和のなかの白ー掘り起こし記事より

和のなかの白 205/03/15号より

「白梅のあと紅梅の深空あり」   飯田龍太

この時季、年末年始には、日常のなかに「和」が日頃よりも多く顔を出す。お歳暮につける熨斗や水引。大掃除で張り替える障子紙。門松、注連縄などのお正月飾り。年が明けては、お年玉を入れる熨斗袋やぽち袋。おせち用の白木の箸など、いわば、期間限定モノが数多く登場する。それらを見てみると、その多くのモノが白いモノである。

まず、白についていくつかの本を開いてみよう。

「最も明るい色。あらゆる波長の可視光線を物体を見て感じられる色をいう。ただし、完全な白色の物体は現実には存在しない。」(『色の手帖』より)

「太陽の光線をあらゆる波長にわたって一様に反射することによって見える色。雪のような色。何も書いたり加工したりしてないこと。潔白。」(『広辞苑』より)

「まじりけがない。しろくなる。しらむ。あかるくなる。しろくする。あきらかにする。あかるい。いさぎよい。」(『角川漢和中辞典』より)

古来日本では、正月をあらゆるものの始まりとする習わしがあった。数え年はその典型であろう。その始まりにあたって、白を多用したことには、如何なる意味があるのであろうか。おそらく、日本の伝統文化の書を繙かなくとも、白が清めの意を持つことは、想像に難くない。

お茶の点前の中には、幾度となく清めの所作がある。もちろん、準備の段階で、茶碗をはじめ、使う道具は洗い清めてある。そうしていながら、客の目の前でさらに清める。習いたての頃は、なかなかこの真意が分からず、ただ煩雑に感ずるだけであった。しかし「洗心」の茶軸を見たときに、点前の中の清めの所作は、道具を清めるのではなく、手前している本人の心や思いを清めていることを体感した。

白は、まさしく、清めの色と言えよう。ゆえに、白くするということは、和においては、清めることであり、浄化することであるといえるのではないであろか。

「点前の清めの小さな所作によって、心に清涼が訪れるという経験は、概念の奇蹟としてそのようなプロセスの根幹を占めていたに違いない。その瞬間、自分の懊悩もまた概念上の懊悩にすぎないことを、ほんの短い刹那にせよ、覚知できるのである。」
(『心理学者の茶道発見』より)

「侘びの思想は、現実を受け入れる姿勢である。その侘びの思想を体現した茶道は、私たちの懊悩の多くが概念の誤写であることを無理なく実感させてくれるシステムである。現実受容をはかり、心の癒しをはかるツールとして、今日まで機能して来たのである。私自身、この茶道の癒しの機能にずいぶん救われている。この癒しを少しでも多くの人に味わっていただきたいと願っている。」(同上より)

いささか難解な文ではあるが、清めの概念の一助になればと思い、紹介した。白くする、すなわち清めることによって、人は癒されるのである。自分自身の癒しを求めて、神に手を合わせるのではないだろうか。癒すために清めるのである。ならば、白くするということは、もちろん視覚的に歯は白くなる。しかし、その白い歯を求める心は、自分自身への癒しではなかろうか。

さて、冒頭の句のように、白と相性が良いのは「紅」である。九十九歳の賀の祝いを白寿という。「百」から「一」をとれば「白」になることからと聞く。茶名にこの「白」がつくものがある。薄茶に使う茶名に多いような気がする。聞けば、その名前には最上級にはひとつ足りないと言う意味をもつらしい。このことを口元にあてはめれば、そのひとつ足りないことを補うものは、クチビルではなかろうか。白い歯と紅いクチビルで、まさしく紅白である。

「お祝いの金封や品物に飾られた赤と白の水引や赤と白の紙を重ねて折ったのしをはじめとして、慶びの贈答と言えば紅白一対の色合わせで決まる。

赤は昇る太陽や燃える炎、熱く流れる血の色である。生命や躍動、生産をイメージする。白は日本人にとって、神秘や霊的なものを意味する色であったという。神様へのお供えの器がすべて白木であることが、古来、色を塗らない白木に神性を見たことを物語っている。白は無色を意味したものか。そうならば生命を表す赤と、神秘を表わす白との組み合わせが紅白となる。紅白の意味は生命の神秘すなわち宇宙である。ともあれ、この配色には、潔さとひたすらな明るさがある。」(『引出物』より)

顔において、クチビルが動くことを考慮すると、歯とクチビルを同等の一対のものとしてとらえるよりも、「歯はクチビルの脇役」と考える方が、面白いかもしれない。白い歯は、脇役として紅いクチビルを引き立たせる。

「コート・ドールの皿はすべて真っ白です。絵も文字も入っていません。真っ白なお皿がいいと最初から決めていました。絵皿を使うつもりはありませんでした。」(『メニューは僕の誇りです』より)

この文にあるように、西洋料理においても、真っ白な皿が多用される。古典的喫茶店におけるコーヒーカップもそうである。中国おける白磁に至っては、1500年をこす歴史がある。いずれも、その器に盛られる料理を引き立たせるためであろう。

また中国には古代から陰陽五行説なる考え方があり、その考え方を踏まえると、青春・朱夏・白秋・玄冬で白は秋になるそうである。白磁青磁の色は、雨後晴天の青空と白い雲の色を模したと言われる。この白秋もまさしく、秋の空気の清涼感・清澄感を象徴するのではなかろうか。

「白」について、このように考えてみると、洋の東西を問わず、「白」とは清らかでありながら、謙虚さをもつ。加えて、清めるという動詞的な意味合いを持つことによって、癒しの色でもある。和においては、白くすること、すなわち清めることであり、清めるということは、自分自身を癒すことであると結論づけることができよう。言うまでもなく、癒しは医療の原点である。

参考文献/
新版 色の手帖     永田泰弘監修 小学館
広辞苑第五版      岩波書店
漢和中辞典       貝塚茂樹 他編 角川書店
心理学者の茶道発見   岡本浩一 淡交社
引出物         小山織 マガジンハウス
メニューは僕の誇りです 斉須政雄 新潮社

(日本歯科漂白研究会 第1巻第1号会誌投稿 平成15年2月1日発行)
ハナマルメール2005/03/15号より

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