熟柿:じゅくし
この時期になると密かな楽しみが熟柿です。
皮を剥くことはできませんので、ヘタをとってスプーンで食べます。
先日行きつけの八百屋さんから頂きました、もちろん美味でした。
熟柿を見ると思い出すのが次の句です。
「いちまいの皮の包める熟柿かな 野見山朱鳥:のみやまあすか」
掌に重い熟した柿。極上のものは、まさにこの句のとおり、一枚の薄い皮に包まれている。桃の皮をむくよりも、はるかに難しい。カラスと競い合うようにして、柿の熟れるのを待っていた我ら山の子どもは、みんな形を崩さずに見事にむいて食べたものだった。山の幸の濃密な甘味。もう二度と、あのころのような完璧な熟柿を手に取ることはないだろう。往時茫茫なり。なお、この句には、同時にかすかなエロスの興趣もある。『曼珠沙華』所収。(清水哲男)「増殖する俳句歳時記」より
別の人の解説には「柿」を「女」に置き換えると、また別の趣もあるとありました。
同感です!美味とエロスは脳の中の近い位置で興奮するのではないでしょうか(笑)熟成した赤ワインしかり、先日頂いたヌーボーしかり
最後に漱石の熟柿を紹介しておきます。
「日あたりや熟柿の如き心地あり」夏目漱石
不惑などという年令は、とっくのとうに過ぎてしまったのに、いまだに惑ってばかりいる。句のような心地には、ならない。いや、ついになれないだろうと言うべきか。このとき、漱石は弱冠二十九歳。あたたかい日のなかの熟柿は美しく充実して、やがて枝を離れて落下する自分を予知しているようだ。焦るでもなく慌てるでもなく、自然の摂理に身をまかせている。そんな心地に、まだ若い男がなったというのだから、私には驚きである。ここでは、みずからの充実の果ての死が、これ以上ないほどに、おだやかに予感されている。人生五十年時代の二十九歳とは、こんなにも大人だったのか。「それに比べて、いまどきの若い者は……」と野暮を言う資格など、私にはない。西暦2000年まであと二ヶ月。一年少々で、二十世紀もおしまいだ。「二十一世紀まで生きられるかなあ。無理だろうなあ」。小学生のころ、友だちと話したことを、いまさらのように思い出す。切実に死を思ったのは小学生と中学生時代だけで、以後は生きることばかりにあくせくしてきたようである。『漱石俳句集』(岩波文庫・1990)所収。(清水哲男)同じく「増殖する俳句歳時記より」
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