BBTime 484 ナイデンテ

BBTime 484 ナイデンテ
「いちまいの皮の包める熟柿かな」野見山朱鳥

これはトルテッローニ、これも一枚の皮(パスタ)の包める・・です。今回は、前回「スフォリーノ」のお替り。まずは句の解説から『掌に重い熟した柿。極上のものは、まさにこの句のとおり、一枚の薄い皮に包まれている。桃の皮をむくよりも、はるかに難しい。カラスと競い合うようにして、柿の熟れるのを待っていた我ら山の子どもは、みんな形を崩さずに見事にむいて食べたものだった。山の幸の濃密な甘味。もう二度と、あのころのような完璧な熟柿を手に取ることはないだろう。往時茫茫なり。なお、この句には、同時にかすかなエロスの興趣もある。『曼珠沙華』所収。(清水哲男)』(解説より)。ちなみに熟柿は「じゅくし」

パスタの茹で加減、特に乾麺においてよく耳にするのが「アルデンテ」。直訳すると「歯において」・・デンテは「歯」です。Wikipediaによると『アルデンテイタリア語al dente)とは、スパゲッティなどのパスタを茹でるとき「歯ごたえが残る」という茹で上がり状態の目安とされる表現』とあり『麺が完全に茹で上がらずに麺の中心が髪の毛の細さ程度の芯を残して茹であげることをいう。芯を残して茹で上げるのは、茹で水の塩分が麺に完全に入らない分辛くならず、ソースも麺に入りやすくなり美味しさが増すからである。”al dente” を直訳すると「歯に~」であり、茹で上がりの「歯ごたえのある状態」を示す用語。パスタ以外にも、野菜などの茹で上がり状態を表現する際にも用いる』とか『なお、「アルデンテは乾麺でなければ成立しない概念であり、生パスタを利用する時はこの概念は適用されない」という勘違いもされているがイタリアでは生パスタもal denteと言う』とのこと。このアルデンテ・・スフォリーノ(の打ったパスタには)には必要ないようです。

画像は鹿児島市のスフォリーノが打ったパスタです。兄弟子の方のブログに『タリアテッレには、アルデンテは不要である。・・・現在の工房で製造するのは幅広のロングパスタ「タリアテッレ」と、詰めものをしたパスタ「トルテッローニ」のみ。ともにボローニャを代表するパスタだ。パスタ打ちにとって最も大切なのは食感。アルデンテでもモチモチでもない。薄い絹のように滑らかな舌触りで、まるで空気のような歯切れの良さを追求した河村さんの手打ちタリアテッレは「パスタの概念が変わる」とも評される』とあります。先日、食べながらこのことを聞いてみると「そうです」とのこと。イタリアではスフォリーノが打ったパスタはアルデンテではないので、離乳食としても食べられているとのこと。ではなぜ「ナイデンテ」なのか?

理由は「プリモピアット」に徹するため。またまた兄弟子(河村氏)ブログに『コース中のプリモ・ピアット。 それがパスタのポジションだ。(中略)「家庭やトラットリアでなら食べ方もある程度自由でしょう。しかし正式なリストランテでは、パスタはあくまでもセコンド・ピアット(メインディッシュ)の前に供されるプリモ・ピアットでしかありません。味覚としても、ボリューム的な観点からも、パスタでお腹いっぱいになってしまってはいけないのです。私にとって、コースの中におけるパスタは、味覚も量も食感も軽めの仕立てに持っていくのが相応しいと考えています」』(ブログより)。スフォリーノ(鹿児島市)がおっしゃるには、アンティパスト(前菜:Antipasto)とセコンド・ピアット(主菜:Secondo Piatto)の間なので、セコンド・ピアットを食べるのに負担にならないように(噛む力や意欲をを温存するために)、じっくり噛まずとも味わえるパスタを目指してますとのこと。お話聞きながら、ふと思いました。パスタの材料は「小麦粉と卵のみ」で砂糖不使用、噛む力の弱い方でも味わえる・・子供から総入れ歯の方まで、まさに老若男女にオススメの一皿と言えます。ムシ歯のリスクはかなり低く、義歯でも味わえる一皿です。

「日あたりや熟柿の如き心地あり 夏目漱石」・・先日、お昼にパスタを頂きました。食後は句のようななんとも言えない満足感と充足感・・是非、御賞味あれ!スフォリーノのインスタグラムは @sfoglinoyoshimoto


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BBTime 483 スフォリーノ

BBTime 483 スフォリーノ
「梅干の真紅を芯に握り飯」中嶋秀子

握り飯なのにパスタ?まずは句の解説からどうぞ。『季語は「梅干」で夏。梅を干す季節から定まった季語だが、句のように「握り飯」とセットになると、夏よりもむしろ秋を思わせる。運動会の握り飯、遠足やハイキングの握り飯など、とりわけて新米でこしらえた握り飯は美味かった。当今のスーパーで売っているようなヤワな作りではなく、まさに梅干を「芯(しん)」にして固く握り上げたものだ。飾りとしか言いようのない粗悪な海苔なんかも巻いてなくて、純白の飯に真紅の梅干という素朴な取り合わせが、目の保養ならぬ目の栄養にもなって、余計に食欲が増進し、美味さも増したのだった。掲句は、そうした視覚的な印象を押し出すことによって、握り飯本来の良さを伝えている。昔話「おむすびころりん」のおじいさんが取り落とした握り飯も、きっとそんな素朴なものだったのだろう(後略)』(解説より)。

加えて春の句ですが「母の日のてのひらの味塩むすび 鷹羽狩行」・・『海苔も巻かず、米と塩だけを供する塩むすびはまさしく家庭の味。かつての母達は、おなかをすかせた子供達のためにさっとおむすびを作ってくれた。贅沢とは無縁だった古き日本の母親達は、その<てのひら>から素朴な、しかし間違いなく美味しいものを生み出してくれた。子が母を信頼するのは、理屈ではない。空腹を満たしてくれたかどうか、である』(櫂未知子著「食の一句」82頁より引用。BBTime449「笑の素」参照)。

今回「塩むすび」のようなパスタを見つけました!皆さん「スフォリーノ:Sfoglino」というイタリア語をご存じでしょうか?小生、初めて知りました。スフォリーノとは『ボローニャでは、パスタの製麺に従事する者を2通りの名称に分けて呼びます。ひとつは”Pastaio”、もうひとつは”Sfoglino”です。Pastaioとは機械を用い製麺する者、SfoglinoとはMatterello(麺棒)を用い完全手作業で製麺する者を示します』(出典はこちら)。先日、フリーペーパーの記事「間借りのグルメ」に「ボローニャ仕込みの週末限定手打ちパスタ」の小見出し。これは調査隊としては百聞は一見に如かず!と先日早速調査へ。そのパスタが冒頭の画像で、次はその記事。

日曜の昼お店に・・白シャツの清潔感ある男性(この人がスフォリーノ)がにこやかに迎えてくれました。間借りゆえか流しの台に「茹でるだけですから」と電熱器ひとつ。きしめんのような平たいパスタの「タリアテッレ」(冒頭画像)と、クリームチーズとほうれん草を詰めた「トルテッローニ」(次画像)の二種のみ。二人で二種頼みシェア、まずはタリアテッレを口に、続いてトルテッローニ。食べ終わらないうちに「替え玉(お替り)可能ですか?」・・「はい可能です」。

感動でした。これ以上「何も足さない何も引かない」パスタ。初めての味わい、蕎麦なら掛け蕎麦、うどんなら素うどん。思わず質問「スフォリーノを名乗っている方は九州でも少ないでしょう?」・・「ひとりです」。「鹿児島市で究極のシンプルパスタだけを提供する」「スフォリーノを名乗る」に対して感動しました、もちろん味にも。ソースも具もないパスタのみで客を満足にさせる・・スフォリーノとしての「気合い」のみで客を幸せにする、志の高さに脱帽です。まさにパスタの伝道師!

画像は再びタリアテッレ。麺は小麦粉と全卵(白身と黄身)のみから作られます。週末(金土17時〜21時、日12時〜14:30)だけの営業。インスタグラム@sfoglinoyoshimoto スフォリーノに敬意を表してイタリア語の曲を。参考までに兄弟子の方の記事を二つ、こちらこちら。ではでは、ご自愛の程ご歯愛の程。1600


BBTime 482 ソンナ!

BBTime 482 ソンナ!
「をりとりてはらりとおもきすすきかな」飯田蛇笏

句の解説にはすすきのイメージとは真逆の「ソンナ、ばかな!」の話が・・『季語は「すすき(芒・薄)」で秋。秋の七草の一つ。(中略)そこで、ひとつどうでしょうか。近所の河原にでも出かけてみて、すすきを手折るなどして句のような風流を味わってみては……。でも、てな誘いにうかうかと乗せられて、すすきを手折ろうなんてことはしないほうが良いですよ。あの茎はとても強くてしぶといですから、普通の人には手折るなんて上品な行為では、まず「をりと」るのは無理でしょう。力任せに左右に何度もねじって、引き千切るくらいの野蛮さが必要です。学生時代にはじめて掲句に出会ったとき、私は蛇笏を人並外れた怪力の持ち主かと思いましたね。どう考えても、この句は丈の高い丈夫なすすきを「をりとりて」いるとしか読めません。なにしろ、手にして「はらりとおもき」なのですからね。そんなすすきを、句はたやすく手折ったように印象づけていますが、またそれでなくては句の美しさが失われてしまいますが、本当にさらりと「をりと」ったのだとすれば凄いことです。私だったら、「ねじきって」とか「ねじおって」、あるいは刃物で「きりとって」とでもやるところでしょうか。しかし、これでは「はらりとおもき」とはいきませんから駄目でしょう。名句の誉れ高いこの句は、ま、あらまほしき世界を描いたフィクションとしての名作なんでしょうね。世の中には「はらりとおもき」に目を奪われた解釈が圧倒的ですが、「をりとりて」にもう少し注目する必要があろうかと思います。むろん、私は俳句のフィクションを否定しません。否定しませんが、これはいささかやり過ぎじゃないのかと。いかにも実際めかした衣裳が、どうにもいただけませんので。(清水哲男)』(解説より)。先日、不動産屋さんとの会話にも雑草すすきが登場。すすきについては、解説に軍配が上がるようです。さて今回はバナナジュースに関する真逆の「ソンナ!」のお話。

バナナジュースに関して「極旨!」「超極旨!」「ほぼ完成」の三部作で完結したと思っておりました。ところが・・雑誌「エル・グルメ」最新号(11月号)に神レシピとして載っていた「決定!バナナジュースの黄金比!」はナント真逆。まず超極旨!の黄金比は「冷凍バナナ:生バナナ=7:3(=2.33:1)」。エル・グルメ黄金比は「冷凍:生=1:2」とほぼ真逆、そんなバナナ!

もちろん、逆黄金比で作ってみました・・美味でした。んーまた、考えます。共通点は「生と冷凍を使う」。両者ともに、それなりに美味しいのです、味わいが違うようです。例えるならば、しっかりとしたボルドーの赤ワインが美味しい、かたや繊細なブルゴーニュの赤も美味しい。現時点では真逆の二つのレシピの判断は保留です、また報告します。ちなみに二つのレシピは・・A)冷凍バナナ70g+完熟生バナナ30g+牛乳130cc B)冷凍バナナ50g+完熟生バナナ100g+牛乳125ccです。さて、秋の夜長にはやはりコーヒーでしょ。ということでコーヒーの歌を二曲ご紹介。1130


追記:ブログアップ後、毎日のようにエル・グルメレシピで作っています。こちらの方がなんとなく良さげです。
追加(10/26):冷凍バナナが生バナナの約二倍のレシピAと、逆に冷凍バナナが半分のレシピBで何度か作ってみました。どうやら軍配を挙げるとするならば「B」です。Aもそれなりに美味しいのですが、レシピB「冷凍バナナ50g+完熟生バナナ100g+牛乳125cc」の方がよりふんわりと甘いバナナジュースになるようです、ご参考までに。

BBTime 481 咖哩

BBTime 481 咖哩:カレー
「秋風やカレー一鍋すぐに空」辻桃子

「カレェェ鍋 すぐにそら」ではなく「カレーひと鍋 すぐにから」です(笑)。解説は『ややこしい句がつづいたので、スカッとサワヤカに。「空」には「から」の振り仮名。カレーライスは、こうでなくてはいけない。いつまでも、ぐちゃぐちゃと食べるものではない。福神漬かラッキョウを添えて(ベニショウガもいいな)、一気呵成に口に放り込む。食べた後の一杯の水の、これまた美味いこと。健啖の楽しさに充ちた爽やかな句だ。この句を思い出すと、つられてカレーが食べたくなってしまう。カレーは、子供が辛いものにも美味いものがあることを知る最初の食べ物だろう。なかには父親の晩酌相手の塩辛だったという剛の者もいるけれど、たいていはカレーだ。私も、そうだった。塩辛とは辛さが違い、唐辛子のそれとも違い、なんだか不思議な辛さだなと、子供心に思ったことである。ハウス・バーモントカレーもいいけれど、専門店のカレーはやはり唸らせる。ただし、私には激辛は駄目。いつだったか、タイに住んでいたことのある人と一緒に食べたことがあるが、一口でダウンした。その人は、この程度じゃ利かないねと澄ましていた。専門店もいいが、蕎麦屋系の店が出すとろみのある和風味のカレーも好きだ。ただ、そういう店ではよく、水の入ったコップに匙を漬けて出してくる。あれは、いったい何のマジナイなのだろう。あれだけは、ご免こうむりたい。『ひるがほ』(1986)所収。(清水哲男)』(解説より)。今回はカレーについて、ひと言。

実は昨年より月に数回、厨房に立つようになりました。先々を考え「まったく料理できません」では話になりませんので。・・料理に関しては苦い思い出が・・今から四十年近く前、大学三年か四年のゴールデンウイーク。ラグビーの春のリーグ戦が始まったばかりで、連休中ももちろん練習、日によっては午前午後の二回。この時、何を思ったのかチャーハンを自炊。当時たまに作っていましたが、小生にとっては「自炊=苦行」でした。理由は明白。空腹ゆえ料理を作るのに、完成まで食べられない!まさに苦行。料理途中つまみ食いするので、完成時には半分程の量しか残っていませんし、途中つまみ食いするものは、半焼けや半煮え。その自炊チャーハンに当たってしまったのです。使った卵が古かったのか?おかげで連休中、果物しか喉を通らず苦しい連休となりました。それ以来、自炊をやめました。

閑話休題。思い描く味のゴールは熊本市の「洋食屋橋本」の土鍋で供されるカレー。
家人に必要な材料を聞き、リストを作りスーパーに買い出し。数回目からは「牛すじ」に凝り下処理もじっくり。「豚軟骨」に至っては四時間以上かけて。カレールゥもその都度変えて味比べ。食事後の皿洗い・鍋洗いで、スポンジが油でべたべたになるのに驚きながら・・。

近頃では、理想の味に程遠いものの「我ながらまずまずのカレーができた」とひとりほくそ笑んでおりました。カレールゥ以外にカレーフレークの存在も知り使うように。巷のカレー屋は「スパイスカレー」がちょっとしたブーム。足を運びつつ、スパイスカレー(この表現も考えてみれば奇妙)には舌を出しても手は出さないと思っておりました。ところが、小生に刺激を受けた?家人が作ったスパイスカレーが美味!それ以来、ルゥやフレークで作るカレーには戻れなくなりました。

ネットで「印度カリー子」氏の記事で「日本のカレーはイギリス由来の煮込みカレーで、インドのカレーは炒め物」などを読むと妙に感心したり。必須のスパイスも普段に入手可能な「クミンパウダ・コリアンダ・シナモンパウダ」の三種のみ。このレシピで作ってみると、最後に味の調整が必要でした(甘酢と蜂蜜)が、従来のルゥカレーに比ぶれば「すぐに空」「お替り」と言いたくなる程の美味しさでした。

小学生の頃から、母が家で作る様子、当時のバーモントカレーのCM、キャンプでのカレー作り体験などから、カレーとは肉にジャガイモ、にんじんなどを入れて、箱入りカレールゥのもとを加え、煮込んで作るものと洗脳されていましたので、今回のスパイスカレーを自炊可能であることは「眼から鱗・口からヨダレ」でした。思い込みは損すると、実感した次第でした。皆さま、ご自愛の程ご歯愛の程。0620


BBTime 480 非老化

BBTime 480 非老化:ひろうか
「老人の日といふ嫌な一日過ぐ」右城暮石

この方、カルメン・デロリフィチェさんの人生には「老人」という言葉は存在しないのでしょうね。この方、来年満九十歳です。『カルメン・デロリフィチェ 1931年にニューヨーク生まれ。4カ国のヴォーグの表紙を、史上初の15歳で務めて以来、85歳になる現在まで70年のキャリアを築いてきた。最近では高齢女性の活躍を自身が体現し、今なおモデル業界のアイコンとなっている』(2017/5/8の記事より)。

冒頭の句の解説には『はじめは「としよりの日」(昭和26年制定)といった。それが「老人の日」(昭和39年)となり「敬老の日」(昭和41年)となった。しかし「敬老の日」とは、いかにも押し付けがましい。国家が音頭をとって「尊敬」などと言い出し、ロクなことがあったためしはない。景気のよい時には地方自治体がお祝い金を出していたが、いまではつまらない式典だけになった。金の切れ目が縁の切れ目で、駆り出さなければ誰も来ない。私はまだ駆り出される年齢ではないが、作者と共に余計なおせっかいは「超」不快である。もちろん、いまや老人福祉の問題は国民的な課題だ。が、世間で行われている福祉の実態には、いつも式典的要素が介在するのは何故なのか。老人ホームでみんなでお歌を歌うなんてことも一例で、私なら、ほっといてくれと言うだろう。そんなことに「敬老精神」を発揮されたのではたまらない。しかも発揮する人々の多くが善意であるだけに、いっそうたまらないのである。このような「善意の愚劣」を、先輩諸兄姉よ、ここらで勇気を持って打ち砕くべきではないでしょうか。かつてロシアの文豪が、自逆的に言いました。「私は人類はいくらでも愛するが、隣の婆アはどうにも気にくわねえ」と。「善意の愚劣」の根拠でしょう。(清水哲男)』解説より。

先日、発表されたノーベル医学・生理学賞は『▽アメリカのNIH=国立衛生研究所のハーベイ・オルター氏、▽カナダのアルバータ大学のマイケル・ホートン氏、▽アメリカ、ロックフェラー大学のチャールズ・ライス氏の合わせて3人です。3人は、C型肝炎ウイルスの発見によって多くの慢性肝炎の原因を明らかにし、輸血などの際の検査ができるようにしたほか、多くの人の命を救う治療薬の開発に道をひらいたことが評価されました』(引用元はこちら)。このC型肝炎、小生の学生時代には「非A非B:ノンエーノンビー」の肝炎として習いました。さてタイトルの「非老化」これは文字通り、老化ではない・・従来老化と考えられ、人にとって避けられないものとして捉えられていた症状に実は原因があり、それは対処できるという意味です。

先日見つけた記事は「認知症の原因物質 歯周病によって蓄積する仕組みを解明」で、記事によると「認知症の7割を占めるアルツハイマー病は、「アミロイドベータ(Aβ)」などの異常なたんぱく質が長年、少しずつ脳に蓄積し、発症や症状の進行につながるとされる」・・この蓄積を歯周病菌がアシストしているようだ、という内容でした。「チームの武洲(たけひろ)・九大准教授(脳神経科学)は「歯周病菌が、異常なたんぱく質が脳に蓄積することを加速させてしまうことが明らかになった。歯周病の治療や予防で、認知症の発症や進行を遅らせることができる可能性がある」と話す」(記事より)。

中国唐代中期を代表する文人に「韓愈:かんゆ」がいます。韓愈の漢詩「落歯:らくし」・・毎年のように抜け落ちる歯と人生を重ね憂う内容です(詳しくはこちら)。ひと昔、ふた昔前は歯周病は「老化」であり、逃れられないもの(症状)として考えられていました。今では歯周病の原因は解明され、その予防法・治療法も確立されています。先程の記事のように「認知症」も少しずつ病因が明らかになり、予防法・治療法が確立される日もそう遠くないのかも知れません。

以前、ある患者さんが「(ここにくる前に)右膝が痛いので整形外科に行ったら、医者に「痛み(原因は)は、歳のせい」と言われて頭に来た。歳のせいなら左も痛いはず」とおっしゃいました。なるほど、その通り!右だけ痛いのは何かしら「痛みの原因」が右だけにあるはずです。歯周病予防が認知症予防へつながるのであれば、予防しない手はありません。時の過ぎゆくままに老け込むのは、もったいないと切に思います。皆さま、ご自愛のほどご歯愛のほど。・・曲は昨日(10/6)亡くなったヴァン・へイレンに哀悼の意を表して。9470


https://youtu.be/1Qi7c-pcq-A

BBTime 479 二足歩行

BBTime 479 二足歩行
「薄く薄く梨の皮剥くあきらめよ」神野紗希

解説に『作者はべつに一本の皮を垂らそうとしているわけではなさそうだが、それでも「薄く薄く」剥こうと心がけている。なかなかに集中力を要する作業だ。何のためかと言えば、自分に何かを「あきらめよ」と言い聞かせるためである。自分自身に決断をうながすための、いわば手続きのような作業として可能な限り薄く薄く剥こうとしている。しかし剥きながら、なお決断することをためらっている様子もうかがえる。なんという健気な逡巡だろうか。下五にずばり「あきらめよ」と配した句柄は新鮮だが、内実は古風な抒情句と言えるだろう。好きだな、こういうの。』(解説より一部抜粋)。前回「オイシ教」に引き続き梨の句になりましたが、深い意味はナシ(笑)。今回は美味探求が人類誕生の鍵かも?について。

三井誠著「人類進化の700万年」に、直立二足歩行を人類が獲得した理由がいまだ謎であり、有力な説として「食糧提供仮説」が出てきます。その説とは・・子育て中のメスによりたくさんの食糧を運んでくるオスは気に入られて、子孫繁栄となる。たくさん運ぶために両手(前足)で食糧を持つようになり、直立二足歩行するようになったのではないか・・というものです。こちらもどうぞ

ここで注意すべきことは『人類のオスは、メスへ食糧を運ぶために二足歩行に適した体に進化し、繁殖する機会を増やした』と考えるのではなく、『二足歩行ができるように進化した人類のオスは、メスに食糧を運ぶことで繁殖の機会を増やした』の方が進化を考える上では適切であろうとのことでした。進化は「目的を持って進むのではなく」「遺伝子に起きる偶然の変異、それがもたらす体や行動の変化がそもそもの始まりだ」とのこと。キリンは高い枝の葉を食べるために長い首になったのではなく、たまたま長い首の生き物が生き残った、と考える方がベターのようです。

より多くの食糧を運ぶオスがメスに気に入られた・・一歩進んで、より美味しい食糧を運ぶオスはもっとモテた!有り得ない話ではないと思います。渋柿より甘い柿、青いバナナよりも完熟バナナ。こう考えると、人類誕生の頃から「美味探求」する人類はいた!宗教が成立する何百万年前から「美味探求」をしていたのかも知れません。美味探求は宗教よりとてつもなく古く、ヒトのDNAにインプットされているのではないでしょうか。

時に「懐かしい味」に出会い、この言葉を時に口にし、喜びや幸福を感じます。人にとって「懐かしい最古の味」とは、紛れもなく「美味しい(味)」であるとは言い過ぎでしょうか。人を好きになり恋に落ちる、美味しい物を探す。「恋愛」と「美食」は、ヒトのヒトたる所以であると思えてきました、直立二足歩行と同じように。では今宵も美味しいものを食べて、ご自愛の程ご歯愛の程。明晩は中秋の名月です!6370

BBTime 478 オイシ教

BBTime 478 オイシ教
「梨を剥く一日すずしく生きむため」小倉涌史

彼岸を過ぎ鹿児島も涼風が吹くようになりました。解説には『この場合の「一日」は「ひとひ」と読ませる。「秋暑」という季語があるほどで、秋に入ってもなお暑い日がある。残暑である。今日も暑くなりそうな日の朝、作者はすずしげな味と香りを持つ梨を剥いている。剥きながら作者が願っているのは、しかし、体感的なすずしさだけではない。今日一日を精神的にもすずやかに過ごしたいと念じている。「すずしく生きむ」ために、大の男がちっぽけな梨一個に思いを込めている。大げさに写るかもしれないが、こういうことは誰にでもたまには起きることだ。そんな人生の機微に触れた佳句である。ところで、作者の小倉涌史さんは、この夏の七月末に亡くなられたという。享年五十九歳。このページの読者の方が知らせてくださった。小倉さんとは面識はなかったが、ページは初期から読んでくださっており、検索エンジンをつけるときのモニターにもなっていただいた。もっともっと元気で「すずしく生き」ていただきたかったのに、残念だ。心よりご冥福をお祈りします。『落紅』(1993)所収。(清水哲男)』(解説より)。

前回「美味笑」を書いた後「グルメ志向は宗教的思考と同じである」との認識をさらに強くしました。まずは「イシ」について。古語「イシ」の意味をご存じでしょうか?「美し」の表記でイシ。意味は「(味が)よい。うまい」。うまいの意の「美しし:いしし」のイ音便で「いしい」、さらに室町時代に女房詞(にょうぼうことば)として「お」がついて「おいしい」となりました。美味しいの漢字「美味」は当て字です。(こちら参考

「グルメ志向は宗教的思考と同じである」と考える根拠のひとつは「人それぞれ」です。知り合いの「桜島インターのカレーがいっばんうまか(一番美味しい)」とか「ハラがふくれればよか」はたまた「食いもんは何でんよか(何でも良い)」なども聞きます。口の中も同様です。定期的なメンテナンスを欠かさない人もいれば(失礼な表現ですが)口の中が「ちんがらっ(滅茶苦茶)」の来院者もおられます。「イシ教」を信じる人もいれば信じない人もいる。

お釈迦様、イエス様を信仰する人しない人、もちろん自由です。「美味しい」に重きをおかない、評価しない人は概して口の中(歯)に関しても低い価値評価です。低い価値であるがゆえに当然、口の中に問題が生じても放置されてます。信仰は自由、ご自分の歯への価値も十人十色でしょうけど、歯のトラブルでQOL(生活の質)が低下するすることは自明の理であり、ご本人にとって決してプラスにならないと思うのは歯医者だけでしょうか。いいえ、ご本人が一番お分かりと思います。

福岡「美美:びみ」のマスターは「珈琲は生活の句読点」とおっしゃいます。言い得て妙!同様に「美味しい」も生活において日めくりカレンダーの様に、その日その日の締め括り・ピリオドの様な気がします。日に一度「一日一善」まねて「一日一膳」、一日に一度は「美味しい」の言葉を口にしたいもの、その言葉が歯の価値観を高めます・・と信じてやまない今日この頃です。食欲の秋!ご自愛の程ご歯愛の程。5790


BBTime 477 美味笑

BBTime 477 美味笑:びみしょう
「笑ひ茸食べて笑つてみたきかな」鈴木真砂女

先日横浜金米堂(キンペイドウ)の「どら焼き」を頂きました。ひと口含むと思わず笑みが・・これぞ名付けて「美味笑:びみしょう」・・幸せです。真砂女さんも笑い茸よりは、美味しいどら焼きで笑いましょうよ(笑)。句の解説には『軽い好奇心からの句ではあるまい。八十歳を過ぎ、心から笑うことのなくなった生活のなかで、毒茸の助けを借りてでも大いに笑ってみたいという、一見するとしごく素直な心境句である。が、しかし同時にどこか捨て鉢なところもねっとりと感じられ、老いとはかくのごとくに直球と見紛うフォークボールを投げてみせるもののようだ。よく笑う若い女性にかぎらず、笑いは若さの象徴的な心理的かつ身体的な現象だろう。どうやら社会的な未成熟度にも関係があり、身体的なそれと直結しているらしい。したがって、心理的なこそばゆさがすぐにも身体的な反応につながり、暴発してしまうのだ。私はそれこそ若き日に、ベルグソンの「笑いについて」という文章を読んだことがあるが、笑い上戸の自分についての謎を解明したかったからである。何が書かれていたのか、いまは一行も覚えていない。といって、もはや二度と読んでみる気にはならないだろう。いつの間にやら、簡単には笑えなくなってしまったので……。(清水哲男)』(解説より)

「どら焼き」・・調べてみると面白い歴史があります。餡子とカステラ生地の組み合わせで「和洋折衷」の菓子だと勝手に思っておりましたが、何と「和菓子」です。江戸以前まで遡るようです(Wikipedia)。最も今のような形になったのは明治初期のようで『たとえば『たべもの起源事典 日本編』(岡田哲著/筑摩書房)には「明治初期に、東京日本橋大伝馬町の梅花亭の森田清兵衛は、初めて丸形のどら焼きを創作する。銅鑼の形のあんに、薄く衣を付けて皮を焼く。1914年に東京上野黒門町のうさぎやで、編笠焼きが創作され今日のどら焼きができる。網笠焼きより皮を厚くしたのが三笠山である」との記載』(出典はこちら)。ちなみにドラえもんの大好物です。

先日ふと「なぜ人は美味しい物にこれほどまでに情熱を注ぐのだろう?」と自問自答しました。比較の例が不適切かもしれませんが、日本においては仏教やキリスト教をはじめとする宗教における「敬虔なる信者」の方々の数よりも「熱狂的グルメ」の数の方が明らかに多いのではないでしょうか。小生は美味を求めることを否定も批判もしません、むしろ肯定します。「グルメ:美食家・食通」と呼ばれる人々はひょっとすると「美味教」なる宗教的思考回路のもとに東奔西走するのかもしれないと、真面目に考えはじめました。

辞書で引くと『宗教:生きている間の病気や災害などによる苦しみや、死・死後への不安などから逃れたいという願いを叶えてくれる絶対者の存在を信じ、畏敬の念をいだきその教えに従おうとする心の持ちよう』(新明解国語辞典より)とあります。

笑いの原点は「安堵」であると聞きます。大昔、ヒトが食べ物だと思い口にした物が腐っていた・・とっさに吐き出して無事だった・・「やれやれ」と安堵。この「吐き出す」「安堵」の一連の口の動きが「笑い」として発達したそうです(昔、笑い療法士セミナーで習いました)。美味しい物が「死への不安」を払拭するとは言えませんが、「美味しい」と感じた時を刹那的に捉えるならば「生きてて良かった!」と実感できるのではないでしょうか。この時の笑みが「美味笑」です。

以前「食べるために」「食べるために生きる」をアップしました。「人は食べるために生きるんや」の言葉に引っ掛かったからですが、美食を一種の宗教と捉えると「食べるために生きる」もアリだと思います。自分の望む人生を、凝縮して凝縮して一瞬の「美味しい」に投影しているように思えるのです。楽しい人生、幸せな一生を皆望みますが、皆が皆そうなるとは限りません。しかし、美味しいものは食べた瞬間・・「美味しい」「生きてて良かった」とほぼ間違いなく感じることができます。「思う一生」を細切れにし凝縮した瞬間が「美味しい」の一瞬と重ね合わせて、人は笑みをこぼすのではないでしょうか。皆さま、美味しいものを食べて、ご自愛の程ご歯愛の程。4790



三曲目は前回紹介しましたが、あまりにも歯がキレイなもんで!もちろん声も顔も!

BBTime 476 尻拭い

BBTime 476 尻拭い
「秋の暮大魚の骨を海が引く」西東三鬼

解説は『つとに有名な句だ。名句と言う人も多い。人影の無い荒涼たる「秋の暮」の浜辺の様子が目に見えるようである。ただ私はこの句に触れるたびに、「秋の暮」と海が引く「大魚の骨」とは付き過ぎのような気がしてならない。ちょっと「出来過ぎだなあ」と思ってしまうのだ。というのも、若い頃に見て感動したフェリーニの映画『甘い生活』のラストに近いシーンを思い出すからである。一夜のらんちきパーティの果てに、海辺に出て行くぐうたらな若者たち。季節はもう、冬に近い秋だったろうか。彼らの前にはまさに荒涼たる海が広がっていて、砂浜には一尾の死んだ大魚が打ち上げられていたのだった。もう四十年くらい前に一度見たきりなので、あるいは他の映画の記憶と入り交じっているかもしれないけれど、そのシーンは掲句と同じようでありながら、時間設定が「暮」ではなく「暁」であるところに、私は強く心打たれた。フェリーニの海辺は、これからどんどん明るくなってゆく。対するに、三鬼のそれは暗くなってゆく。どちらが情緒に溺れることが無いかと言えば、誰が考えても前者のほうだろう。この演出は俳句を知らない外国人だからこそだとは思うが、しかしそのシーンに私は確実に新しい俳味を覚えたような気がしたのである。逆に言うと、掲句の「暮」を「暁」と言い換えるだけでは、フェリーニのイメージにはならない季語の狭さを呪ったのである。『新歳時記・秋』(1989・河出文庫)などに所載。(清水哲男)』(解説より引用)。「La Dolce Vita」のラストシーンとは結びつきませんでした。小生の連想は「老人と海」でした。

前回「BBTime 475 不可逆」で紹介した句の次に載っていたのが掲句。「新編 折々のうた」の解説には・・「『変身』(昭和三七)所収。昭和三十七年、同句集刊行の直後六十一歳で没した岡山県生まれの俳人。新興俳句運動の大立者だが、本業は歯科医、洒脱な文章の随筆でも人気が高い。初期の句の華麗さが多く話題になるが、最終句集『変身』に収められた晩年の作には、懐深く味わい濃い句が多い。男盛りだったが胃癌に勝てず、死を身近に感じる最晩年だった。暗く壮大なものが沖へ静かに退いてゆくのを、作者は心の窓ごしに凝視している。」(「新編 折々のうた」より)。

この解説を読むまで「西東三鬼の本業は歯科医」と知りませんでしたし、西東三鬼の他に俳人である歯科医を未だ知りません。今更ながら、このような非凡なる歯科医がいらっしゃったとは、嬉しくもあり誇らしくもあり。長い長い枕となりました、二晩か三晩もお休みになられたかと(笑)。今回は自戒を込めて歯科医の仕事が「尻拭い」で終わっていいのか?について。言葉「尻拭い」を、歯科医の上から目線とお叱りを受けそうですが、あくまでも「歯科医の尻を叩く」が真意です。

辞書には「尻拭い=他人の不始末の責任を取らされること」とあります。ここでの他人とは「患者さん=ムシ歯を作った人・歯周病になった人」をさします。さて先日、不動産業を営む友人との会話で「最後はデベロッパかな」とのこと。一般的にデベロッパとは「デベロッパー(developer、開発者)とは開発業者のことで、大規模な宅地造成やリゾート開発、再開発事業、オフィスビルの建設やマンション分譲といった事業の主体となる団体・企業のことである。ディベロッパーとも言う」とありますが、友人の意味するところは「まちづくり」のようでした。

友人の話にビシッと尻を叩かれました・・「尻拭いで終わっていいのか」。ブログにも度々書いてますように、最もリアルなムシ歯の原因は「磨き残しの存在」です。あえて言うなら「他人の不始末:その方の歯磨き不足」によってムシ歯は発生します。ムシ歯になった方(患者さん)が来院し、治療し金銭を頂く。甘いものを食べてムシ歯になり、歯科医が治療しお金をもらい、歯科医は「甘い生活」を営むことができる・・素直に考えてシャレにもならん構図だと思います。

最終的にはデベロッパを考えている・・人に住居を提供して、家賃や仲介料をもらう。一般的な不動産業であっても世の中には必要な仕事です。現状に満足せず、さらに世の為人の為を思い、まちづくりへと。常々思うのです・・ムシ歯の治療、痛みをとるなど、人の為の仕事ではありますが、表現を変えれば「人の不幸につけ込んで・・」の仕事です。歯科医(もしくは歯科診療所)が尻拭い(ムシ歯治療)ではなく「歯垢拭い:しこうぬぐい」を今以上に行えば、これこそ「世の為人の為」です。

この図式はかなり昔に考えたものです。CURE=治療、CARE=手当てを必要とする方は患者さんであり、平穏な日常よりもマイナスに位置する、言わば不幸な人です。歯科医は治療などによって、噛めるようにしたり痛みをとったりしますが、マイナスからゼロの位置(平穏な日々)に戻しただけで、プラスのハッピー(幸福)を与えてはいません。より幸せは図式の真ん中より右上の部分です。当時「3C:サンシー、三つのC」とよんでセミナーをしていました。キュア、ケアに続く三つ目のCはズバリ「しあわせ」の「し」です。キュアケアなどの治療は尻拭いですが「歯垢ぬぐい」に軸足を移せば人々は「歯の痛み」も「噛めない不便さ」も味わう必要がありません。まさに「歯垢ぬぐい」は世の為です。尻拭いから「歯垢ぬぐい」へ

三つ目の「C」は果たして何なのか?今やっと見えてきました。歯科医の言い訳になりますが、日本における歯科医療(図式の左下)が「人の不幸につけ込んで」に甘んじて、積極的に「人をより幸福にする」に歩みを進めないのは、歯科予防(図式の右上)のビジネスモデルが確立されていないからです。保険診療の枠組み・システムで治療行為では収入を得ることはできますが、予防行為のみでビジネスとして成立させるにはハードルが相当高いのが現状です。小生が思う三つ目の「C」は真面目にCAKE:ケーキ!今回はここまで(笑)続きはいずれ。

画像は、覚えている人は知っている・・「おしりだって洗ってほしい」のCM。
「おしりだって洗ってほしい 皆様、手が汚れたら洗いますよね。こうして、紙でふく人って、いませんわよね。どうしてでしょう。紙じゃとれません。おしりだっておんなじです。おしりだって洗ってほしい。ToToウォシュレット 暖かいお湯で洗います。おしりだって、洗ってほしい。」1983年頃のCM、約40年前なんですね。

歯も同じです・・「私の歯も洗ってほしい」。そうなんです、ご自分では隅の隅まで洗えないんです。だからこそ「洗ってほしい」→「洗ってあげます」→ここでCAKEの登場(続きは今度)。皆様ご自愛のほど、ご歯愛の程。3120



三曲目はイタリア映画つながりで・・美女はイギリス人です。

おまけ:朝日新聞コラム「折々のことば」より
「のぞみはありませんが ひかりはあります」新幹線の駅員さん
千葉・本妙寺の掲示板にあった言葉(江田智昭著『お寺の掲示板』所収)。臨床心理家・河合隼雄が残したジョークから引かれた文言。河合が新幹線の切符を買おうとしたら、駅員にこう言われた。瞬間、この言葉の深い含蓄に感激し、同じ言葉を大声で返すと、駅員は「あっ、『こだま』が帰ってきた」とつぶやいたという。希望をなくしても仏様の光はずっと人を照らしている。」2020/9/13朝刊

BBTime 475 不可逆

BBTime 475 不可逆:ふかぎゃく
「がつくりと抜け初むる歯や秋の風」杉山杉風

画像は八月末日の桜島。「初むる」はソムル「杉風」はサンプウと読みます。句の解説は『江戸の大きな魚屋で、芭蕉の門人。芭蕉の経済的後援者だったことは有名。深川の芭蕉庵も彼の下屋敷だった。右(上)の句は『猿蓑』にのるが、初案は「がつくりと身の秋や歯の抜けし跡」として、芭蕉あて書簡に出る。これだと詠嘆が勝ちすぎて、句は集中度に欠ける。改案にはおそらく芭蕉の手が入っているのだろう。近年「がっくり」の語がはなはだしく流行するが、この句あたり、最も早い時期の文学的用例かもしれない。語感を鋭くとらえている』(新編折々のうた 大岡信より)。初案改案を読むに、この「抜け初むる」は乳歯が抜けたのではなく、永久歯が歯周病(歯槽膿漏)によって抜けたのでしょう。作者は抜けた歯を手に「人生の秋」・・おそらく晩秋を感じたのかもしれません・・今回は可逆不可逆についてのお話。

不可逆を辞書で引くと「ある化学変化が生じた状態を元に戻すような変化を起こすことが不可能なこと」。つまり「元に戻せないこと」です。歯科における「不可逆」の最たるものが「ムシ歯」で、過去にも書いてますが「ムシ歯の治療」は失った歯質(歯の部分)を人工的材料で置き替えたに過ぎません。歯周病もほぼ同等で、炎症によって失った歯槽骨(歯を支える骨)を元のように戻すことはできません。よって作者は「抜け初むる」となったのです。

かたや「可逆」は?極めて初期のムシ歯であり、初期歯周病の「歯肉炎」です。この段階であれば「実質的欠損(実際の損失)」はほとんど生じていませんから、まだ元に戻すことが可能です。数日でムシ歯になるわけではありません、歯磨きしなかったからすぐに歯肉炎になるわけではありません。歯科臨床の経験的では、週に一度ほぼ完璧に磨ければ元に戻せます。しかし残念ながら御本人では完璧磨きは無理ですので、日々数回磨きましょうとなるのです。

歯科医としての希望は「月一回」の専門家(歯科衛生士・歯科医師)による歯のクリーニングです。月一回の頻度は、これまた残念ながら現時点で「保険適用外」です。今回、台風十号通過後に「事前報道ほど激しくなかった」との声をちらほら聞きますが、無事が何よりです。JRの計画運休、コンビニ閉店、鹿児島離島の島外避難等々、表現は不適切ですが「ハズレ」が良いのです。歯科予防も同様、月一回お会いして「問題なしです、無事です」が一番・・と日々思います。ご自愛の程ご歯愛の程。1790