BBTime 619 ゆ

「豆飯の湯気を大事に食べにけり」大串 章

2023/05/27投稿 お知らせ:本日(6/5昼過ぎ)まで表示不可でした。
 湯気は写っていません・・もう食べられたのでしょう。句の解説には『食べ物の句は、美味そうでなければならない。掲句は、いかにも美味かったろうなと思わせることで成功している。あつあつの「豆飯」を、口を「はふはふ」させながら食べたのだ。たしかに「湯気」もご馳走である。ただし「湯気『も』」ではないから、まさかそう受け取る人はいないと思うが、食料の「大事」を教訓的に言っているのではない。念のため。「大事に」という表現は、作者と「豆飯」との食卓でのつきあい方を述べている。「湯気」を吹き散らすようにして食べるよりも、なるべくそのまんまの「湯気」を口中に入れることのほうに、作者はまっとうな「豆飯」との関係を発見したということだ。「大事に」食べなければ、この美味には届かなかったのだ、と……。もっと言えば、このようにして人は食べ物との深い付き合いをはじめていくのだろう。しかも「大事に」食べる意識が涌くのは、若い間には滅多にないことなので、作者は自分のこのときの食べ方をとても新鮮に感じて、喜んでいる。グリーンピースの緑のように、心が雀躍としている。もとより「大事に」の意識の底には、食料の貴重を知悉している世代の感覚がどうしようもなく動いているけれど、私はむしろあっけらかんと受け止めておきたい。せっかくの、あつあつの「豆飯」なのだ。「湯気」もご馳走ならば、この初夏という季節にタイミングよく作ってくれた人のセンスのよさもご馳走だ。想像的に句の方向を伸ばしていけば、どんどん楽しくなる。それが、この句のご馳走だ。『天風』(1999)所収。(清水哲男)』(出典元)。今回は豆飯の「湯気」ではなく湯気向こうの「ゆ」について。

先日、ラジオから湯道の話が流れてきました。御家元は小山薫堂氏、昔々「シャトー薫堂を飲む会」で御一緒した事があります。小生、高校二年から二年間温泉(鹿児島市)、大学六年間銭湯(小倉)の丸八年間ほぼ毎日「ゆ」に通いました。湯道サイトに投稿欄がありましたので、早速投稿、原稿四篇ご紹介します。

一の湯「湯は幸せ」
 かなり前の晩冬。その年の春にイタリアのワイナリーを巡る予定があり、まさに付け焼き刃イタリア語勉強中でした。当時、日南から大分へ出張の際、大分駅では特急を降りず、ひとつ先の別府駅下車が常。理由はただひとつ「温泉」。駅前の油屋熊八の像というよりオブジェに見送られ徒歩数分で「高等温泉」到着。目当ては半地下のような下にある湯船。その時、幸いにも下の湯は貸し切り。洗った後にひとり湯船に浸る・・それはそれは「幸せ!」。その時、ふと浮かんだイタリア語が「Mi sento felice! ミ セント フェリーチェ!」。思わず貸し切りをいいことに数回叫びました「Mi sento felice!」。ワイナリーでテイスティングの際に感想として使おうと練習中の文章。セントゥに浸りながら反復した「Mi sento felice!」。これぞ体感学習!一発で覚えました。勿論ワイナリーで連発。あぁ湯は幸せ、Mi sento felice!  (こちらもご参照ください)

二の湯「湯で磨く」
  小生がブログを始めたのは1999年のアースデイ(4/22)。当時、ホームページと呼ばれ、制作に際しデザイナー、プロバイダーさらにネットに詳しい人と小生の四人での打ち合わせが必要でした。それぞれの中間地点で会いましょうと人吉に集合。この二軒は、その時の温泉巡りでのお話し。
 人吉は温泉郷。打ち合わせと称してのミーティング、酒宴、宿泊。翌朝、帰路で見つけたのが「うぐいす温泉」。山あいの三月のこと、鶯の声がしていたかは定かではありません。季節柄、名前に惹かれて行ってみると建物は普通、湯船の大きさも普通、おそらく鶯の声は格別なのでしょう。湯につかりふと見ると、湯船に注ぐ大きな蛇口の下に小ぶりの板。近寄ると「イレバ洗うな」とマジックの拙い文字。仕事柄(歯科医師)考えました。利用者が体を洗い頭も洗い湯船に。ホッとしたところで「イレバ洗っとらんかった」と(察するに総入れ歯)。洗い場で、髭を剃り歯を磨いている人を見ることはあります。しかし入れ歯となると・・。せめて洗い場で、ご自分の洗面器の中で磨くならまだしも・・。心地良い湯、きれいな湯で磨きたくなったのでしょうか。
 二軒目。当時、人吉えびの間は高速道路未開通で加久藤峠(かくとうとうげ)ループ橋を利用。人吉からえびのへ向かう国道脇の「のぼり」に目が留まりました。その名も「かくれ里の湯」・・本当かいな?と思いながらもハンドルを切り横道へ。かくれ里への道は、まさに千と千尋に出てくるような道。くねくね行けども「のぼり」が時たま。興味が不安に変わりそうになった時、やっと建物が見えてきました。まさに「かくれ里」。湯の質も上等で「あぁ幸せ」と浸っていると、初老の男性がひとり、いかにも常連という仕草で入ってきました。見るともなしに見てびっくり!木こりか山師か?肌は赤銅色、小柄な体に無駄な肉は全くなく、ムキムキではない筋肉、まさに磨かれた体。仕事によって磨かれたのか、湯によって磨かれたのか。ご本人に理由を聞いても「そんなこと知らん」でしょう。磨こうと思って磨かれるものもあれば、図らずも磨かれるものがある。小生少々恥ずかしくなり、横目で見ながら湯に身を沈めました。男性は湯に映る我が姿を見ているのか見ていないのか、しかし湯は見ている。・・勝手に想像しながら浸っておりました。  (こちらもどうぞ)

三の湯「湯で学ぶ」
  時は昭和。小生、高校二年間大学六年間の計八年、銭湯通いでした。はじめの二年は鹿児島市の温泉、次は北九州市小倉北区の銭湯。
 さて大学入学時に借りた部屋は六畳ひと間、家賃月六千円、洗面トイレは共同、もちろん風呂は無く銭湯へ。近所の清水湯(きよみずゆ)は午後四時から。まずは、これに驚きました。鹿児島で通っていた温泉は朝6時から夜11時までの営業。この時、初めて「銭湯」と「温泉」の違いを身を持って知りました。温泉は地下から湧き出ますゆえ、始終湯船は湯で満たされています。銭湯はさにあらず、水を沸かして湯にして湯船に張る。ゆえに午後四時からの営業、と勝手に理解納得した次第。
 湯へ通う中で様々なことを知りました。銭湯によっては、湯に入れる薬があり、常連さんが番台でカップに入ったその怪しげな粉薬を貰い受け湯船に溶かすこと。家族で来た男性が「かあちゃん、シャンプー!」と声をかけると仕切り壁の上を通過してシャンプーボトルが飛んでくること。中でも一番学んだのは「刺青:イレズミ」。時が時、場所が場所だったのかも知れません。結構、お客さんの背や腕に彫ってありました。挨拶せずとも互いに常連、背中を見ただけで人物特定ができましたし、湯煙の中で顔はぼんやりでも声でわかりました。歳の頃、三十半ばでしょうか、もちろん男性です。刺青完成までの順序を知りました。
 ある日突然、白い肌に青黒い線が!日を追うごとに描かれる輪郭は複雑になっていきます。どうやら般若の面のよう、輪郭完成でひと休み。皮膚への侵襲を考慮して日を置くのでしょう。数週間経つと色が加わります。順序は定かではありません、青が入り緑が加わり赤が・・。部位ごとに色が入るのではなく、色別に足されていったように覚えています。色が入るたびに「肌休み」があり、その方の場合、完成まで数ヶ月を要したと記憶しています。完成した般若は、角度によっては少しニタリ顔のようにも見えるし、入浴時の肌の色でピンク般若であったり。まさに裸の付き合いゆえの学びでした。
 残念ながら「清水湯」は卒後数年経った頃、地上げ騒動に巻き込まれ廃業されたとか。地上げではなく湯が上がって温泉が出れば、朝から湯に浸かることができたのに!とその報を聞いて思いました、残念です。番台に座る二人のおばさんの笑顔と「いらっしゃい」の声は今もはっきりと覚えております。

四の湯「湯で清める」
 いつの頃からか、日曜朝は禅寺で坐禅を組み、道すがら温泉に寄るのが常となった。坐禅の後の入浴は気のせいか妙に心地良い。なにゆえと考えるに、高校生時の銭湯通いを思い出した。昭和の唄「神田川」よろしく洗面器にタオルや石鹸を入れ銭湯へ。思った、毎日のように体を洗いに来る。実は己の体を洗っているつもりで、本当はタオルなど湯道具をキレイに保つための行為ではないのか?湯の中には湯の神様がいらっしゃって、湯道具を清潔にするために、人間に入浴なる行為をさせているのではないだろうか。その証拠に、下宿に着いて干すタオルはいつもキレイだった。
 利休百首に「茶の湯とは只湯をわかし茶をたてて飲むばかりなる事と知るべし」とある。「飲むばかり」と言いつつもそうではない。準備にて茶碗などを洗い、キレイなはずなのに点前の「茶筅通し」にて茶碗を洗う。先生の言葉で合点した。茶筅通しは「洗う」のではなく「清める」のである。入浴も同じではなかろうか。洗い場で体の「垢(あか)」を落とし、湯船で湯に浸りながら心の「垢」を落とす。湯で体を洗い、湯で心を清める。坐禅後の湯が心地良い訳もこれで腑に落ちる。
 シャワー派ではなく湯船派である。湯の神様に感謝しつつ湯に身を沈める。煩悩が多いゆえかも知れぬ。そんな小生にとって世の流れとはいえ、心の垢を洗い清めてくれる銭湯が減っていくのは寂しい限り。入浴とはただ湯を沸かし身を洗うばかりではない事と知るべし

清める・・神社などの手水場(ちょうずば)では、手を洗うというより「清める」。敬意を表するために「清める」。歯磨きは「洗う」がメインですが、お気持ちの中に「清める」を幾分かでも持っていただければと思います。皆さま、ご歯愛の程。

BBTime 618 ゴックン

「くちびるに夏欲しければ新茶飲む」小迫倫子

2023/05/13投稿
五月も半ばと言うのに朝ひんやりの鹿児島です。句の解説は『載せようか、載せまいか。何日か思い悩む句がある。偉そうにしているわけではないけれど、私なりの評価が定まらないからだ。この句も、そのひとつ。若々しく新しい感覚ではある。だが、どこか私にはいぶかしい。それは「新茶飲む」という表現のせいだ。これまでの句では、茶は「汲む」ものであり「喫する」ものでありと、「飲む」というストレートな言い方はゼロに近かった。茶には「飲む」だけでは伝わらない風合いがあるので、多くの俳人はあえて婉曲的な表現を選んできたのだろう。そんななかで、作者はずばり「飲む」と詠んでいる。ミルクやジュースと同じ「飲み方」をしている。そういうふうに読める。おそらくは、このあたりの表現法が今後の俳句の大問題になるはずで、当サイトの読者はどうお考えになるだろうか。「喫茶」という言葉が持つ色気を追放したときに、どんな新しい風が吹いてくるのか。私にも、大いに興味がある。その意味で、この作品は重要だと考え紹介することにした。小迫さんは1969年生まれ。『21世紀俳句ガイダンス』(現代俳句協会)所載。(清水哲男)』(出典)。茶は「汲む」であって「飲む」ではない?今回は飲む、嚥下についてのお話し。ちなみに前回の句は「汲む」。

ご存じ、画像は燕(ツバメ)。燕に口が付いて「嚥」、検索すると『ツバメの子が口を大きく開けて親鳥からエサをもらい、 飲みこむ様子※から作られました。口へんに燕(つばめ)と 書いて「飲みこむ」という意味の動詞になったのです。※ツバメは人間に近い所で巣を作るため、給餌の様子がよく観察できました。 また、嚥下(えんげ)は英語でswallowと言います。 語源は違いますが、名詞の「ツバメ」と、動詞の「飲みこむ」と して使われています』(出典元)。と言うことは、ヤクルトスワローズのスワローは燕であり、動詞で「グッと飲む、飲み込む」です。ヤクルトスワローズの隠された意味は、ひょっとすると「ヤクルト飲もう!ヤクルト愛飲者!」かも。燕だけに不思議なゴエン!

こちら(日医工株式会社)に、非常にわかりやすい嚥下の説明が載っています。引用しながら飲み込んでいきましょう(進めていきます)。はじめに摂食嚥下のメカニズムについて。『摂食嚥下とは食べ物を認識してから、口に取り込み、咀嚼し、咽頭・食道を経て胃へ送り込む一連の機能を指します。摂食嚥下は、認知期(先行期)、準備期、口腔期、咽頭期、食道期の5つのステージにわかれており、このうち、口腔期から食道期までの、いわゆる「飲み込む」動作が嚥下に該当します』(引用元)。

1)認知期:認知期(先行期)は、食べ物を認知し、口の中に取り込むまでの段階です。食欲を感じ、唾液の分泌、消化管の運動を促すなどにつながる大切な段階と考えられています(引用元)。
ポイント(あくまでも私見です)・・レストランを例に。まずは「メニューを読む」可能ならば小声でいいので音読する。産地の表示があれば地図をイメージする。疑問があれば、質問する。オーダーが済んで料理が目の前に来た時、お店の人の説明に耳を傾ける。食前酒もベター。鰻屋、カレー屋、ケーキ屋などの匂いや香りも有効な準備です。
施設(グループホームなど)であれば、眼・耳・鼻などに問題のある方もいらっしゃるでしょう。ミキサー食の場合もあります。例えば、その食事の材料を食卓に並べる。トマト、カボチャなど色鮮やかな野菜や果物(模型でも可)を置くことなども効果的かも。

2)準備期:準備期は、咀嚼・食塊が形成される段階です。口に取り込まれた食べ物は舌と歯を使って咀嚼され、更に、唾液と混合されることで嚥下しやすい形態、つまり食塊に整えられます(引用元)。
ポイント:もちろん歯に問題があれば上手く噛めません。義歯に問題(痛みやガタつき)があっても良くありません。また、唾液が少ない、口腔内の水気が足りないもの問題です。乾杯で直前に口の中を潤す、口の動きの準備するなど必要な場合もあるでしょう。

3)口腔期:口腔期は、舌が口蓋(前歯の裏)にしっかり押し付けられ、食塊を後方の咽頭に送り込む段階です。味覚や触覚、温痛覚などが保たれていることも円滑に口腔期の運動を行うためには重要です(引用元)。

4)咽頭期:咽頭期は嚥下反射そのものであり、食べ物を咽頭から食道へ運ぶ段階です。
咽頭通過は約0.5秒以内と一瞬ですが、摂食嚥下のメカニズムの中でも「誤嚥」が起きる段階であり、まさに嚥下のポイントといえます(引用元)。

5)食道期:食道期は、食道へ送り込まれた食塊が蠕動運動によって胃へ運ばれる段階です。食道上部の上食道括約筋が咽頭への逆流を防ぎ、食道下部の下食道括約筋が胃食道逆流を防ぎます(引用元)。
引用元には、非常にわかりやすい動画があります。ぜひご覧ください。毎日毎食、当たり前にしていること・・嚥下。真っ暗闇で何か飲み物を渡されても不安です、口を開けたまま飲み込むのは至難の業。やはり健康は有難いものです。皆様、ご自愛の程ご歯愛の程。

BBTime 617 丁寧に安寧に

「丁寧に暮らす日もあり新茶汲む」奥田友子

2023/05/04投稿
先日 5/2は八十八夜、鹿児島は茶所でもあります。句の解説は『目にとめて、すぐにどきりとした。私には「丁寧に暮らす」という意識がほとんどない。大げさではなく、生まれてこのかた、大半の日々を行き当たりばったりに暮らしてきた。貧乏性に近いと思うのだが、常に何かに追いまくられている感じで暮らしており、生活や人生に落ち着きというものがない。友人などには反対に、少なくとも見かけは、何事にも丁寧につきあい、悠然としている奴がいて、どうすればあんなふうに暮らせるのかと、いつも羨しく思ってきた。そんなわけで、句の「暮らす日も」の「も」に若干救われはするけれど、しかしこれは謙遜でもありそうだ。新茶の馥郁たる香りや味を本当に賞味するには、精神的にも身体的にもよほどの強靭さとゆとりがなければ適わない。そういうことなんだろうなあ。きっと、そうなんだ。『彩・円虹例句集』(2008)所載。(清水哲男)』(引用元)。今回は先月4/25に亡くなった、ハリー・ベラフォンテ氏について。おやつ堂テーマソング「Banana Boat」を大ヒットさせた方です。

ご冥福をお祈りいたします・・合掌。記事には『世界的シンガー、俳優、活動家として知られるハリー・ベラフォンテ(Harry Belafonte)が2023年4月25日、NYマンハッタンのアッパー・ウエスト・サイドの自宅で96歳で逝去した。彼の長年のスポークスマンであるケン・サンシャインは、彼の死因について、うっ血性心不全だったと伝えている』(出典元)。

『ニューヨーク・タイムズ紙はハリー・ベラフォンテについて、「1950年代、人種差別が蔓延っていた時代に、彼がショービジネス界の上流階級に上り詰めたことは歴史的なことだった。一方で、彼が最も重視していたのは公民権であった」と記しており、彼の功績について、Varietyは、「彼の音楽がアメリカにカリプソ・ブームを巻き起こし、アフリカ系アメリカ人のパフォーマーに新しい道を切り開いた」と称えている。
レコーディング・アーティスト、俳優のみならず、人道主義者としても比類なき功績を残したハリー・ベラフォンテは、アメリカの公民権運動における先導者の一人として率直な意見を述べ、マーティン・ルーサー・キング牧師に腹心の友とみなされた人物である』(出典元)。

『1927年3月1日、ニューヨークのハーレムで、ジャマイカ出身の両親のもとに生まれたハリー・ベラフォンテは、祖母の1人と幼少期を過ごすためにジャマイカに移り住み、その後ニューヨークに戻った。1940年代、演劇への情熱を燃やしていた彼は、クラブで歌手として働きながら稼いだバイト代で、マーロン・ブランド、トニー・カーティス、ウォルター・マッソーらが在籍していたニュースクール・オブ・ソーシャル・リサーチのワークショップに通い演技を学んだ。
1949年、ルースト・レコードからポップ・シンガーとしてデビューし、音楽キャリアをスタートさせた彼は、その後、RCAビクターと契約し、1952年にリリースした 「Scarlet Ribbons (For Her Hair)」で自身初のチャート入りを果たす』(出典元)。

『1954年にRCAからリリースされたデビュー・アルバム『Mark Twain’ and Other Favorites』にも彼の音楽的進化は投影されており、その後も「Jamaica Farewell」、「Mary’s Boy Child」といったシングルで全米TOP20入りを果たした彼は、1956年にリリースした3作目のスタジオ・アルバム『Calypso』からのシングル「Day-O (The Banana Boat Song)」で全米チャート5位を記録するなどキャリア最大の成功を収める』(出典元)。

『また彼は、50年代から60年代にかけて、音楽活動と俳優業の傍ら、公民権運動に熱心にも取り組んでいた。反共産主義に基づく社会運動“マッカーシズム”時代にブラックリストに載った彼は、1963年にはアラバマ州バーミングハムでキング牧師を刑務所から救済し、同年のワシントン大行進でも重要な役割を担った。また、後にHIV/AIDS撲滅のスポークスマンとしても多大な貢献を果たしている』(出典元)。

『1985年、ハリー・ベラフォンテがアフリカの飢饉救済のための資金を集めるために構想したチャリティ・ソング「We Are The World」は全世界で数百万枚の売り上げ、グラミー賞に輝いた。「USAフォー・アフリカ」とクレジットされたこのシングルには、彼自身もコーラスで参加している』(出典元)。

『同じく2011年のmsn.comのインタビューの中で、ベラフォンテはこう明言していた。
「人生のエンジンにおいて、最も重要な駆動力は希望というピストンです。とりわけ、あなたに与えられた機会が限られている場合、信念と希望を持たなければなりません。私は常に、自分が存在している現在の時間と、自分をもたらした過去の時間を比較しています。人類の歴史において、奴隷制度の時代ほど暗い瞬間ないように思えますが、私たちはそれを生き抜いてきたのではないでしょうか?私はフレデリック・ダグラス(19世紀の社会改革主義者)や、歴史に記録されたさまざまな紛争に希望を見出した人々の言葉を頼りに、どこに進むべきかを感じ取っているのです」』(出典元)。

「希望というピストン」・・力強い言葉です。茶化すつもりはありません、御言葉を引用させて頂きます。「予防というピストン」・・ハリー氏は歌や演技で安寧(世の中が静かで事件が起こらないこと)を願い行動されました。予防というピストン・・しっかり丁寧に噛むこと・丁寧に磨くことが口の健康維持につながります。口の健康は心身の健康につながります。丁寧に噛むことはこちらを、丁寧に磨くことはここを、ご参照ください。では皆様、御自愛のほど御歯愛のほど。


BBTime 616 0.5次予防

「春なれや歩け歩けと歩き神」山田みづえ

2023/05/01投稿
葉桜の下を歩け歩けと行きたいところですが、朝晩結構寒い晩春です。句の解説は『春や春。何となく家にとどまっていられない気持ちになって、さしたる目的もないのに、外出することになる。やはり、春だからだろうか(「春なれや」)。しかも、しきりに「歩け歩け」と「歩き神」が促してくるのである。私も、そうだ。これからのほど良く暖かい季節には、休日の原稿書きの仕事がたまっていても、ついつい「歩き神」の命じるままに、少し離れた公園などに足が向いてしまう。帰宅してからしまったと思っても、もう遅い。ところで、この神様はそんなにポピュラーではないと思うが、平安末期の歌謡集『梁塵秘抄』に出てくる。「隣の一子が祀る神は 頭の縮れ髪ます髪額髪 指の先なる拙神(てづつがみ) 足の裏なる歩き神」。隣家の娘をからかった歌と解釈されており、髪はちぢれて手先は不器用、おまけにやたらとそこらをほっつき歩くというのだから、当時の女性としてはひんしゅく者だった。しかし、それもこれもが娘に宿った神様のせいだよと歌っているところに、救いはある。すなわち「歩き神」とは、人間を無目的にほっつき歩かせる神というわけで、決して健康のためにウォーキングを奨励するような真面目な神様ではない。しかも足の裏に宿っているというのだから、取りつかれた人はたまったものではないだろう。足が、勝手に動くのだからだ。このことを踏まえて、もう一度掲句に戻れば、何もかもをこのどうしようもない神様のせいにして、「ま、いいか」と歩いている作者の楽しい心持ちがよく伝わってくる。『木語』所収。(清水哲男)』(引用元)。「歩き神」なる神様がいらっしゃるとは・・。先日「ゼロ次予防」の記事を目にしました。さてゼロ次予防とは・・。

画像はこちらから借用。記事「予防医学の新しいフェーズ「ゼロ次予防」とは 千葉大学が産学で進める健康まちづくり「WACo」」によると・・『疾患の予防については、健康づくり・保健指導などの1次予防、健康診断などの早期発見・早期介入による2次予防、治療・リハビリなどの3次予防があります。最近ではさらに一歩進んで、疾患の原因となる生活習慣に影響を及ぼす社会環境や都市空間や構造などの物理環境から整えようという考え方が広がりつつあります。これが『ゼロ次予防』です。WACoではその名のとおり、暮らしているだけで健康で(Well)活動的(Active)になるコミュニティー(Community)づくりを目指しています』(引用元)。

シンプルに考えるならば、冒頭の句に出てくる「歩き神」も一緒に住んでいる家づくり、街づくり、社会にしようと理解できます。手前味噌ですが記事を読んで「おやつ堂」もこのゼロ次予防に近いのではないかと思いました。ゼロ次と言えないにしても「0.5次予防」にはなるのではないかと。

おやつ堂開店して2ヶ月経ちました。今まで診療室の中で「後手後手治療より先手先手予防」とお経のように唱えていた割には、患者さん(生活者)に寄り添っていなかったんだと痛感します。上の図に当てはめるなら「2.5」くらいの位置にいたのでしょう。2.5から0.5へシフトするには「壁がふたつ」ありますが、精進します!おやつ堂は「3じ」ですが「0.5」目指して美味しい物を探します。目指すは「スイーツセレクトショップ」!ではでは、ではまた御歯愛のほど、今日もおやつ堂ですか。今回の選曲は「歩き神」よりも「春愁」に合わせて・・。

余談:ふと手元を見て合点しました「歩き神」はいらっしゃる!小生の「歩き神」はアップルウオッチ、いつも腕にまとわりついて「歩け歩け」と。さすが神様、針を進めるのみならず歩も進める!