BBTime 516 明珍家の音

BBTime 516 明珍家の音
「厚餡割ればシクと音して雲の峰」中村草田男

厚餡:あつあん「薄皮の饅頭でしょう」と解説にありますが、歳時記によっては「あんパン」とも。ちと早いのですが・・『季語は「雲の峰」で夏。もこもこと大きく盛り上がった入道雲を意識しながら、何も暑い季節に「厚餡(あつあん)」を「割る」こともあるまいに、と……。要するに、飲み助は甘いものを暑苦しいと思い込んでしまっているのです、たぶんね。でも、最近酒量の落ちてきた私にはよくわかるようなつもりになっているのですが、そんなことはないようです。薄皮の饅頭(まんじゅう)でしょうか。特に冷やしてあるわけでもないのに、手にする「厚餡」入りの菓子はどこか冷たく重く感じられます。作者が言いたいのは、この「厚餡」と「雲の峰」との質感の相似性でしょう。あの「雲の峰」も、いま手にしている饅頭と同じように、そおっと丁寧に「割ればシクと音して」割れるようだ。「シク」が眼目。「パクッ」でもなければ、ましてや「バカッ」でもない。あくまでも大切に割るのですから、無音に等しい「シク」と鳴るわけですね。日本のどこかで、今日もこんなふうに「雲の峰」を眺めている人がいるのかと思うと、それだけでも心が安らぎます』(解説より抜粋)。今回は前回「変異人」を踏まえて「変異しない」についてのお話。

画像は姫路の明珍火箸風鈴、まさに明珍さんは「変異人」・・時代の流れに形は変われど、唯一変異しなかったものは「音」なんです。以前、拙連載「ものづくり名手名言」で取材させていただきました。以下、抜粋引用します。
『まずはいただいた資料を元に、明珍家の歴史を少し紹介します。・・・“明珍”の名の由来は、平安の頃、京都九条で甲冑師をしていた宗介紀ノ太郎が、近衛天皇に鎧、轡を献上したところ「触れあう音が朗々とし、明白にして、たぐいまれな珍器である」とお気に召され、明珍の姓を賜ったとのことである。江戸時代になると、明珍宗信が江戸に居を構え、17世紀半ば以降、系図や家伝書を整備するなどして自家の宣伝に努めた。また、鍛造技術を顕示した作品を残すとともに、古甲冑を自家先祖製作とする極書(きわめがき;鑑定書)を発行している。特に、明珍家の特徴としては家元制度を整えたことであり、江戸時代の明珍本家には諸国から門人が集まった。その後、徳川譜代の大名で姫路城主となった酒井公に従って姫路に移り住み、代々が歴々の藩主に仕えた藩お抱えの甲冑師で、千利休の注文によって茶室用の火箸を作ったことが語り継がれている。』(引用元

「52代目として当然のことのように、家業を継がれたのですか?」・・とんでもありません、そりゃあもう大変でしたわ(笑)。江戸の終わりまでは酒井の殿様から禄貰うて仕事してたわけです。そやから、贅沢はできませんけど、衣食住には困らしません。そら、ええ仕事できますわ。それが、明治になって禄がのうなりました。作るもんも甲冑から、それまでは副業やった火箸が専業になってきたんですわ。大正時代ですか? 志賀直哉の「暗夜行路」は。あの本のなかにも「明珍火箸」がでてきます。まあ当時は必ず、家に一つは火箸があったもんです。加えて御 先祖さんから受け継いできたうち独特の鍛え方によって、ええ音がする。そういうわけで、そこそこ需要はあったんです。昭和になって、太平洋戦争が本格化した頃に私は生まれました。そりゃもう深刻な鉄不足で、軍が来て鍛冶道具まで供出させられて、親父は少しばかりの財産を切り売りしながら食いつないどったんですわ。・・・終戦後の昭和27年から、地元の名士のかたのお口添えもあって仕事を再開するんですけど、どうにか軌道に乗り始めたと思うたら、今度は昭和35年頃からの高度経済成長による燃料革命ですわ。それまでは、夏場はともかく冬場はまだ注文がありよりました。それが、石油ストーブがでて、ガスコンロに電気コンロと・・・。もうお手上げですわ、注文なんてありゃしません。・・・当時、一番上の兄が親父とやっとったんですけど、そんな状況やさかい、もひとつ身がはいらん。他の兄たち(次男,三男)は、すでに別の仕事に就いていました。さらに私らの生まれた家まで人手に渡る。そんなときに高校卒業。食っていけるめどもありませんけど、今まで何十代と続いた技を「絶やすわけいかんと違うか」という使命感だけで、「何とかやってみよう」「何とかやりたい」という気持ちだけで、家業に就きました。三度の飯食うにも借金せなあかんというときの出発でしたわ。』(引用元)。

「では、そのあとに「火箸風鈴」を考案されたのですか?」・・・そうです。今だに風鈴を考えつかなんだらと思うと、ゾーッとしますわ。さっきも言いましたように、夏場はほとんど注文がありません。代々伝わってきた鍛え方によって、火箸が触れ合うときにええ音がする。ほな、この音を何とか使えんやろかと思うたわけです。そりゃあ、もう生きんがため、この技を伝えんがため、それだけのことですわ。何もきれいごとありゃしません。・・・いろいろ考えて、あれやこれや作ってみましたが、どうにか形になったのが昭和40年頃です。不安いっぱい抱えて店に持っていきよりましたところ、2、3日して店から「売れた。あれは売れるで、はよ作れ」との返事。ということで、少しずつ世間様に知れるようになってきたわけです。(引用元

「その音については?本来、副産物のように思えるのですが・・・。」・・・確かに、鉄に音は必要ないかもしれません。けれども、明珍の姓をいただいたのもこの音のお陰ですし、何十代と続いてきたのもきっとこの音あってのことでしょう。近くの大学で調べてもらったところ、鉄そのものやなくて、鉄の鍛え方にこの音をだす秘訣がある、いうことらしいですわ。その後、音色と余韻が優れていて、しかも音源として安定しているということで、ソニーのマイクロフォンのサウンドチェックに使われるようにもなりました。さらに、冨田 勲先生との出会いによって、この音がクローズアップされるようになり、平成9年からは、NHK「街道をゆく」のテーマ音楽に使うていただきました。また、その年の冬には「伝統工芸を守り,暮らしと心に潤いを与えてくれる音」として「音の匠」(日本オーディオ協会主催)にも選定されました。デジタル技術の発達によって、この音のほぼ完全な再現が可能になったらしく、冨田先生の昨年のロンドン公演「源氏物語交響絵巻」のCD化に際し、この火箸の音を加えたいとのことで、この2月に火箸の音色の録音がありました。何かしら、「源氏物語交響絵巻」のなかの「宇治十帖」で、浮舟が雪の降りしきる宇治川に身投げするシーンに合うらしいですわ。(引用元

「この仕事、槌を握って間もなく40年、鉄に苦しめられ、鉄に楽しませてもらいましたわ」とお話されていました。お話を伺っていて、まさしく鉄のような生き方をしてこられたのだなと思いました。鉄はさまざまな形に姿を変えます。たとえ形は変わっても、鉄は鉄。しなやかさ、強さ、時代に翻弄されるなどの脆さ、加えてこの音。時代に合わせて自由自在に形を変化させながらも、普遍のものをしっかりとなかに秘めている、継承してきている。  この「明珍火箸風鈴」の音はまさしく諸行無常の響き、不立文字の音。音を聞くと、思わず手を合わせて拝んでしまいます。この音色の何ともいえない余韻の底には、脈々と続いてきた明珍家の魂、すなわち伝統が聞こえるような気がしました。(平成12年2000年当時。出典はこちら

抜粋ゆえ話が飛んでおります。是非引用元をお読みください。現在(令和三年五月)、明珍宗敬(むねたか)氏が第五十三代として明珍家を継承されております。平安の世から兜甲冑、火箸、風鈴と形を変えつつも、変わることなく脈々連綿と受け継いでこられたものが「音」。令和はまさに「歳歳年年世不同:歳歳年年(さいさいねんねん)世同じからず」・・あなたの「音」その仕事の「音」・・耳を澄ませれば聞こえてくるはずです。ご自愛の程ご歯愛の程。3310

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