「閑さや岩にしみ入蝉の声」松尾芭蕉
2022/9/3久しぶりの投稿
お久しぶりです。これほどまでに間隔があいたのは初めてです。さて前回の「惜しい欲しい」の続きです。まずは少々季節外れですが句の解説から『芭蕉のあまりにも有名な句ゆえ、ここに掲げるのは少々面映いけれど、夏の句としてこの句をよけて通るわけにはいかない。改めて言うまでもなく『おくのほそ道』の旅で、芭蕉は山形の尾花沢から最上川の大石田へ向かうはずだった。けれども「一見すべし」と人に勧められ、わざわざ南下して立石寺(慈覚大師の開基)を訪れて、この句を得た。「山上の堂にのぼる。岩に巌を重ねて山とし、松栢年旧、土石老て苔滑に、岩上の院々扉を閉て、物の音きこえず。云々」と記してこの句が添えられている。(中略)天地を結ぶ閑けさとただ蝉の声、それは決して喧騒ではなく澄みきった別乾坤だった。あたりをびっしり埋め尽くした蝉の声に身を預け、声をこぎ分けるようにして、汗びっしょりになりながら芭蕉の句を否応なく体感した。奇岩重なる坂道のうねりを這い、途中の蝉塚などにしばし心身を癒された。芭蕉の別案は「山寺や石にしみつく蝉の声」だが、「しみ入」と「しみつく」とでは、その差異おのずと明解である。』(解説より抜粋)。小生、週に一度坐禅をします。八月は三回、一回目は「まさに蝉時雨」、二回目は「ひたすら雨音」、三回目は「無音」でした。尤も無音とはいえ早朝の街の音は流れてきます。一回目「蝉時雨坐禅」終了時、なんとも言えぬ心地良さでした。ここまでは枕、もうひとつよくご存じの句。
「古池や蛙とび込む水の音」松尾芭蕉
解説は『俳句に関心のない人でも、この句だけは知っている。「わび」だの「さび」だのを茶化す人は、必ずこの句を持ち出す。とにかく、チョー有名な句だ。どこが、いいのか。小学生のときに教室で習った。が、そのときの先生の解説は忘れてしまった。覚えておけばよかった。どこが、いいのか。古来、多くの人たちがいろいろなことを言ってきた。そのなかで「実際この句の如きはそうたいしたいい句とも考えられないのである。古池が庭にあってそれに蛙の飛び込む音が淋しく聞えるというだけの句である」と言ったのは、高浜虚子だ(『俳句はかく解しかく味う』所載)。私も、一応は賛成だ。つづけて虚子は、この句がきっかけとなって「実情実景」をそのままに描く芭蕉流の俳句につながっていく歴史的な価値はあると述べている。この点についても、一応異議はない。が、私は長い間、この句の「実情実景」性を疑ってきた。芭蕉の空想的絵空事ではないのかと思ってきた。というのも、私(田舎の小学生時代)が観察したかぎりにおいて、蛙は、このように水に飛び込む性質を持っていないと言うしかないからだ。たしかに蛙は地面では跳ねるけれど、水に入るときには水泳選手のようには飛び込まない。するするっと、スムーズに入っていく。当然、水の音などするわけがない。そこでお願い。水に飛び込む蛙を目撃した方がおられましたら、ぜひともメールをいただきたく……。(清水哲男)』(解説より)。先日カフェでの話に、この句が登場。一説によると、この句の元は「禅の公案」とのこと。公案とは老師が雲水に出す問題のことです(詳しくはこちら)。
おそらく学校では「古池があって蛙が飛び込み・・チャポン」のような場面を句にしたと習われたことでしょう。先程の「一説」が源だとすると、それはそれは深遠な解釈が必要な一句なのです。難解ですのでそのまま引用します(引用元はこちら)。
『松尾芭蕉の句集『春の日』に以下の有名な句があります。
古池や 蛙飛びこむ 水の音
一説では根本寺(現在の茨城県鹿島)住職の佛頂和尚のもとで臨済禅に参じた折の一節が元になっていると伝わっています。根本寺と鹿島神宮の間で領地争いが起こり、佛頂和尚は末寺であった臨川庵(深川。現在は臨済宗妙心寺派臨川寺)に幾度となく滞在していました。和尚の滞在中に芭蕉が訪れ、参禅を重ねていたようです。佛頂和尚が尋ねました。如何なるかこれ、青苔未生以前の本来の面目。
(青々とした苔が生き生きとしているけれど、苔が発生する以前の本来の面目とは何か?)すると芭蕉は、
蛙飛びこむ 水の音
と答えたと伝わっています。この公案は、
父母未生以前の本来の面目
(お前の両親が生まれる前の、お前の本来の面目とはなんだ?)という形で、円覚寺の釈宗演老師に夏目漱石が参禅したことでも知られています。両親が未だ生まれていない時の自分とはなにか?と問われても、常識や知識では答えに窮します。けれど立ち止まって自分という存在を考え直すと、両親にとどまらず、大きな生命の流れの中に端を発していることに気づきます。大きな生命そのものが、即今みずからの中にあることを心身で知覚することが肝要だと、この公案から知ることができます。蛙が池に飛び込む音はどの時代でも不変の音ですので、芭蕉はこの公案に 蛙飛びこむ 水の音 と応えたのもかもしれません。』(引用元)。すなわち「蛙飛び込む水の音」が先に出て、後から「古池や」がついて俳句となったのかも知れません。
この伝え通りに句を解釈するならば、清水哲男さんの解説文にあるように『するするっと、スムーズに入っていく。当然、水の音などするわけがない。』と、これは正しい!理解しているようで、全くもっての頓珍漢(トンチンカン)も多々あるようです。さてやっとタイトルの「惜しい惜しい」歯磨き粉の使い方について。カルノオススメは「最後にちょびっと、うがいはしない」です。まずは現在の歯磨き粉(歯磨きペースト)の原型とも言える「ペプソデント」について。
ペプソデントがアメリカで発売されたのが1915年、1914年7月28日第一次世界大戦勃発です。ペプソデントは世界大戦がきっかけとなって世に出ました。拙ブログ「BBTime 435 ハミガキ」から引用します。『しかし、そのホプキンスも旧友からペプソデントを持ち込まれたときには、あまり興味を示さなかった。アメリカ人の歯の健康状態が急速に悪化していることは周知の事実だった。国が豊かになるにつれて、人々は甘い加工食品を大量に購入するようになっていた。第一次世界大戦の徴兵が始まったとき、あまりに多くの新兵にムシ歯があったため、口腔衛生に対する意識の低さは国家の安全を脅かす問題だという政府見解が出されたほどだ』(57-58頁より)。『問題は、歯磨きの習慣がないこの時代には、ほとんど誰も練り歯磨きを買わないことだった。口腔衛生が国家の問題となっても、誰も歯を磨かなかったのである』(引用元)。・・今から100年以上前に現れたのがハミガキペーストなんです。しかもペプソデントの目的は、なんとズバリ!ムシ歯予防効果の無いこのペーストを「使用させること・消費させること」が目的だったのです(詳しくは本「習慣の力」93ページ参照のこと)。現在のペーストには大方「ムシ歯予防効果のあるフッ化物」と「歯周病予防効果を期待する成分」が入っています。こちらの記事も参照ください。
100年たった今、正しい歯磨き粉(ペースト)の使い方を伝えます。まず、まともに作られた歯ブラシ(ホテルにある無料歯ブラシはおすすめしません)だけで磨きます。ブラシを口に入れるとすぐに唾液が出てきますので、唾液磨きをおすすめします。電動歯ブラシも同じです。一通り(3分から5分はかかります)磨いた後に、ペーストをほんの少し、3ミリから5ミリ程度で十分ですのでブラシに着けて、磨くというより歯に塗っていきます。唾液と混ざって歯全体、口全体に行き渡ったら、吐き出して終わり。うがいはすすめません。お風呂上がりに手にクリームを塗った後、もう一度手を洗いますか?洗わないでしょ、同じです。うがいしたらペーストの薬効成分が流されてしまいます。惜しい惜しい。
とは言え、この文章を読んで即実行に移す人は少ないでしょう。「雀百まで踊り忘れず」です、なかなか身についた習慣は変えられないもの御一考ください。では皆さま、ご自愛の程ご歯愛の程。