にしていると思うが、無意識に近い食べ方である。ところが、作者はある朝に、どういうわけか海苔の裏表を意識してしまった。「ふーむ」と、箸にはさんだ「山本山」か何かの焼き海苔を、裏表ひっくり返してみては、しきりに感心している。こんな図を漱石の猫が見たら、何と言うだろうか。想像すると、楽しくなる。しかし、こういうことは誰にでも起きる。当たり前なことを当たり前なこととして直視することがある。他人には滑稽だけれど、本人は大真面目なのだ。そして、この大真面目を理解できない人は、スカスカな人間に成り果てるのだろう。余談になるが「山本山」のコマーシャル・コピーに「上から読んでもヤマモトヤマ、下から読んでもヤマモトヤマ」というのがあった。すかさず「裏から読んでもヤマモトヤマ」と反応したのが、今は早稲田大学で難しそうな数学の先生をやっている若き日の郡敏昭君であった。『足の裏』(1998)所収。(清水哲男)』(引用元)。誰でも承知している?・・知ったのは大人になってかなり経ってからでした。アルミホイルの表裏は知ってましたが。今回は新連載ブログについて。

去る二月のこと。美味しい生パスタの店「トマトの実」のカウンターに雑誌オレンジページ。パラパラめくると「エディター募集」の記事。原稿料なしですが、(ライターになる)良いチャンスと思い応募したところ採用されました!今月中旬オンライン説明会後、アップ可能となりました。オレンジページエディターとして随時ブログをアップしていきます。「オレペエディターblog」です、是非ご覧ください。

冒頭の句の解説に『どういうわけか海苔の裏表を意識してしまった』・・実は小生には、このようなことが多々あります。と言うより癖か性分なのか「当たり前な事に何故だろう?」と疑問を抱きます。例えば・・学生時代に「(超個人的に)日本人の定義は?」と思い、小生なりの答えは「日本文化を嗜(たしな)んでいる」・・その後、社会人になって「茶道」を習い始めました。ブログではカルノ的視点で感じたことを文章化していきます。

プロフィールの文章:はじめましてカルノです。歯科医になって38年、ムシ歯予防カフェ「おやつ堂」店主として丸一年。興味あること多かれど、大まかに「食う飲む遊ぶ、はは大事」にちなんだブログをアップします。「食う」鹿児島のみならず旅先でのグルメやスイーツ。「飲む」ワインを主に抹茶・茶道についても。茶道は茶名「宗秀」にて裏千家専任講師。「遊ぶ」は旅や生活雑貨など。「はは大事」歯は大事で健康や歯について。お見知り置きを!
https://www.instagram.com/oyatsu.do/

版画は黒木郁朝(いくとも)氏。内容が拙ホームページconnote.jpとかぶる事もありますが、ご容赦の程。ちなみにアルミホイル使用の際は「表裏どちらでも同じ」とのこと、詳しくはこちら。「あれなんだっけ?」「なぜなの?」などの疑問などございましたら遠慮なくリクエストください。ジャンルは「食う 飲む 遊ぶ」「はは大事」がメインです。ちなみにご紹介1曲目は「あれ、なんだっけ(名前が出てこない)」を英語で「Whatchamacallit=What you may call it.」。皆様、ご自愛の程ご歯愛の程。

BBTime 654 アースデイ

「あんぱんの葡萄の臍や春惜しむ」三好達治

2024/04/22本日アースデイ、当ブログの誕生日(1999/4/22)
4/25新連載スタートしました!こちらです
そうなんです、25年前のアースデイに拙ブログ「connote:カノート」はスタートしました。いつの間にか四半世紀経ちました、驚きです。句の解説『陰暦の歳時記では四月はもう夏だけれど、ここでは陽暦でしばし春に足をとどめて春を惜しんでみたい。三好達治という詩人とあんぱんの取り合わせには、意外性があってびっくりである。しかも、ポチリと付いているあんぱんの臍としての一粒の葡萄に、近視眼的にこだわって春を惜しんでいるのだから愉快。達治の有名な詩「春の岬」は「春の岬 旅のをはりの鴎どり/浮きつつ遠くなりにけるかも」と、詩というよりも短歌だが、鴎への洋々とした視点から一転して、卑近なあんぱんの臍を対比してみるのも一興。行く春を惜しむだけでなく、あんぱんの臍である一粒の葡萄を食べてしまうのが惜しくて、最後まで残しておく?ーそんな気持ちは、食いしん坊さんにはよく理解できると思う。妙な話だけれど、達治はつぶあんとこしあんのどちらが好きだったのだろうか。これは味覚にとって大事な問題である。私も近頃時々あんぱんを買って食べるけれど、断然つぶあん。その懐かしさとおいしさが何とも言えない。いつだったか、ある句会で「ふるさとは梅にうぐひす時々あんぱん」という句に出会った。作者は忘れてしまったが、気に入った。達治は大正末期に詩に熱中するまでは、俳句に専心していたという。戦後は文壇俳句会にも参加していたし、「路上百句」という句業も残している。「干竿の上に海みる蛙かな」という句など、彼の詩とは別な意味での「俳」の味わいが感じられる。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)』(引用元)。今回は「春惜しむ」というよりクッキーの残り香について。

クッキーを頂きました。BONJOUR KUCHIBUE (坂田阿希子氏)のバタークッキー。缶を開けた途端にフワッと立ちのぼるバターの香、しっかり充分吸い込んでから包みを開けると、そこには整然とクッキーが並んでいます。

添えられたカードに「ザクっとした歯触りの後に、サクサク、ホロホロと軽やかにこぼれ落ちてバターの香りが広がる。発酵バターと2種類の砂糖、卵に小麦粉、主な原材料はこれだけです。だからこそ、その配合や素材のよさが美味しさを作ります」と。食べてみるとわかります、がそれだけではありません。坂田さんの「思い」も入ってます。ザクっサクサクホロホロそしてニッコリ!

「B」つながりで、福岡市「珈琲美美:びみ」のこれまたBブレンドが好相性です。オンラインで取り寄せ可能なようです。インスタグラム:@BONJOURKUCHIBUE2022 

鹿児島市は今日(4/22)も曇り、昨日は結構な雨でした。今年の春は天候不順で市内の花見処はイマイチだったように聞いています。ここ数年、春や秋が短い、春や秋が無くなった?などの声も。四季が二季になっていくのでしょうか。その昔、春が来て梅雨が来て初夏、盛夏でした。いつしか春、初夏、梅雨、盛夏。ひょっとすると、今年は短い春、梅雨、盛夏となるのではと、アースデイにふと考えるのでした。

では皆様、ご自愛の程ご歯愛の程。
「クッキーの残り香噛んで春惜しむ」カルノ

BBTime 653 道

「どっちみち梅雨の道へ出る地下道」池田澄子

2024/04/20投稿
早い方は来週末から連休でしょうか。鹿児島は雨多く梅雨を思わせます。句の解説から『雨降りの日は地下道が混雑する。少々遠回りでも、なるべく雨を避けて歩きたい人が多いからである。かくいう私ももちろんその一人だが、しかし、句の言うように、いずれは雨の道に出なければならないのだ。そう思うと、わずかの雨を嫌がって地下道を歩いている自分が情けなくも滑稽に見えてくる。晴れている日と同じように、いつもの地上の道を真っ直ぐに行けばよいものを……。と、思いつつも、やはり地下道を選んで歩いてしまう。これが人情というものである。なお「どっちみち」は「いずれにしても」と「どっちの道」の二重の意味にかけてある。なんということもないような句だが、読者に「なるほど」と思わせる作者のひらめきは、なかなかどうして脱帽ものだ。自由詩では書けない世界である。いつか梅雨時の地下道で、この句を思い出して苦笑いする読者も少なくないだろう。「池田さんは正直に、デリケートに、またユーモアを秘めて時代と向き合っていると思う」(谷川俊太郎)。『いつしか人に生まれて』(1993)所収。(清水哲男)』(引用元)。解説では「どっちみち」の「みち」について触れていますが、結句の「地下道:ちかどう」を強引に「ちかみち」と読めば「どっちみち」「梅雨の道」「ちかみち」と「道」がみっち(三つ)!今回は「道」について、去る4/8の「ほぼ日」から。

『・いまの時代には、なにかをはじめるときに、
 それがうまく完成するものなのかどうかを、
 見極めてからはじめるべしという考え方がある。
 いや、考え方のひとつというよりは、
 そうでなければやってはいけない、
 まちがうかもしれないことをやるのは無責任である、と「原則」のようにされてしまっている。かならず成功するために調査をし、テストを続けて推論し、方向が決定されても修正を加えながら進行していく。これは、コンピューターの進化のおかげで、デジタルデータを入れての「テスト」がほぼ無限にできることになったおかげも大きいだろう。』

『いま、ぼくの付け焼き刃「論語」ブームはまだ続いていて、昨日は呉智英『現代人の論語』を読み終えたところだ。この本の第33講に冉有(求)という弟子の話がある。かいつまんで記す。覇気がなくなかなか実行しない冉有と孔子との問答だ。
 「私は先生の説く理想の道を歩むのが
 うれしくないわけではありません。
 ただ私には力が足りないのです」
 と言う冉有に、先生がおっしゃった。
 「力が足りない者なら、
 進めるだけ進んでそこでやめる。
 しかし今のお前は
 自分で自分の力を見限っている」』

『孔子は「進めるだけ進んでそこでやめる」ことを、だめじゃないか無責任だというのではまったくなく、始めず進めないことのほうを叱っているわけだ。これ、いろんな読み方があるかもしれないが、ぼくには、とても新鮮で本質的な考えに思えた。
 「まちがいなく完全に成功する計画」などありえないのに、それをやろうとしているのが現代の支配的な考え方であり、ぼくの内にも息づいている「慎重で善良な思い」である。ここでもまた、古代中国の思想家に、痛い所を突かれた。』

『日曜の夜のNHKスペシャル『LastDays』で坂本龍一が、いまつくりたい、つくっている理想的な音楽について語り、「そんなのは、ぼくのいまの力量では叶わないんだけれど」と言い「なんとか努力してみます」とはっきり結んだ。彼は「進めるだけ進んでそこでやめる」を現実にしていた! 限りある人生でできることは、みんなそれなんだと思った。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。すべては未完成にしかならないと思いつつ、進めれば幸いだ。』

画像は高村光太郎(1883-1956)の作品『手』(1918年)です。ほぼ日を読んで「道程」(1914年)を思い出しました。
『僕の前に道はない
僕の後ろに道は出来る
ああ、自然よ
父よ
僕を一人立ちにさせた広大な父よ
僕から目を離さないで守る事をせよ
常に父の気魄を僕に充たせよ
この遠い道程のため
この遠い道程のため』
ほぼ日の「進めるだけ進む」は、まさに
「僕の前に道はない 僕の後ろに道は出来る」!

おやつ堂は、昨年の天皇誕生日(2023/02/23)にオープンしました。いまだ「行き先の見えぬ道を歩む」です。日々精進! 皆様ご自愛の程ご歯愛の程。

BBTime 652 酸性雨

「花の雨やがて雨音たてにけり」成瀬櫻桃子

2024/04/08投稿
この日(画像)も降ったり止んだりでした。句の解説から『季語は「花の雨」で春、「花」の項に分類。桜の花どきに降る冷え冷えとした雨のこと。「花散らしの雨」と言ったりする。桜の花に直接降る雨としてもよいし、べつに桜が眼前に無くてもよい。掲句は、後者の雨だろう。室内にいて、雨の降りはじめたことに気づいた。ちょうど桜の咲いている時期だと、まず気になるのは雨のせいで大量に散ってしまうのではないかということだ。もとよりそんなに深刻な問題ではないけれど、できれば小雨程度ですんでほしいと願うのが人情である。だが、願いもむなしく、「やがて雨音たて」て降りはじめた。ああ、これでもう今年の花もおしまいか……。と、軽い失望感が胸中をよぎったのだ。この感情もまた、春ならではの心持ちと言える。ところで、今日は全国的に雨模様だ。文字どおりに「花散らしの雨」となってしまう地方も多いだろう。そんななかで「雨に重き花のいのちを保ちけり」(八幡城太郎)と、けなげな花を目にできたら嬉しいだろうな。現代俳句文庫19『成瀬櫻桃子句集』(1994・ふらんす堂)所収。(清水哲男)』(引用元)。鹿児島市は雨がちで、桜は花の雨に濡れております。久しぶりに「酸性雨」について。

この傘マークをご存じでしょうか。実は数十年前には日本でも結構目にしたマークなんです。拙ブログ「ハナ通信」1993年7月号に次のように書いております。

「口の中の酸性雨」  エコロジー問題のひとつに酸性雨があります。強い酸性の雨水のため、森林、草花から、大理石の宮殿にいたるまでダメージをうけているというものです。ところで口の中の酸性雨のことを御存じでしょうか。砂糖を口に入れると、歯の表面のカルシウムが溶ける酸性度にまで下がり、食べ終わっても十数分間は続いていて歯の表面は少し溶けます(ミニむし歯)。このミニむし歯は唾液中のカルシウムで自然修復されますが、これには数時間かかります。ミニむし歯ができる回数が増えて修復が追いつかないと、やがて目に見えるムシ歯になります。そこで傘マークの登場です。食べてもムシ歯をつくりにくい食品にこの傘マークがついています。まだ日本には導入されてはいませんが、近いうちに目にすることと思います。口に中の酸性雨にご注意を。(引用元はこちら、一部修正)

酸性雨に関してはこちらを。その昔二十年程前、研修でスイスチューリヒに行った時のこと。駅のキオスクに並ぶガム、キャンデーなどの殆どにマークが付いていました。さすがスイスと思っていたら更なる驚き!なんとカフェでコーヒーについてきた砂糖(のようなもの)にもマークが付いておりました。日本のように一部だけがマーク付きでは意味がないんです(薄いんです)。

もちろん「トゥースフレンドリー」活動には賛成です。ただし甘いもの・スイーツの力も評価します。日本人の食において「砂糖抜き」は不可能、これまた「甘い力」として書いておりました。『まさしく「発見」であった。卵焼きにも焼肉のタレにも砂糖は入っている。ケーキやジュースだけではない、しかもムシ歯菌にとっては卵焼きもケーキも同じ。砂糖の摂取量を減らすことはできても、ゼロにすることは無理である。細菌すなわち汚れにおいても同様で、磨けば予防できると信じていた。磨けば予防可能、これは事実。しかし完璧に磨くことはできないのが現実。フロスや歯間ブラシを併用しても、歯の汚れを自力のみで完璧に取り去ることは不可能に近い。左手の汚れは、目で見て右手で落とすことができ、落ちたか否かを確認できる。ところが口の中はさにあらず。汚れている箇所を確認しないまま闇雲に磨き、汚れが落ちたか否かを確認することもできない。日常生活で不可能なことを、あたかも可能であるかのように説き、時にムシ歯をつくったのは自業自得であるかのように説明してきたことを心密かに恥じた。「甘いものを食べ過ぎず歯を磨けばムシ歯にならない」は、実生活においては正しくないのである。』(一部抜粋、引用元)。

最後に「地球上の酸性雨」はどうなったの。検索してみると・・記事を見つけました。「いま、酸性雨はどうなっているの?」2019年の記事、「酸性雨、コロナ後ph改善傾向に・・」2023年の記事、是非お目通しください。今回「ハナ通信」を読み返して思いました。口の中に酸性雨は降りません。ムシ歯菌と砂糖によって歯の表面が長時間酸性に傾くというのが正しい表現です。老婆心ながら、物理的に歯の表面の汚れを除去する(歯磨き)ことがムシ歯予防の基本中の基本です。では皆様、ご自愛の程ご歯愛の程。

BBTime 651 リズム

「米磨げばタンゴのリズム春まぢか」三木正美

2024/03/30投稿 3/31追加
 その昔「二月逃げる三月去る」・・だから他の月よりも時が経つのが速いと聞きました。今年度も明日でお終い。まずは掲句の解説『当歳時記では「春近し」に分類。いかにも軽い句だけれど、あまり仏頂面して春を待つ人もいないだろうから、これで良い。四分の二拍子か、八分の四拍子か。気がつくと「タンゴのリズム」で「米を磨(と)」いでいた。たぶん、鼻歌まじりにである。なるほど、タンゴの歯切れの良い調子は、シャッシャッと米を磨ぐ感じに似あいそうだ。想像するに、作者は直接手を水につけて磨いではいないようである。何か泡立て器のような器具を使っていて、それがおのずからシャッシャッとリズムを取らせたのだろう。手で磨ぐ場合には、そう簡単にシャッシャッとはまいらない。そんなことをしたら、米が周囲に飛び散ってしまう。子供時代の「米炊き専門家」としては、そのように読めてしまった。ちなみに作者は二十代だが、私の世代がタンゴを知ったのは、ラジオから流れてきた早川真平と「オルケスタ・ティピカ・東京」の演奏からだ。アルゼンチン・タンゴを、正当に継承した演奏スタイルだったという。でも、歌謡曲全盛期の私の耳には、とても奇異な音楽に思えたことを覚えている。いつだったか辻征夫に「『ラ・クンパルシータ』って、どういう意味なの」と聞かれても、答えられなかったっけ。ま、私のタンゴはそんな程度です。「俳壇」(2001年4月号)所載。(清水哲男)』(引用元)。節分春分とうに過ぎ季節外れの句です、「タンゴのリズム花まぢか」としてご容赦の程。今回はリズムについて。

先日、面白い記事を見つけました。記事「睡眠で脳の老廃物を洗い流す仕組みが解明される、アルツハイマー病などの神経変性疾患の予防に役立つ可能性」(出典)です。要約すると「睡眠中の脳波のリズムを利用して脳内の老廃物を洗い流しているようだ」とのこと。記事によると『私たちの脳は睡眠時でも休むことなく動き続けており、睡眠中の脳ではニューロンが協調して電気信号を発し、それらが蓄積してリズミカルな波となることで脳にたまった老廃物を洗い流している可能性が、ワシントン大学医学部の研究チームによって示されています』『食事から得た栄養素がエネルギーとして脳細胞に供給されます。しかし、栄養素を消費すると、その過程で代謝による老廃物が作り出され、これらが蓄積するとアルツハイマー病やパーキンソン病などの神経変性疾患を発症する可能性が高まることが指摘されています』『「睡眠とは、覚醒時に蓄積された老廃物や毒素を洗い流すために、脳が掃除を行う時間であることが知られています。しかし、このメカニズムは解明されていません」と述べています』(引用元)。

記事は続きます『睡眠状態にあるマウスの脳を分析し、ニューロンが協調して電気信号を発し、脳内でリズミカルな波を形成することで、密集した脳組織に脳脊髄液を送りこんでいることを明らかにしました。さらに研究チームは、特定の脳領域の活動を抑制してリズミカルな波の形成を阻害すると、睡眠時に新鮮な脳脊髄液が流れることはなく、蓄積した老廃物が洗い流されないことを確認しています。
また、私たちが眠っている際にはレム睡眠やノンレム睡眠を繰り返しており、脳波のパターンは睡眠サイクルを通じて大きく変化します。研究チームは、高周波または高振幅の脳波が観測される際に脳脊髄液が大きく動くことを発見しています』(引用元)。

以前BBTime 583 「カムカムポンプ」に脳内への血液供給に「噛む」ことがポンプの役割を担っていることを書きました。脳が欲しがるものは「酸素とブドウ糖」で、これは血液が運んで来ます。その後、脳内のゴミなどを寝ている間に脳波のリズムを利用してゴミ出ししているようです。

これはアップルウオッチでトラッキングしたある夜の小生の眠りです、リズムがあります。おそらくこの朝は、スッキリした目覚めだったことでしょう。何事にも「リズム」が必要なようです。冒頭のお軸は、この季節に茶室で見かけます(逸外老師の筆)。日本語では「やなぎはみどり はなはくれない」と読んだりします。中国語では「リュウリュウ フアフォン」とちゃんと音韻を踏んでいます、リズムがあります。北京の方曰く「柳緑花紅又一春」とも言うとのこと。「リュウリュウフアフォン ヨウイーチュン(また春が来た)」・・リズミカルです。睡眠中のリズムについては「BBTime 644 歩く」もどうぞ。食べる際のリズム、睡眠中のリズム、歩く時のリズム、一日のリズム・・リズミカルな生活が良さそうですよ。では皆様、ご自愛の程ご歯愛の程。

おまけ:「柳緑花紅」の花は?・・桃のようです。詳しくはこちらを!

3/31追加:リズムのある睡眠(質の良い眠り)に必要なことは「歩くこと」の記事が出ておりました。記事によると『朝もしくは昼(太陽のあるうち)にウォーキングをすると、体の中に「幸せホルモン」と呼ばれるセロトニンがたっぷりと作られます。  このセロトニンは15時間後「睡眠ホルモンメラトニン」に加工されます。そうすると人はよく眠れます。  ですからよく眠れないという人は、朝もしくは昼、太陽のあるうちにウォーキングをすれば、幸せホルモンセロトニンが増えるとともにぐっすり眠れるというダブルの効果が期待できます』(引用元)。ということでBBTime 「歩く!」に書いたことは、どうやら正しいようです。ではでは、ではまた

BBTime 650 オイシイ

「玉丼のなるとの渦も春なれや」林 朋子

2024/03/17投稿
 鹿児島はひと雨ごとに春近づくです。句の解説『はじめての外食生活に入った京都での学生時代。金のやりくりなどわからないから、仕送り後の数日間は食べたいものを食べ、そうしているうちに「資金」が底をついてくる。さすがにあわてて倹約をはじめ、そんなときの夕食によく食べたのが、安価な「玉丼(ぎょくどん)」だつた。「鰻玉丼」だとか「蟹玉丼」なんて、立派なものじゃない。言うならば「素玉丼」だ。丼のなかには、米と卵と薄い「なると」の切れっぱししか入っていない。丼物は嫌いじゃないけれど、毎日これだと、さすがに飽きる。掲句を読んで、当時の味まで思い出してしまった。作者の場合は、むろん玉丼のさっぱりした味を楽しんでいるのだ。「なると」の紅色の渦巻きに「春」を感じながら、上機嫌である。「なると」は、切り口が鳴門海峡の渦のような模様になっていることからの命名らしいが、名づけて妙。食べながら作者は、ふっと春の海を思ったのかもしれない。楽しい句だ。またまた余談になるが、昭和三十年代前半の京都には「カツ丼」というものが存在しなかった。高校時代、立川駅近くの並木庵という蕎麦屋が出していた「カツ丼」にいたく感激したこともあって、京都のそれはどんなものかとあちこち探してみたのだが、ついに商う店を発見できなかった。さすがに今はあるけれど、しかし少数派のようだ。なんでなんやろか。『眩草(くらら)』(2002)所収。(清水哲男)』(引用元)。今回は「オイシイ」について。

小生「玉丼」なるもの知りませんでした。好きな丼は「カツ丼」、丼のオイシイ思い出は京都の「鳥岩楼:とりいわろう」親子丼!さて、ほぼ毎日訪問するサイト「ほぼ日」今日(3/17)のダーリンは・・

「・テレビ番組で料理を食べるタレントは、
 なぜ、「おいしい」とか「わぁ」とか言わずに、
 「やわらかい」とか「ふわふわ」とか「でかい!」とか
 「外はカリッとしてて」とか「あまーい」とか
 「ジューシー」とかから先に言うのだろうか。
 それは、「おいしい」だけじゃ、
 その時その料理なりの「よさ」が
 伝わらないからだということになっている。
 彼や彼女が「おいしい」というのは
 ただの主観、ただの感想にしかすぎないからだ、と。
 しかし、言うのが「やわらかい」でも「ふわふわ」でも、
 そんなに何かが伝わっているようには思えない。」

「食べものの「よさ」を表現するというのは、
 とっさに気の利いたことばで言えるようなものでもない。
 客観的にどうだとか、どこに価値があるかとかは、
 後でうまく言えたときに言えばいい。
 まずは、あなたが「おいしい」と感じたのか、
 そうでもなかったのか、のほうが知りたいんだ。
 「わたしなど味もよくわからないただの人です」
 だとしても、その「ただの人」が
 「おいしい」顔をしたのかどうかが知りたいのだ。」

「テレビの「食レポ」とかの影響なのか、
 いまじゃ、そこらへんのだれでもが
 一口食べて「やわらかーい」とか言っている、
 「おいしい」かどうかは言わないままで。
 いいんだよ、伝えることなんか後回しでいい。
 おいしさを表わす語彙が足りないとか、
 気の利いたふうなことは言わなくていい。
 ただ「おいしい」でかまわないんだ、自由なんだ。
 やがていつか、じぶんにも他人にも伝わるような
 「よさ」が表せる機会があるかもしれないしね。」

「たとえば昔、ぼくの近くにいた若いやつが、
 「ああ、うなぎというのは魚なんだけど、
 魚っていうだけじゃなくて、
 こう、肉と魚の間みたいな感じで、
 もうなんとも言えないおいしさですねー」
 と言っていて、いいなぁと思ったよ。
 語彙なんかないけど「よさ」が鳴り響くじゃないか。
 まず、じぶんの「感じ」をたのしもうよ、だよ。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
ぼくは「おいしいね!」っていう声を聞くのが大好きです。」

去る一月、行きつけの歯科で担当の方に今年の抱負を聞かれた際「もっともっとオイシイものを探す!」と即答。BBTime 633 「美味しいを守る」をアップしました。食べるを守るが歯科治療ならば、美味しいを守るは歯科予防です。加えて「オイシイを探す」はおやつ堂の役目であると確信します。先月二月に「もっと美味しいもの」見つけました!詳しくは近々アップします、乞うご期待。では皆様、ご自愛の程ご歯愛の程。

BBTime 649 唄を楽しむ

「声にせば覚えてをりぬ手毬唄」大橋淑子

2024/03/16投稿
 前回投稿から早二週間、鹿児島の春はそこまで来ております。句の解説『言葉の運びが窮屈で、そこがとても惜しまれる句であるが、人の記憶のありかたについて貴重なことを言っている。作者の弁。「友達と童謡を歌っていた時のこと。てまりが殿様のおかごの屋根に揺られ紀州のみかんになった手鞠唄、全部覚えていたのです。子ども時代の歌、なつかしいです」。遠い子供の日々に、毬つき遊びをしながら覚えた歌だ。童謡『まりととのさま』は結構長いので、まさか全部を覚えているはずもないだろうと、とりあえず友達と声に出して歌ってみたら、あら不思議、二人ともすらりと全部歌えてしまったというのである。びっくりだ。嬉しかった。人の記憶にはあやふやなものが多いけれど、このように身体の動きと一緒に記憶したことだけは、なかなか抜けないようだ。歌だけを覚えているのではなくて、身振り手振りすべてが記憶のなかで連鎖しているからだ。つまり、記憶を呼び起こすキーがたくさんあるわけだ。だから、声に出すことがきっかけとなって、苦もなく歌えたのである。手鞠のように全身を使わなくとも、たとえば教室で音読させられた詩などが、ときに意味もなく口をついて出てきたりするのも、同種の記憶構造に仕込まれた引き金によるものだろう。俳誌「未来図」(1999年1月号)所載。(清水哲男)』(引用元)。今回は唄について。

昨年霜月のブログ「Music for 介護」をアップして早四ヶ月、訪問歯科診療の際にはスマホで音楽を流しております。今のところ「ノー」の方はいらっしゃいません。ご本人や家族の方にリクエストを聞くと「ちあきなおみ」「石原裕次郎」「福田こうへい(小生知りませんでした)」「おはら節」など多岐にわたります。半分以上の方が演歌を希望、あとはおまかせか童謡です。こちらの言うことは理解されるけど、言葉では返事困難な方でも反応してくださいます、体を揺する方、手(指)でリズムを取る方。言葉で対応可能な方は「口ずさむ」「(カラオケよろしく)歌う」なども。また黙って涙ぐむ方も・・季節的によく流れる童謡は「花」です。

冒頭の句の解説の追加に『記憶には「宣言的記憶」と「非宣言的記憶」という大きくわけて2種類のものがある、と言われております。宣言的記憶とは、覚えている俳句であるとか、昨日体験した出来事であるとか、簡単に言えば「口で説明できる記憶」です。非宣言的記憶とは、車の運転やスポーツなど、「口では説明できなくても動作で手順として覚えている事柄」であります。手続き記憶とよばれる記憶もこれに属します。歌や道順などは手続き記憶です。一時に全部は思い浮かべられないが動作の連続として再生はできます。なお脳にとっては言葉も動作もカテゴリーとしては同じ「運動」です。これらの記憶は蓄えられている場所も取り出し方も違います。 宣言的な記憶は海馬と呼ばれる部位が中心になって蓄えられており、本人が積極的に検索して取り出してきます。一方、手続き記憶などは様々な大脳皮質や小脳に分散して蓄えられており、ひとつの動作や想起から芋蔓式に取り出されてきます。学習も取り出しもたいていの場合は自動的です。海馬が損傷された患者さんでも歌は歌えることが多いのはこのためです。』(引用元)とのこと。

五感の中で最後まで機能するのは聴覚だと聞いたことがあります。目覚ましアラームが有効なのは耳が年中無休二十四時間営業であることの証拠です。ちなみにBGM診療で最も効果的だと感じたことは、訪問診療しているこちら側(歯科医師・歯科衛生士)です。コミニュケーションが困難、口を開けてくれない、噛まれる等々ストレスを感じることは多々ありますがBGMで明らかに軽減されます。

かたやこんな句も
「雪の降る町といふ唄ありし忘れたり」安住 敦
『町に雪がちらついている。歩きながら作者は、そういえば「雪の降る町といふ唄」があったなと思い出した。遠い日に流行した唄だ。何度か小声で口ずさんでみようとするのだが、断片的にしか浮かんでこない。すぐに、あっさり「忘れたり」と、思い出すのをあきらめてしまった。それだけの句ながら、この軽い諦念は心に沁みる。かくし味のように、句には老いの精神的な生理のありようが仕込まれているからだ。すなわち「忘れたり」は、単に一つの流行り唄を忘れたことにとどまらず、その他のいろいろなことをも「忘れたり」とあきらめる心につながっている。若いうちならば、どんなに些細なことでも「忘れたり」ではすまさなかったものを、だんだん「忘れたり」と早々にあきらめてしまうようになった。そういうことを、読者に暗示しているのだ。そうでなければ、句にはならない。唄の題名は、正確には「雪の降る街を」(内村直也作詞・中田喜直作曲・高英男歌)だけれど、忘れたのだから誤記とは言えないだろう。歌詞よし、曲よし。私の好きな冬の唄の一つだ。しかし長生きすれば、きっとこの私にも、逃れようもなく「忘れたり」の日が訪れるのだろう。せめてその日まで、この句のほうはちゃんと覚えていたいものだと思った。『柿の木坂雑唱以後』(1990)所収。(清水哲男)』(引用元)。BGM付き訪問診療、関係者の方は是非!皆様、ご自愛の程ご歯愛の程。