「たくあんの波利と音して梅ひらく」加藤楸邨
2022/1/22投稿 2/1お替り追加
句は「たくあん」なのに「かつ丼」とは、これいかに。「新編 折々のうた 第三」には『「波利」はハリと読むのかそれともパリか。後者の方が実際の音には近いが、この場合にはあえてハリと読むべきだろう。たぶん作者は、「波利」と意識的に漢字で書いて、パリという音をうしろに漂わせながら、ハリの音に軽やかに遊んでいるのである。その結果「梅ひらく」がこの音と優しく響き合う。たくあんと梅の花がこんな形で結びつけられるのを見ることに、詩を読むだいご味もあるといえる』(11頁より抜粋)。毎年、この時期になるとこの句を思い出し味わうとともに「沢庵食べたい!」と唾液が・・今回は「食べたい!」のお話。
先日(1/21)の今日のダーリンは「かつ丼」。久々に(ひょっとすると初めて)「かつ丼食べたい!」の文章でした。食べて書いた人は糸井重里氏。何はさておき、まずは召し上がれ!
『水曜日のお昼に、去年からずっと食べたかった「かつ丼」を食べに行った。「ソースかつ丼」も大好きではあるのだけれど、やっぱり少なめの丼つゆでさっと煮て、卵でとじたものが、本流というか王道というか、ぼくのいちばんなのだ。』
『浅い丼鍋でつくるから、揚げたてのとんかつの一部分には、まったくつゆがかかってないところがある。火にかけて、つゆがわぁっと沸いたところに長ネギを入れ、そこに揚げたばかりの熱いとんかつをするっと滑らせる。とじる卵にしても、まんべんなくかけたりしないし、黄身と白身はあんまり混じり合っていない。あえて、出来上がりの「ばらつき」を料理にしているのだ。食べるときに箸を入れたその部分によって、ちょっとずつ別のメロディが聞こえてくるわけだから、おいしさの変化がたのしめる。
つゆのかかったごはん、長ネギと重なるとんかつ、かりっとしたころもの部分もうまいし、しっとりとつゆのしみた煮物としてのかつもたのしめる。ときには、とろっとした卵の黄身をごはんに混ぜて、卵かけごはんのように食べる一瞬もある。途中途中で、箸休めのように白菜の漬物を食べたり、小梅をかりっとかじったりしてもいい。思い出したように、かつおぶしの香りも軽やかに残るなめこの味噌汁をすすったりもする。』
『そして、これはみんながやっていることではないのだが、小皿に盛ってくれたキャベツの千切りに、とんかつ用のソースをかけたものを待機させておいて、そこに最初に目をつけておいた、つゆも卵もかかってない、まだ衣のちくちくしているようなかつの一切れを取り分け、ソース味のとんかつとしてキャベツといっしょにいただく。ロースかつ定食にせずに、かつ丼にしたわたしなのに、ソースのとんかつも味わえるのである。
それも、かつ丼をあえて「むら」に仕上げているおかげだ。この店の、こういうかつ丼のつくり方は、いまは亡きご主人がつくっているころからずっと同じだ。奥さんと娘さんが、店の味をしっかりと引き継いでいる。
行こうと決めて行く前の日々も、たのしみだったし、 こうやって、思い出している時間も、またおいしい。
今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。とんかつのなかでも特に丼については、「やまいち」だなぁ。』
最後に出てくる「やまいち」とは東京淡路町のお店だそうな(小生未体験)。こんなにも美味しい「かつ丼」は読んだことがない。嵐山光三郎著「頬っぺた落とし う、うまい!」にもかつ丼はなかったような、明日にでも「やまいちかつ丼」食べたい!
小生、高二から寮生活で日曜は食事無く自前調達。学校近くの喫茶食堂「花の木」のカツ丼が好きでした。味もさることながらおかみさんが美人、けどいつもご主人と仲悪そうに働いていました。画像のような陶器の丼ではなく、底の浅い塗物の大きな蓋付きで、蓋を取った時に立ち登る卵とじの甘い湯気をはっきり覚えています。残念ながらその店は今はなし。
画像は銀座「とん喜」のかつ丼。昔、この店で隣テーブルの男性(工事現場労働者風)が「歯が悪いから小さく切ってくれ」に、お店のご主人「切ったらかつ丼にならん」と。横で聞きながら「だよね!だから歯は大切」とひとり合点しました。カツのみならず、付いてくる沢庵も歯が健康でなければ「パリ」とはいきません。皆さま、かつ丼を味わうためにも御自愛の程ご歯愛の程。
お替り!ここのメニューにかつ丼はありません、丸一です。画像は上ロース、ボリュームすごいでしょ!店は丸一、味は花丸。