「目をつむれば何もかもある春の暮」藺草慶子
2022/4/8投稿 4/8追加
日々「春なのに・・」と言いたくなります。春愁(しゅんしゅう)ではなくウクライナ戦争への怒りと憂いです。句の解説には『登場するのは、もう記憶の中でしか会えないたくさんの人々や、既に無くなってしまった昔家族で住んでいた家などなど。なにもかも今は存在していないが、少し目を閉じるときっと鮮やかに思い出されるのだ。それは、ただ懐かしい思い出とかありありとよみがえる記憶というよりまさに、何もかもある、であり生きて来た現実なのだろう。春の夕日を遠く見ながらそんなことを思った』(解説より抜粋)。祈るしかないです。4/4のほぼ日「今日のダーリン」より。
『・週末は人に会わないでメディアにばかり接していたので、
戦争の情報を入力しすぎて、ちょっと鬱になる。
まさか、戦争映画でしか見たことのないような場面を、
ライブに近い映像で見ることになるとは思わなかった。
おおげさな言い方かもしれないけれど、2022年に、
人類がはじめて経験していることではないだろうか。
過去の記録映像としてでなく、戦争の映像を見ること。
非日常的な被害や苦しみの報告を刻々と知っていくこと。
はるか遠くにあると思っていた地域が、
ほんとうに、「いま・ここ」とつながっていて、
そこで攻撃という名の殺人や破壊が行われていること。
人間の思惑や戦略によって、その戦争が動いていること。
限られた質と量の「大本営」発表だけで知るのでなく、
重要な機関からの報告やら推察、そして偽情報までが、
ひっきりなしにテレビやらSNSやらで入ってくる。
もしかしたら、日本にいるぼくらは、
ロシアにいる兵士たちよりも、ウクライナの市民よりも、
受け取っている「情報量」だけは多いのかもしれない。』
『この情報の大きな渦に巻き込まれると、
こころの動きが取れなくなったりもする。
たくさんの人の命や、人生がかかっていることだけに、
距離が8193キロメートル離れていても、
感情が共振してしまうのだ。
なによりも、刺激的な情報につい注目してしまうのは、
人間の生存本能のせいもあるのだろうとは思う。』
『そんなときどうするかについて、
国際政治学者(平和構築)の篠田英朗氏が書いていた。
「私の場合、音楽を聴いてコーヒーを飲み、
日常性を自分に感じさせながら、
自分ができることを考えます。」というツイートに、
さらに追いツイートで「けっこう重要なのは、
深く長い深呼吸を繰り返すこと。」とあった。
現実の戦争と平和を考え続けてきた人の方法だ。』
『そして、そうだった、ぼくも方法を持っていたのだ。
「黙祷」を儀式として持つことだった。
それ以外の時間の「日常」をしっかり感じるためにも。
今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
別のことを書こうとしたけど、どうにも書けなかったので。』
(以上、4/4今日のダーリンより)
言葉、ありません 祈るのみ・・合掌
追加 曲を聴きながら、歌詞の意味を確認して涙しました、紹介します。このフレーズは2’16”(2分16秒)頃からです。歌詞や和訳の出典はこちら。