BBTime 681 aBc

「母の日のてのひらの味塩むすび」鷹羽狩行

2025/05/11母の日投稿
櫂 未知子著「食の一句」に『海苔も巻かず、米と塩だけを供する塩むすびはまさしく家庭の味。かつての母達は、おなかをすかせた子供達のためにさっとおむすびを作ってくれた。贅沢とは無縁だった古き日本の母親達は、その<てのひら>から素朴な、しかし間違いなく美味しいものを生み出してくれた。子が母を信頼するのは、理屈ではない。空腹を満たしてくれたかどうか、である』(82頁より引用)。今回は「abc」の「B」。abcとは歩く(a)、口から食べる(b:バイト)、きれいにする(c:クリーニング)。「B」bite=噛む(口から食べる)について。

東京三田「コート・ドール」赤ピーマンのムース。昨年夏食事した際、斉須政雄シェフに「記憶の中の美味しいものは?」とお尋ねしたところ、即答「母のおむすび」でした。昔、シェフにインタビューしております。是非お読みください「「La Cuisine,C’est toute ma Vie.」-料理、これこそ、わが全人生」。

「国産牛の尾の煮込み・ワイン・ソース」
訪問診療でいろいろな施設に行きます。時間がお昼前だとちょうどお昼ご飯の用意の最中。利用者の方の「食べる」の状態に合わせて食事の形状も色々です。普通食、きざみ食、ミキサー食等々。ある時、ミキサー食に発見がありました。ミキサー(ブレンダー)処理してありますので、料理の色はぼやけています。一番の驚きは「臭い・香り」です。普通食であればテーブル脇に立った姿勢でサラダなら野菜の匂い香りがします。ミキサー食はその皿に顔を近づけて鼻でクンクンしてやっとカボチャだな、とわかるのです。

口の状態:歯があっても噛む力が弱い、義歯を持っていても使えないなど理由は様々でミキサー食選択となるですが・・。歩く同様「口から食べる」を死守してください。口から食べる、歯で噛んで食べることで味わえるのです。噛んで食べることで脳にもプラスがあります。噛むごとに脳に血液を送り込んでいるのです。ひと噛み毎に約3.5ccの血液が脳に供給されます。魚の形の醤油入れの量です。詳しくは「カムカムポンプ」を。

「B」の死守して欲しいもうひとつは「声を出す」です。おしゃべりでも歌うでもOKです、ともかく声を出してください。声を出さなくなると次第に声が出なくなります。声が出なくなる、すなわち声帯が弱くなると「咳払い」ができなくなるのです。すると誤嚥性肺炎リスクが高まります。施設のスタッフの方には「おはようと声をかけた際に、必ず利用者の方からも、声でおはようと返してもらってください」とお願いします。「おはよう・おはようございます」の声に、ただ頷くのではダメです、「おはよう」の声が出るまでしつこく声をかけてください。声帯については「セイタイハイリョ」をご参考に。

ふと思い出しました。その昔、小学生の頃下校時に近所の家から「お経」が聞こえて来ました。おそらくお年寄りの読経でした。この読経(どきょう)、昔の人の知恵だと思います。それなりに大きな声を日に数回数分間出す、しかも毎日・・これは明らかに声帯筋肉のトレーニングです。今回はabcの「B:口から食べる・声を出す」。人生を生ききる秘訣のひとつです。皆様、ご自愛の程ご歯愛の程

BBTime 680 中毒性有り

「行春や鳥啼魚の目に泪」松尾芭蕉

2025/04/19投稿 4/20加筆
ご無沙汰です、今朝のお姿(6:32桜島)。早いもので今年も三分の一が過ぎようとしております。句の解説『今から二百年以上も前の俳句の一つがいつ詠まれたか日付までよくわかっているものだと半信半疑であるが、これが本当なら「菜の花や…」は蕪村四十八歳の作だ。天文学的考証をすれば、旧暦の十四日か十五日の情景を詠んでいることになる。それはともかく、蕪村は画家だけあって、この句も非常に絵画的である。放浪生活ののち俳句にのめりこみ、「芭蕉に復(かえ)れ」の主張の下、俳諧復興の指導者となった。絵も俳句もやり始めるととことん極める人で、才能だけに甘えず勉強を怠らなかった。その結果が非常に単純明快な言葉に落ち着いているのがニクイ。単純明快はたやすいようで、むずかしいのだ。わが故郷、神戸の須磨浦海岸へ行くと、蕪村のこれまた有名な句「春の海ひねもすのたりのたりかな」の碑が建っている。春の瀬戸内海はまさに、この句を絵にかいたようなものだった。(松本哉)*この有名な句は、安永三年(1774)の今日3/23(旧暦・2月15日)詠まれたと伝えられている。(編者註)』(引用元)。この四ヶ月で中毒になりつつある三つ。

まずは「万謝:ばんしゃ」谷山の蕎麦屋。「BBTime 676 脱皮」に書きましたが、長野育ち蕎麦通友人の一言で通い始めました。メニューを一通り食べ、その後はその日の気分で選びほぼ毎週食べております。中毒性有りの理由を蕎麦を待ちながら、食べながら考えるに、1)蕎麦が本物であること。2)つゆが素晴らしいこと。3)食べ方(蕎麦の楽しみ方)へのさりげないサジェスチョン(アドバイス)。4)店の媚びない姿勢。などでしょうか。日々の食事のそばに置きたい「万謝」です。

二つ目はvivobarefootの靴(画像はHPより)。BBTime 677 Abc に書きました、この靴には中毒性あります!買って約二ヶ月履いていますが、他の靴がほぼ履けなくなりました。これに出会うまでのメインはallbirds(オールバーズ)。オールバースを知り虜になり計五足か六足求めました。ところが今ではビボ以外では、かろうじてkeenサンダルとビルケンシュトックのみ。なぜビボなのか?答えはシンプル・・歩くのが楽しい!から。カフェ(おやつ堂)の日は、ほぼ毎朝50分程度歩きます。片道25分の往復ですが、ビボを履き始めてからはこの時間の早いこと早いこと、歩くのが楽しいんです!ソール(靴底)が薄いために、歩くリズムを音と骨の振動で感じられ心地良いのです。BBTime 679に書きました「歩いて分かりました。「歩き」は本来、移動手段ではありません。呼吸と同じように、心臓が血液を送り出すように、人にとって当たり前過ぎるほど当然の行為行動なのです」。深呼吸すると気持ち良いように、歩くことは本来「快感・快楽」なのです。ちなみに冒頭句の松尾芭蕉、彼らは草鞋で旅しておりました。この草鞋が「歩き」において非常に良かったとのこと。つま先と踵の差がない「ゼロドロップ」なのです。詳しくはこちら

三つ目は画像、美味しいのはあたり「まえだのドーナツ」と福岡美美(びみ)の珈琲のセットです。カフェ日は毎朝、確認と改善のためコーヒーを淹れます。開店前に一人ほくそ笑んでおります!機会あれば(おやつ堂にて)是非お試しを。

行く春につらつら思うに、自分に合ったものを見つけるとそのジャンルの煩悩が減るような気がします。ある本に「The more you know, the less you need.」とありました、アボリジニーの言葉だそうです。ではでは皆様、ご自愛の程ご歯愛の程

BBTime 679 歩きました50km!

「一歩在り百歩に到る桜かな」永田耕衣

2025/3/29投稿 3/30追加
一週間前の3/22土曜日50km歩きました!参加したのは「関西エクストリームウォーク50K」。まずは掲句解説から『句集では掲句の前に、「一歩をば痛感したり芹なずな」があります。春がやって来た実感です。今、「やって来た」と書きましたが、春はやって来るものであると同時に、こちらから一歩近づいていかなければ訪れるものではないという、当たり前の真実に気づかされます。若い頃なら、これを実存というのだななどと観念的に片づけていました。しかし、「痛感」という言葉は、身に起こる切実な情ですから、「芹なずな」に同化するほどの強い思い寄せがあります。掲句では、「一歩」 から出発して「百歩」に到っています。満開の花の盛りは、じつは、桜の側にあると同時に、見る側が作り出すのだという教訓を得ます。花見は座って見るばかりでなく、歩いて歩いて歩き尽くしてこそ、花が盛る、そんな、花と人との双方向的な対峙を教わりました。このおじいちゃんは、やはり、桜に対しても貪欲でした。『永田耕衣五百句』(1999)所収』(引用元)。では早速スタートしましょう!

登録順に50人ずつ出発、いよいよです。最近「歩く」について色々と考えており、「人はどのような理由で歩みを止めるのか?」この疑問を解明したくイベントに臨みました。

朝八時頃スタート。天気にも恵まれ、暑くもなく寒くもない絶好の「歩き日和」。まずは大阪城へ向かいます。友人男性と二人での参加。小生、毎日のように一万歩以上歩いており、参加前予想(希望)は「10時間台でゴールできるんじゃない」でした。では、歩きながら感じたことを書いていきます。

1)人が歩みを止める理由・・わかりました!二つあります。ひとつは「痛み」もうひとつは「日没」。小生の痛みは、足の筋肉や関節ではなく「足裏のマメ」。両足とも五百円玉二個分ほどの大きなマメができ、歩くたびにじわっと痛みました。今回、1ヶ月前購入のソールの薄い靴「vivobarefoot」でスタートし、途中で予備持参のkeenサンダルに替えました。「日没」に関しては、現代社会では照明があり歩行可能ですが、原始人には無理だったでしょう。
2)歩きの本や記事にもありますが「歩いても痩せない」。言い換えれば「歩くだけ」ではさほど脂肪は燃焼しない・エレルギーを使わない。歩いても歩いても、疲れないのです。人にとって「歩く」行為は非常に効率の良い動きなのです。
3)歩くと走るは全く違う・・小生、過去に2回フルマラソン完走(約四時間半)経験あります。歩くと走るは別物!ゴール後の満足感・達成感がマラソンとは比べ物にならないくらいあっさりしたものでした。

4)走りとは別である証拠として「疲れない」「ペースはさほど落ちない」「ゴール後の達成感が小さい」。その昔、小学校などで「罰:ばつ」として「廊下に立っとけ!」「校庭五周走って来い」などありましたが、おそらく「校庭五周歩いて来い、十周歩け」は罰にならないと思います。歩きは人にとってさほど負荷とはならないのです。

5)歩いて分かりました。「歩き」は本来、移動手段ではありません。呼吸と同じように、心臓が血液を送り出すように、人にとって当たり前過ぎるほど当然の行為行動なのです。
6)痛みと日没がなくても際限なく歩けるとは思いません。おそらく時間にして一日12時間、距離にして30~40キロが一区切りでしょう。

7)歩くときは少し遠くを見て、胸を張って、手を振って等々。これは現代人が作ったスタイルだと思います。歩くときは「足元」をしっかり見て歩かないと危険です。原始人において、道は舗装されていません。原始人の歩みを止めた「痛み」は、足裏の怪我でしょう。裸足で道なき道を歩いていたのですから。

8)直立二足歩行したことで「ヒト」となりました。歩くという行為は最も人間らしい行為行動です。もっとも人間らしい行為を、日々怠れば体に不具合が出るのは当然。自動巻き腕時計をたまにしか使わなければ長持ちしないでしょう。

9)やっとゴール(スタートと同じ場所)が見えました。この時思ったことは「もう歩かなくていい、痛みから解放される」だけでした。

10)アップルウオッチの画像。連続八万歩は、日頃「一日一万歩」歩いてますとは、全く意味が違います。休み休み、止まり止まり歩くのが本来の歩きだと痛感、こじつけですが漢字「歩」は少し(歩いて)止まるです。

11)スタートとゴールが異なるのは歩き開始の「押し忘れ」。ワクワクの緊張感・高揚感からかスタート時にボタンを押していませんでした。もし知り合いから「参加してみようかな?どう」と聞かれたら、即答「すすめません」
12)今回、友人と二人参加だったからこそ完歩できました。ひとり参加であったなら、途中で足のマメなどの大義をつけてリタイアしていたでしょう、間違いなく。もちろん参加者の中には一人参加で黙々と歩いて完歩された方も多かったと思います。驚きは、30キロ過ぎても女性グループがおしゃべりしながらスタスタと歩いておられました。複数で喋りながら歩くのが良いようです。

13)完歩翌日翌々日と二つの驚きがありました。ひとつは「足の裏の回復スピード」が速いこと。先に書きましたように「筋肉や関節の痛み」は出ませんでした。痛みは「足裏のマメ」だけ・・一晩寝ると翌朝は40%ほど回復、二晩寝ると80%ほど回復。痛みの減少の速さに驚きました。
14)二つ目の驚き・・ゴール時の達成感はイマイチでしたが、回復とともに再び普通に歩けるようになった時、「喜び」をひしひしと感じました!ほとんどの人が記憶していない「初めて立った、歩いた時」に感じる喜びに近いものかも知れません。
15)今回、改めてイヤ初めて「歩く」ことの大事さを身を持って知りました。フルマラソン完走や富士山登山とは全く異質でした。まさに「歩く」とは最も人間らしい行動であると痛感した「12時間57分」。大会関係者の皆様に感謝!友人S氏に深謝!
皆様、ご自愛の程ご歯愛の程

追加3/30
16)歩きは「疲れない」と4)に書きました。今回のように歩き目的で、さほど荷物を持っていない場合です。重い物を持たず、筋肉や関節に問題がなければ疲れません。長距離・長時間歩くことで「心の疲労」は生じるでしょう。今回も街中歩きであったため、もう少し気持ち良い景色であればと思いました。いずれにせよ歩くことでは、肉体は疲れません。
17)ボチボチ、ヨタヨタ、トボトボなど、歩く姿を表す言葉があります、これらは精神状態がベース。今回のように精神的に終始問題なければ、歩くペースはさほど落ちません。
18)自動巻き腕時計を引き合いにしました。今朝も歩きながら考えました、これは言い得て妙!ローターに相当するのが「足」、ローターの回転が「歩き」。ローターが回ってゼンマイを巻き、小さな歯車のひとつひとつまで動くのです。歩くことで血液のみならず神経、ひいては頭の巡りまでしっかり循環させ機能させる・・これは間違いないでしょう。
19)最も人間らしい行動=歩きを自ら放棄してしまっている現代人、問題が出ないわけがありません。歩きの放棄には、それぞれ理由はあるでしょう。ヒトとして人として、一歩でも多く歩く日常を心がけたいと切に思いました。


BBTime 678 パニスのパニス

「パンにバタたつぷりつけて春惜しむ」久保田万太郎

2025/03/07 パニス開店五周年記念日投稿 3/15加筆・画像追加
パニスという名のパン屋が鹿児島市にあります。店名「panis」に引かれて足を運びました。訪問初日こそ二番目でしたが、以後一番乗りでお店に通いました。日々、行列ができるパン屋です。残念ながら、おやつ堂オープン後は一番乗りできなくなりましたが。句の解説に『・・バターではなく〈バタ〉、これは今でも雑誌「暮しの手帖」で使われているはずである。こう表記されるとバターがにわかにレトロな雰囲気を持ち、美味しそうに思えてくるのは私一人の感覚だろうか。昨今は〈バタ〉をたっぷり塗ることも少なくなった・・』「食の一句」櫂未知子著78頁より。鹿児島市は春、句は惜春ですがご容赦のほど。

panis:パニスとはラテン語で「パン、糧(かて)」の意。
その店名をつけたパン「パニス」が出たと聞いて即訪問。
冒頭画像が「panis」(パニス提供画像)。
1)お店の名前を付けた理由は?・・「当店ならでは唯一無二のパンです」
2)理由は?・・「このパンの主な材料はパンなんです」
3)ご説明を!・・「色々なパンを作る過程でパンの耳など切れ端が出ます。それらを捨てずに活用できないかと思っていました。あるセミナーで切れ端を煮て「おかゆ」のようにしたものをベースに新たなパンを作ることを知り、まさに切れ端ひとつ捨てたくない、フードロスゼロを実現したいという思いと合致しました」
4)すぐに新製品は完成したのですか?・・「いいえ!試行錯誤でした。模索するうちに当店オリジナルの意を強くし最終的にパニスと命名しました」

煮る前の「パンの切れ端など」(パニス提供画像)。
5)作り方を簡単に教えてください・・「切れ端を水煮してフードプロセッサーにかけてお粥状にします。その、いわば「おかゆ」に小麦粉、野菜などからとった出汁、自家製酵母、塩などを加えドゥを作ります。発酵後釜へ」

出汁(ダシ)を取るための野菜など(パニス提供画像)。
6)パニスの食べ方は?・・「食事パンとして何にでも合います。切れ目に野菜などを挟んでサンドもおすすめです」「パスタやスープの付け合わせとしても合いますよ」

パニスのドゥ。

7)パン「パニス」の今後の展開は?・・米粉パン「「コメパーニュ」同様、当店オリジナルとしてじっくり育てていきたいと思います。チーズを加えたものなども考えています。人に美味しい、地球に優しい、パニスならではのパンを焼いていきたいですね」
8)蛇足ながら味は(小生の感想)・・噛むと、まず意外な食感に驚きます。モチモチというよりシットリ。薄い薄い塩味、野菜の出汁、言わば超薄味の野菜スープのような味で、シェフのおっしゃるようにパスタに好相性間違いなし!冒頭の句と違ってバタをつけなくとも充分に味わえるパンです。是非一度ご賞味あれ。
・・美味しい優しいお話ご馳走様でした(有難うございました)。まさにシェフのお人柄が存分にドゥの中に入っていると痛感しつつ、お店を後にしました。まさにパニスは「心の糧」。地球に優しい美味しいパンを食べて、ご自愛の程ご歯愛の程。


BBTime 677 Abc

「なずな咲くてくてく歩くなずな咲く」小枝恵美子

2025/02/28投稿 3/3追加
気が付いたら如月も終わり!句の解説『なずな(漢字では「薺」と難しい字を書く)は、陰暦正月七日の七種粥に入れる七草の一つなので、単に「なずな」だと、歳時記的には「新年」に分類される。が、花が咲くのは早春から梅雨期にかけてであり、掲句の場合には「薺の花」で春。またの名を「ぺんぺん草」とも「三味線草」とも言う(こちらのほうがポピュラーか)。さて、この句の魅力は「てくてく」にある。「歩く」といえば「てくてく」など常套的な修辞でしかないが、実にこの「てくてく」の用法は素晴らしい。いたるところに咲いているなずなの道を行く気分は、別にいちいち花を愛でながらというわけでもないので、むしろ常套的な「てくてく」がふさわしいし、句の情景を生き生きとさせている。「むしろ技巧的に思われるほどだ」と句集の栞で書いた池田澄子は、さらにつづけて「そこここに咲いている『なずな』と、そのことを喜び受け止めながら歩いている人物は、春を輝く万物の細部としての代表である」と述べている。これまた素晴らしい鑑賞だ。春の道は、こんなふうに「てくてく」と歩きたい。なお「なずな」を「ぺんぺん草」「三味線草」と呼ぶのは、その実を三味線のバチに見立てたことにちなむそうだ。今日調べてみるまでは、つゆ知らなかった。『ポケット』(1999)所収。(清水哲男)』(引用元)。さて今回は「abc」の「A」、abcとは歩くa、口から食べる(バイト)b、きれいにする(クリーニング)c、についてのお話。

「ABC=歩く・食べる・キレイにする」について考えるようになったのは、訪問診療に携わるようになってのことです。ご存じかと思いますが「2025年問題」を日々耳にします。小生、施設の職員さんに話します「残念ながら、もしあなた方が将来、要介護になっても今あなた方が行なっているような介護は受けられないかも知れません」と。必要なのは、考え方を変え「介護予防=亡くなる直前まで自立する・できる」、介護を受けられないのならば、介護を極力必要としない生き方に「今日」から変えることです。まずはA=歩くについて。

ヒトの定義においてまず挙げられるのが「直立二足歩行」です。直立二足歩行する生き物が「ヒト」ならば、極端な表現ですが直立二足歩行しない・できなければ「ヒトにあらず」とも言えます。しかしどうでしょう、周りを見渡すと・・。ちょっとそこのコンビニ行くのも車、デスクワークにおいては座りっぱなし、小学校から大学まで授業中はほとんど椅子。足に問題がない人も「歩いていない・歩かない」日常になってます。

小生、ほぼ毎日一万歩は歩いております。歩きにシフトしたきっかけは3つ。
1)きっかけ1:車が無いこと。車を手放して9年になります。当然、公共交通機関を利用し歩いて自転車に乗ります。
2)きっかけ2:アップルウォッチ。時計が「Move」「Exercise」「Stand」を計測してくれます。日々の目標を設定し達成するようになりました。
3)きっかけ3:睡眠の波形。ウォッチで睡眠をトレースできます。以前は片道8キロ弱を自転車通勤。ある時、気がつきました。自転車通勤日の睡眠波形よりも、路面電車と徒歩通勤の波形の方がキレイなのです。それ以来、電車+片道徒歩30分通勤に変えました。

現生人類は約五万年前にアフリカから出て世界中に進出していきました。それを可能にしたのは「直立二足歩行」で、歩いてこそ「ヒト」であり、歩いてこそ「人」なのです。にもかかわらず人々は車に乗り、椅子に座り・・。

2025/2/2 朝日新聞「天声人語」、次のように続きます。

〈歩け、歩け/どんなものが出て来ても乗り越して歩け/この光輝く風景の中に踏み込んでゆけ〉・・歩くからこそ「乗り越して歩け」ができるのです。自転車でも車でも段差があると進めません。道がなければ車や自転車では進めません。しかし人生は〈僕の前に道はない/僕の後ろに道は出来る〉のです。歩きであれば道なき道を「乗り越す」ことも可能です。日々毎日、歩いていると、歩くことは単なる移動手段ではなく、ヒト・人の生き様に深く関わっている気がしてならないのです。

2/8の桜島、雪化粧しております。小生、カフェ日は朝、歩いて桜島に会いに行きます。鹿児島はようやく寒さが抜けました。徐々に歩く季節が近づいて来ました。薺を見つけに歩きましょうか。では皆様、ご自愛の程ご歯愛の程。

追加(3/3)「歩く」についてオススメの一冊

この著者「池田光史氏」を知ったのはYouTubeでした。ひょっとすると多くの方が「歩く=面倒臭い・疲れる」のイメージをお持ちかも知れません。本に「歩くのってこんなに楽しかったっけ?」とあります(2頁目)。ヒトがアフリカを出て世界の果てまでたどり着いたのも「楽しみ・心地良さ」を彼らが身体感覚として感じていたからだと思います。「人間の幸せは、動物として快調かどうかにかかっている」(8頁目)。御意!

BBTime 676 脱皮

「春立つと古き言葉の韻よし」後藤夜半

2025/01/27投稿 01/29画像追加
今年の節分は地球の公転の関係で二月二日、この時季好きな句です。解説は『韻は「ひびき」と読ませる。昔から、立春の句や歌は数多い。それだけに、後代になるほどひねくりまわし過ぎた作品が目立つようになってきた。止むを得ないところではあるけれど、だからこそ、逆に立春という題材をどう扱うかは、俳人や歌人の腕の見せどころでもある。「芸の人」夜半としては、そこでしばらく考えた。考えた結果、立春のあれやこれやの情景を捨て去って、一見すると素朴な発想のこの一句に落ち着かせることにした。さすが、である。つまり、この句には古今の名句や名歌のひびきが、すべて収まってしまっているからだ。さりげなく「他人のフンドシで相撲をとる」のも、立派な芸というべきだろう。脱帽。(清水哲男)』(引用元)。今回は「脱皮」について(ただし蛇にあらず)。

昨年晩秋頃から仕事場近くの蕎麦屋に通い始めました。店の存在は二年程前から知ってはいたのですが・・。ある時、長野松本育ちの同僚曰く「鹿児島市内で一番だと思う」。蕎麦通の一言、重く受け止め、即訪問。

店内には蕎麦の実を加工する(皮を除去)部屋、臼で挽いて粉にする部屋があります。入り口脇で待っていますと目の前の加工部屋に「脱皮所」と小さなプレート。脱皮?なるほど皮を脱ぐ「脱皮」ではなく、皮を脱がす「脱皮」のようです、詳しくはこちらを。

残念ながら「店内撮影禁止」のため蕎麦の画像はありません(近日中に外観のみ画像アップ予定)。お品書きには冷たい・温かい蕎麦が全部で十二ほどあります。全部食べました、全て感動!テーブル横の壁には日本酒のラベルのコラージュ、粋です!来月、夜の部に行こうと思います。何と!夜の部では「お蕎麦はつきません」とのこと、流石です。美味しい蕎麦を美味しく頂ける・・これ以上の「平穏無事」があるでしょうか。「なんてことのない普通の日常」こそが「最高の幸せ」。店は「万謝:ばんしゃ」・・美味しいをいつも貴方のおそばに!皆さま、ご自愛の程ご歯愛の程

万謝:ばんしゃ

BBTime 675 純化

「白菜やところどころに人の恩」阿部完市

2025/01/20大寒投稿
あっという間に今月も十日余り。句の解説は『なんだろうね、これは。どういう意味なのか。阿部完市の句には、いつもそんな疑問がつきまとう。でも、疑問があるからといって、答えが用意されているような句だとも思えない。そういうことは、読み下しているうちにすぐにわかる。そのあたりが、好きな人にはこたえられない阿部句の魅力となっている。この白菜にしたところで、どんな状態の白菜なのか。作者は何も説明しようとはしていない。要するに、単なる「白菜」なのだ。「人の恩」についても同断である。そこで妙なことを言うが、この句の面白さは「ねえねえ、白菜ってさァ、見てるとさァ、だんだんこんな感じになってくるじゃんよぉ……」という女子高生みたいな口調の感想に集約するしかない、そんなところにあるのだと思う。白菜か白菜畑か、見ているうちに作者はふと「人の恩」というものに、たしかに白菜に触発された格好で思い当たったのだ。その確かさを、直裁に読者に伝えようとしている。同じ冬の野菜でも、対象が大根や人参であったとしたら、たぶん「人の恩」には行きつかなかっただろう。……などなどと、読者に数々の素朴な疑問を生じさせておいては、結果的には句のようであるとしか思わせない説得力が、一貫して阿部句の方法の中核にはある。『阿部完市全句集』(1984)所収。(清水哲男)』(引用元)。今回は断捨離の真髄について。

南洲寺住職「焔恵和尚」筆(えんけい和尚、鹿児島市)。毎年干支色紙を描かれます。私ごとながら昨年夏引っ越しました。その際勘弁してと言いたいくらいの「断捨離」・・ふと思いました。断捨離とは「捨てる」ことではなく「絞り込むこと」「集中すること」言い換えれば「夢中になること」一言で言えば「純化:じゅんか」であると。純化の過程で当然ながら「断つ」「捨てる」「離れる」など行います。和尚の解説を読んで意を強くしました。

「何かひとつ夢中になる」・・まさにこれぞ断捨離の極意・真髄でしょう。先日、博多西中洲で大学時代の友人と飲みました。お互い還暦を過ぎた今、異口同音に「これからはやりたいことをやる!」時に「坐禅の時は煩悩を捨てよ」などと耳にします。実際に坐って「頭の中を空(から)」にすることは至難の業で、ひとつのことだけを集中して深く深く考えることの方が可能です・・これも純化

今の世、あまりにも「モノやコトや情報」が溢れ返っています。小生は二十歳過ぎた頃、テレビ捨てました。八年ほど前に車を手放しました。テレビ捨ててラジオを拾い、車を手放して歩きを手にしました。次に捨てるものは?手放すものは?行動規範を「純化」に照らし合わせれば答えは自ずと出るでしょう。では皆さま、ご自愛の程ご自愛の程。

BBTime 674 口の悦び

「風呂吹にとろりと味噌の流れけり」松瀬青々

2025/01/04投稿
 謹賀新年 今年もよろしくお引き立ての程。目にしただけで美味しそうな句です。解説は『句も上手いが、この風呂吹大根もいかにも美味そうだ。「とろりと」が、大いに食欲をそそってくる。あつあつの大根の上の味噌の色が、目に見えるようである。松瀬青々は大阪の人。正岡子規の弟子であった。大阪の風呂吹は、どんな味噌をかけるのだろうか。東京あたりでは、普通は胡麻味噌か柚子味噌を使うが、生姜味噌をかけて食べる地方もあるそうだ。私は柚子味噌派である。いずれにしても、大根そのものの味を生かした料理だけに、子供はなかなか好きになれない食べ物の一つだろう。大人にならないと、この深い味わい(風流味とでも言うべきか)はわかるまい。ところで、「風呂吹」とは奇妙なネーミングだ。なぜ、こんな名前がついているのか。どう考えても、風呂と食べ物は結びつかない。不思議に思っていたところ、草間時彦『食べもの歳時記』に、こんな解説が載っているのを見つけた。「風呂吹の名は、その昔、塗師が仕事部屋(風呂)の湿度を調整するために、大根の煮汁の霧を吹いたことから始まるというが、いろいろの説があってはっきりしない」と。『妻木』所収。(清水哲男)』(引用元)。初投稿は「口の悦び」について。

画像は朝日新聞コラム「折々のことば」2024/12/31です。ご覧の通り、同感大賛成。以前「最後の晩餐」に書いております、こちらもどうぞ。お分かりの事とは思いますが、どうぞ「口と足」だけは日頃からメンテナンスして機能を守ってください。

「生きた唇」・・素晴らしい!だからこそ「ご馳走、お喋り、接吻、笑い、歌と、人の幸は口に集中する」のです。「幸」を存分に味わうためにも「口と歯」のお手入れをお願いします。必要な時にはアシストいたします。「歯ハ、磨イテモモラウモノ」 皆様、ご自愛の程ご歯愛の程

BBTime 673 ゆく歳

「うつくしや年暮れきりし夜の空」小林一茶

2024/12/31大晦日投稿
 2024年も今日で終わり、画像は今朝のお姿(桜島)です。句の解説『今年1998年は、一茶に締めくくってもらおう。ここまでくれば、ジタバタしてもはじまらない。一茶とともに、夜空でも眺めることにしたい。ただ、ミもフタもないことを言っておけば、一茶の時代は陰暦の大晦日だから、二カ月ほど先の空を詠んでいる。そろそろ梅も咲いているかもしれぬ早春の夜空だ。だから、相当に今夜とは雰囲気は異なるが、押し詰まった気持ちには変わりはないのである。古句で締めたついでに、鎌倉末期から南北朝に生きた兼好法師の『徒然草』より大晦日の件りを引用して、今年度の『増殖する歳時記』の本締めとしたい。ご愛読、ありがとうございました。「晦日(つごもり)の夜、いたう闇(くら)きに、松どもともして、夜半(よなか)すぐるまで、人の門たゝき走りありきて、何事にかあらん、ことごとしくのゝしりて、足を空にまどふが、暁がたより、さすがに音なく成りぬるこそ、年の名残も心ぼそけれ。亡き人のくる夜とて玉まつるわざは、この比(ころ)都にはなきを、東(あずま)のかたには、なほする事にてありしこそ、あはれなりしか」。(清水哲男)』(引用元)。今回は今日大晦日の毎日新聞「余録:よろく」のご紹介。

【い】犬も喜ぶ50-50【ろ】露朝の盟約、世界の迷惑【は】はて、夫婦別姓は?【に】日常になった異常気象【ほ】保護司の献身支えねば【へ】紅こうじにレッドカード【と】動画も積もれば票となる【ち】賃上げ中小悲鳴上げ【り】理不尽な客お断り【ぬ】抜け出せぬ原発の沼【る】ルールそこのけ選挙妨害【を】折り鶴の願い届いたノーベル賞【わ】忘れない世界のタクト【か】ガザの子らへぬくもりを【よ】よみがえるトラのどう喝【た】大逆風に安倍散るドレン【れ】連結外れ、こまち困った【そ】空でピアノが弾けたかな【つ】月の裏側行っチャイナ【ね】寝耳に水原【な】南海も備え確認を【ら】ライド、シェア伸びず【む】無罪でも時は戻らず【う】雲散無常の石破カラー【ゐ】インテルまいってる【の】ノートルダムの鐘再び【お】お酒の技に世界が乾杯【く】「黒い雨」に晴れ間【や】やりで射止めた金メダル【ま】真っ黒なホワイト案件【け】下克上ハマの番長【ふ】富士山隠したインバウンド【こ】コメ不足にもほどがある【え】炎上機、奇跡の脱出【て】「手取り増」で議席増【あ】アサド後に朝は来るか【さ】サンタ苦労す物価高【き】金利あるのに放漫財政【ゆ】尹(ユン)殿、ご乱心【め】メガへ加速ホンダ日産【み】右へ右への欧州選挙【し】SHOGUNに軍配【ゑ】AIにも愛を【ひ】漂流するプラごみ条約【も】もぬけの空の貸金庫【せ】政治資金寄生法【す】スターの輝きドロンと消えず【京】きょうの祈り能登の明日へ

これも今朝大晦日の空です。いろいろなこと悲喜交交あった歳でした。果たして来る歳は?無事とは言いませんが、穏やかな歳になってほしいと思います。では皆様、ご自愛の程ご歯愛の程

追加:過去の「余録」はこちらを。

BBTime 672 良薬

「いつの間にうしろ暮れゐし冬至かな」角川春樹

2024/12/15投稿 今夜今年最後の満月 12/20追加
まさに臘月尽(ろうげつつく)今年も余すとこ二週間余り。句の解説は『冬至の日暮れです。「いつの間に」、日が暮れてしまったのだろうという驚きがあります。続く「うしろ」の使い方が巧妙です。暮らすということは、掃除でも、料理でも、前を向くこと、次の手順をこなすことです。生きているかぎり、好むと好まざるにかかわらず、私たちは、「前向き」に行動し、予定を気にしながら、先のことを考えて暮らしています。しかし、掲句は、「いつの間にうしろ」と書き出すことで、驚きながら、うしろを振り返る身振りを読み手に与えます。ふり返ると一日が終わり、一年が終わっていく。冬至の暮れは早く、東京では16時32分。一年のあれやこれやが思い起こされ、暮色に消え、長い夜を過ごします。「存在と時間」(1997)所収』(引用元)。今回は「良薬は口に苦し」は価値あることなのか?について。冒頭の画像(薯蕷饅頭)は鹿児島明石屋(2024/12月)のHPより。

ほぼ日」の今日のダーリン(12/10付)。
次のように続きます。

読んでいただければお分かりと思います。今回、小生が最も伝えたいのは「聞き入れやすいように工夫するよ」です。素人(しろうと、一般の人)にとって難しい・少しでもハードルが存在するのであれば、それらを簡単にたやすくしてあげるのが玄人(くろうと、プロ)だと思います。素人の方にとって容易でないことを、そのまま「良薬口に苦し」だと押し付けるのはプロのやることではありません。

軸は「看々臘月尽:みよみよろうげつつく」
「良薬口に苦し」と同じようなことが「歯磨き・セルフケア」にも言えます。歯磨きの必要性、歯磨きの方法、ムシ歯予防に必須等々はみなさんご承知。しかし、それができないから歯医者から「ムシ歯」を見つけられるのです。「歯磨き=良薬」これは間違いありません(歯磨きとは歯の汚れを物理的に除去すること)。そうであれば「口に苦し」ではなく、せめて「苦くない」にすべきでしょう。それを行うのがプロ(歯科医・歯科衛生士)です。三ヶ月に一度のメンテナンスならば、是非月に一度のメンテに。セルフケアにおける歯ブラシ、歯磨き粉、方法などについてもプロに確認してください。最後にアドバイスをひとつ「歯は、磨いてももらうもの」 皆様、ご自愛の程ご歯愛の程。
12/20追加 「歯は磨いてももらうもの」を実践している「おやつ堂」!