BBTime 670 霜月晦日

「あたたかき十一月もすみにけり」中村草田男

2024/11/30投稿
 今日は霜月晦日(みそか)明日から師走。今年の霜月は、まさに掲句。句の解説は『旧版の角川書店編『俳句歳時記』には、この句と並んで細見綾子の「峠見ゆ十一月のむなしさに」が載っている。長年親しんできた歳時記だから、毎年この時期になると、二つの句をセットで思いだすことになる。並んでいるのは偶然だが、いずれもが、十一月という中途半端で地味な月に見事な輪郭を与えていて、忘れられないのだ。忙中閑あり。……ならぬ、年の瀬をひかえて「忙前閑あり」といえば当たり前だが、両句ともそんな当たり前をすらりと表現していて、しかもよい味を出している。ただ草田男句の場合は、どちらかといえば玄人受けのする作品かもしれない。(清水哲男)』(引用元)。今回はオレンジページネット版掲載拙記事のご紹介です。冒頭画像は今朝(11/30)のお姿(桜島)7:47。

1)9/27掲載分「栗のスイーツ」
「栗饅頭に栗は入っていますか?」との問いに、おそらく殆どの方が「入っているから栗饅頭でしょ」と答えられると思います。本来はさにあらず・・あくまでも栗の実に似ているので栗饅頭だったのです、当初は。ブログ中にも紹介していますが「新和菓子噺」(薮光生著)には『ひと昔までは栗が入っていないのが普通でした。小判型をした焼き菓子で、白餡だけしか入っていなかったのです』(114頁)。

次のように続きます。

ご納得いただけたでしょうか。実は先日「きつねうどん発祥の店」で狐の肉は入っていない狐うどんを食べてきました。大阪市の「うさみ亭マツバヤ」です(詳しくはこちら)。

つゆは意外と薄味で、長方形の油揚げにしっかり味が染み込んでいました。発祥店はひと味違うと痛感しつつ店を後に。

さすがの味!お値段手頃、是非一度ご賞味あれ。
本題に戻ります。栗のスイーツはこちら

2)ワインの楽しみ方について。
画像はおやつ堂のマークをあしらった赤ワイン(仏)です。「ワインの楽しみ方」はこちら。と言うことで、明日から師走です。皆様、ご自愛の程ご歯愛の程

BBTime 669 入れ歯洗い

「地玉子のぶつかけご飯今朝の冬」笠 政人

2024/11/18投稿
画像は今朝11/18のお姿(桜島)です。立冬(11/7)は、とうに過ぎたものの残暑のような暑さでしたが、今朝はやっと冬の足音が聞こえてきそうです。年年歳歳、秋が短くなってます、そのうち秋が消滅して四季から三季、春も消え二季となるのでしょうか。句の解説は『季語は「今朝の冬」、立冬のことだ。雪の便りもちらほらと聞こえてくる。まだ東京あたりではそんなでもないが、もう名実ともに冬に入っている地方もあるだろう。長くて厳しい季節のはじまりである。作者は、そんな寒い地方の人だろうか。ほかほかのご飯に玉子をぶっかけて、勢い良く掻き込んで食べている。さあ「冬よ、やってこい」と、身構えている。わざわざ「地玉子」と玉子に「地」をかぶせたのは、新鮮で栄養価の高い玉子をイメージさせることで、句の勢いを増すためだろう。単に玉子と言うよりも、よほど迫力が出る。すぐに連想したのは、高村光太郎の詩集『道程』に収められている「冬が来た」だった。昔、小学校の教室で習った。「きっぱりと冬が来た/八つ手の白い花も消え/公孫樹の木も箒になった」というのだから、季節的にはもう少し寒くなってからの詩だ。最後の二連は、こうなっている。「冬よ/僕に来い、僕に来い/僕は冬の力、冬は僕の餌食だ//しみ透れ、つきぬけ/火事を出せ、雪で埋めろ/刃物のような冬が来た」。こちらも相当な迫力で、子供のときにも圧倒された。掲句の作者にしても光太郎にしても、とにかく若くて元気だ。若くて元気でなければ、こういう詩は書けない。そこへいくと今の私などは、冬と聞くだけでへなへなとなりそうだ。あ~あと、溜め息の一つもついてしまう。これではならじ。句の作者にならって、今朝はいっちょう、ご飯に玉子をぶっかけて食うことにしようかな。今日、立冬。『新版・俳句歳時記』(2001・雄山閣出版)所載。(清水哲男)』(引用元)。卵ご飯の後もしっかり洗いましょう、入れ歯洗いについて(セミナー用の内容です)。

卵かけご飯に限らず食後にはお椀やお皿を洗います。入れ歯は口の中の食器です。食具(しょくぐ)という言葉があります。食事に用いる器具、食器などを意味します。歯も食具と言えます。お店に限らずご自宅でもほとんどの方は、洗ってあるキレイな食器に料理を盛って、キレイな箸やスプーンで食事されます。美味しいのためにも、健康のためにも!

お皿と入れ歯の違いは「表面」です。簡単に表現するならば、お皿の表面はツルツルです。入れ歯の表面はヌルヌルです。陶磁器の表面には釉薬(うわぐすり)がかけてありツルツルです。食器用洗剤の入った水に、汚れたお皿をつけておくと汚れは浮いてきます。かたや入れ歯の表面は拡大すると凸凹(多孔性)しています。この凸凹に水が入り込むために入れ歯はヌルヌルしているのです。ソフトコンタクトレンズと似たような表面構造と思ってください。この凸凹に常に水が入り込みヌルヌルしているので口の中にあっても(形に問題なければ)痛くないのです。

お皿と違って入れ歯の洗い方は異なります。入れ歯洗いは汚れを物理的に除去することが基本です。洗面器に水を張り、流水下でのブラシ洗いがおすすめ。その後に洗浄剤使用がベターでしょう。つけ置き時間は製品によって様々ですので、パッケージの説明書きをお目通しください。次の表の引用元はこちら。洗浄後(洗浄液から取り出したら)水洗いして水につけておいてください。外出時や移動時には濡れたティッシュで包んでジップロックでも構いません、乾燥が良くありません。

最後に夜は外すか?着けたままか?
1)上下のご自分の歯が噛み合う人→外して寝てもOKです
2)ご自分の歯が噛み合わない人→可能であれば、どちらか着けてお休みください。
3)一晩洗浄液につけておく必要はありません。
4)就寝中の使用に関しては「BBTime 352 口の中へ」もどうぞ。

入れ歯は口の中の食器。キレイな食器でキレイなスプーンで美味しく食べたいものです。皆さま、ご自愛の程ご歯愛の程。

BBTime 668 浸透圧

「いちまいの皮の包める熟柿かな」野見山朱鳥

2024/11/02投稿
 鹿児島市は日によっては暑く未だ秋ではなく晩夏です。秋は来るのでしょうか。句の解説『掌に重い熟した柿。極上のものは、まさにこの句のとおり、一枚の薄い皮に包まれている。桃の皮をむくよりも、はるかに難しい。カラスと競い合うようにして、柿の熟れるのを待っていた我ら山の子どもは、みんな形を崩さずに見事にむいて食べたものだった。山の幸の濃密な甘味。もう二度と、あのころのような完璧な熟柿を手に取ることはないだろう。往時茫茫なり。なお、この句には、同時にかすかなエロスの興趣もある。『曼珠沙華』所収。(清水哲男)』(引用元)。今回は本来の意味とは異なりますが「浸透圧」について。

本題に入る前に御報告ひとつ。前回「湯島通れば」に書きました・・ご家族と話す機会があれば「お母様の好きな歌手は?」と聞きます。ある時は「お富さんです、母の名前がトミ子ですから」でした・・訪問診療行ってきました、この唄を自信たっぷりにかけました。この高齢女性、予備検診時には「なにも困っちゃおらん」「誰が歯医者を頼んだ?」「息子が歯医者を呼ぶはずがない」など、取り付く島もない反応。ということで息子さん同席で診療開始。お二人(母と息子)のやりとりはまさに漫才、さすが息子さん。お母様のネガティブ発言にもうまく対応されてます。2回目の開始に「お富さん」流したところ、歌詞が「・・死んだはずだよ お富さん・・」すぐさま「わたしゃ生きてるよ!」とお母様も大笑いでした。

さて本題「浸透圧」について。イラストはこちらから引用しました。ナメクジに塩をかけると、ナメクジは縮みます。この理由(原理)が浸透圧です。引用すると『半透膜はんとうまく両側りょうがわさのちがう食塩水しょくえんすいがあるとき、両方りょうほうさをおなじにしようとする圧力あつりょくのことを「浸透圧しんとうあつ」といいます』(引用元)。ナメクジに塩をかけると、ナメクジの表面の方が塩分濃度は高くなります。するとナメクジ体内の水分が、ナメクジの皮膚(半透膜)を通して外にひっぱり出されるので、ナメクジが縮むのです。

先日、坐禅中のこと。道場内は機会音ゼロです。その日は他の方の息遣いも聞こえません。たまに周りの道ゆく車のエンジン音と小鳥の声だけ。言わば浸透圧の逆のようなことを感じました。濃度の高い頭の中が、次第に周りの無音・静寂の濃度の低い方へ流れ出るような感覚。脳内の雑音・煩悩・迷いなどが徐々に薄らいでいくようでした。汚れたものを洗い清めるような、汚れた水が清くなるような、とも表現できます。

ある時、和尚さん曰く「坐禅中は感覚が鋭くなっており、目の前にある線香(タイマー替わり)の灰の落ちる音が「ドサッ」と聞こえるんです」。脳内の雑音・雑念が薄まると感覚が研ぎ澄まされるのでしょう。お寺の境内に銀杏の大木があった頃、坐禅中に銀杏の実が地面に落ちる瞬間、確かに「ボトッ」とはっきりと聞こえた記憶があります。

日常はこの真逆でしょう。テキスト情報・画像・動画・SNS、音声電話、メール、LINEなど次から次から洪水のように押し寄せてきます。当然のこと、頭の中は雑音だらけ煩悩だらけとなります。情報や感情でごちゃごちゃの脳に冷静な判断ができるでしょうか。

坐禅初心者が来られると担当の方が「映画を見るように頭に浮かぶことを次から次へと流してください」と説明されます。流して流して空になって「無」に近づくのでしょうか。今の日常はあまりにも多すぎます。夏に引っ越した時に自戒として痛感しました。

自己所有テレビで見た最後の番組は「おしん」(途中まで)でした。車を手放して九年。次にやめるのは年賀状ですかね。「放下著:ほうげじゃく」という禅語があります。何もかも捨てちまえ!の意です(こちら参照)。到底小生には無理ですが万分の一でも近付きたいと思います。皆様、ご自愛の程ご歯愛の程。

https://youtu.be/iuuaFrnj-IY?si=tJDGXeMauN0i2SN7

おまけ:おやつ堂が南日本新聞10/27朝刊に載りました。
たのし味(み)めぐり

BBTime 667 湯島通れば

「日あたりや熟柿の如き心地あり」夏目漱石

2024/10/21投稿
前回投稿から日が経ちました、「暑い暑い」と先日まで夏でした。句の解説から『不惑などという年令は、とっくのとうに過ぎてしまったのに、いまだに惑ってばかりいる。句のような心地には、ならない。いや、ついになれないだろうと言うべきか。このとき、漱石は弱冠二十九歳。あたたかい日のなかの熟柿は美しく充実して、やがて枝を離れて落下する自分を予知しているようだ。焦るでもなく慌てるでもなく、自然の摂理に身をまかせている。そんな心地に、まだ若い男がなったというのだから、私には驚きである。ここでは、みずからの充実の果ての死が、これ以上ないほどに、おだやかに予感されている。人生五十年時代の二十九歳とは、こんなにも大人だったのか。「それに比べて、いまどきの若い者は……」と野暮を言う資格など、私にはない。西暦2000年まであと二ヶ月。一年少々で、二十世紀もおしまいだ。「二十一世紀まで生きられるかなあ。無理だろうなあ」。小学生のころ、友だちと話したことを、いまさらのように思い出す。切実に死を思ったのは小学生と中学生時代だけで、以後は生きることばかりにあくせくしてきたようである。『漱石俳句集』(岩波文庫・1990)所収。(清水哲男)』(引用元)。ちなみに不惑とは四十歳、惑う:まどう。今回は音楽についてのお話。

過去にも書いております、歯科訪問診療の際にリクエストを聞いて音楽を流します。先日のこと「好きな歌手や唄などは?」とお聞きしたら、その女性は静かに口ずさみ始めました。「湯島通れば 思い出す」・・早速、検索すると「湯島の白梅」・・唄が始まるとその頃を思い出すかのように遠くに目をやり「お芝居の唄なの」とのこと。

訪問先の患者さんはコミニュケーション取れる方、そうでない方と様々です。ご家族と話す機会があれば「お母様の好きな歌手は?」と聞きます。ある時は「お富さんです、母の名前がトミ子ですから」でした。

コミニュケーション取れない方でも流します。ある女性はスナックのママであったとの情報で、演歌メドレーをかけます。情報がない場合は季節にあった童謡や唱歌などを選びます。音楽があることで、こちらも心温まりながらケアをすることができます。「Music for 介護」「唄を楽しむ」もぜひご覧下さい。

ご家族から離れて施設で暮らしておられる方が、少しでも「熟柿の如き心地」を感じて頂ければと思います。熟柿(じゅくし)のみならず、歯応えのある柿であっても味わえるようにと願いながら・・皆様、ご自愛の程ご歯愛の程。

https://youtu.be/h144mLquMFs?si=5RtklXDygtTWGye8

BBTime 666 舌でみる

「秋晴の空気を写生せよといふ」沢木欣一

2024/09/27投稿
 今朝6:40の桜島です。掲句の「写生せよ」と言われても・・。解説には『作者自註に「『空気が写生出来なければ駄目だ』と棟方さんが語った。終戦間もなく富山県福光町に疎開中の棟方さんを訪ねた頃のこと」とある。「棟方さん」とは、棟方志功のことだ。いかにも画家らしい言葉だが、あらゆる表現者に通ずるところがあると思う。言葉の意味としては、別に突飛でも難しくもない。たとえば「秋晴」に何をどのように感じるかは、何も感じないことを含めて、人さまざまである。このときに、どういう感じ方をしても自由なわけで、それがその人なりの「秋晴」という事象の「把握」だ。表現をしない人は常に事象を把握するのみにとどまるが、むろんそれはそれで一向に構わない。だが、ひとたび自分が把握したすべてを正確に他人に伝えようとなると、どうしても見えない「空気」を見えるように「写生」しなければならない。……と「棟方さん」は言うのである。考えてみれば、誰のどんな「把握」であろうとも、心のなかでは既に「空気」までをも「写生」した状態にあるわけだ。それをそのまま出す(「写生」する)ことができなければ「駄目」なんだと、画家はしごく当たり前のことを述べたのであった。それにしても、作者は「棟方さん」の言葉をそのまんま句にして、なおいまひとつ真意がつかめずに考え込んでいるようだ。その考え込んでいる「空気」がそのまんまに「写生」されているので、句になったというところか。『二上挽歌』所収。(清水哲男)』(引用元)。・・分かるような分からないような解説です。今回は歯の汚れは「舌でみる」について。

画像は「星の王子さま」サン=テグジュペリの像です。リヨンの中心部の公園にあり、台座に彫り込んである文章が「心でしか物事はよく見えない。本質は目に見えないんだよ。On ne voit bien qu’avec le coeur. L’essentiel est invisible pour les yeux.」(であったと記憶しています)。腰掛けているのが彼で、後ろに立つのが星の王子さまです。意味合いは異なりますが「歯の汚れ」も自分の目には見えません。

そこで「舌」でみるのです。舌で歯の内側(舌側)を舐めてください。ヌルッとしていたらプラークが付着しています(歯の表面が汚れています)。少しザラザラしていたら、プラーク(歯垢)が一部石灰化して歯石になっている可能性があります。プラークは歯ブラシで除去可能ですが、歯石は無理です、歯科医院へ行ってください。

イラストのように左手についた汚れは自分の目で見て、右手で洗い落とすことができます。汚れが落ちたか否かも目で確認できます。残念ながら口の中は無理です、歯の汚れは見えません。しつこく言うと「確認できない汚れを闇雲に落とそうとしている」のが歯磨きです。

これは田園調布サヴール:saveurのケーキ。サヴールとは風味。舌の働きのメインですが、味わうのみならず舌はさまざまな機能を持ちます。まさに歯のお隣さんだけに、もっとの歯を知るために舌をご活用ください。蛇足をひとつ。「舌でみる」と聞いて思い出したのが学生時代、解剖で覚えた脳神経の覚え方。「嗅いで視る動く車の三つの外、顔聴く舌は迷う副舌」=嗅神経・視神経・動眼神経・滑車神経・三叉神経・外転神経・顔面神経・聴神経・舌咽神経・迷走神経・副神経・舌下神経の12神経です。では皆様、ご自愛の程ご歯愛の程。

BBTime 665 はて?九月

「空っぽの人生しかし名月です」榎戸満州子

2024/09/14投稿
 今年の十五夜は9/17、満月は翌18日。まずは句の解説『今宵(2011.9.12)は仲秋の名月。名月の句は数えきれないほどあるけれど、この句はかなり異色だ。作者はべつに名月を待ちかねていたわけではないし、愛でようとしているわけでもないからである。しかも「空っぽの人生」とは言っているが、作者が自分の人生を深く掘り下げて得た結論でもなさそうで、せいぜいがその場の自虐的な感想程度にしか写らない。そう私が受け取るのは、たぶん「しかし」という接続詞が置かれているせいだろう。この「しかし」はほとんど「ともあれ、とまれ」と同義的に使われていて、前段を否定しているのではなく、それを容認する姿勢を残しつつ、後段に想いを移すという具合に機能している。つまり「人生」と「名月」とは無関係と認識しつつ、それこそ「しかし」、作者は無関係であることに感慨を抱いてしまっている。感慨無き感慨と言ってもよさそうな虚無的な匂いのする心の動きだ。こう読めば、作者の人生ばかりではなく誰の人生もまた、日月のめぐりのなかで生起しながら、やがては日月のめぐりに置き去りにされていくという思いにとらわれる。『現代俳句歳時記・秋』(2004・学習研究社)所載。(清水哲男)』(引用元)。前回の「はて?違和感」に続いて今回も「はて?」のお話を二つ

 例年九月になるとBBTimeで曲「September:セプテンバ」を紹介しておりました。ある時ある人から「それって12月の歌だよ」。「はて?」と確認したところ、そうでした!歌詞では「今は12月、9/21のことを覚えているだろう」。そうならばタイトルを「セプテンバ:九月」にするなよな!と思います。歌詞の和訳はこちらを。

 先日、小生自身の口のメンテナンス(月に一回)での会話。担当歯科衛生士「先週、スケーリング(歯石取り)の研修でした」「あと、器具のシャープニングも」。シャープニングとは歯石を取るハンドインスツルメント(手用器具)の刃を研ぐことです。聞きながら思いました「はて?」

数ヶ月ごとのメンテナンスで、歯の根っこをガリガリと歯石除去受けられた方も多いでしょう。歯石除去は必要です!小生の「はて?」は、歯石がつく前にメンテしてあげたほうがベターではないの?です。歯石除去とは、歯の根っこ、詳しくは根を覆うセメント質表面にしっかり付いた(歯ブラシでは除去できない)歯石を、器具を使って(おそらく)セメント質表面もいくらか削り取るのです。セメント質の下は象牙質(ぞうげしつ)で、歯髄(しずい:歯の中の神経)からの細い神経が通っています。歯石除去後に「歯がしみる、スースーする」などはこれも原因でしょう。極端な言い方をすれば、歯石除去(ガリガリ)ごとに根っこが細くなるのです。歯石除去は必要です!ならば歯石が付く前に歯垢の段階で除去してあげる方が良いのでは。

ネットを見ると『歯垢(プラーク)が残ったまま放置すると、個人差もありますが2~3日で石灰化し始め、やがて歯石へと変化して除去しにくくなります』(引用元)。残ったプラークが「数日で石灰化し始める」とは、歯石が数日で付くということではありません。小生の経験では毎月(月に一回)メンテナンスに通えば「ガリガリ」はほとんど不要です。1)患者さんへ:数ヶ月・半年ごとにメンテナンスに通っている方は是非「月に一回」通ってください。2)衛生士の方へ:担当の来院者(患者さん)に除去すべき歯石を見つけたら(もちろん除去されると思いますが)メンテナンス間隔についてもプロとしてアドバイスしてあげてください(ガリガリが極力不要な間隔)。保険診療の絡みで「三ヶ月に一回でいいですよ(毎月は無理です)」と言われたら、粘って「是非月一回」を希望してください。どうしても歯医者が「ハイ」と言わなければ思い切って変えましょう!

では皆様、ご自愛の程ご歯愛の程。もちろん曲は「セプテンバ」!

BBTime 664 はて?違和感

「冷え過ぎしビールよ友の栄進よ」草間時彦

2024/08/30投稿 8/31追加
葉月八月も明日まで。のろのろ台風は鹿児島をやっと通過しました。無事をお祈りいたします。俳句の出典元である「増殖する俳句歳時記」へのリンクが上手くいかなかったのですが復活したようです、安堵!掲句の解説:『友人が栄進した。異例の出世である。そこで、とりあえずのお祝いにと、作者は友人を誘って一杯やりに出かけた。たぶん、二人の馴染みの小さな店だろう。と、出されたビールが、今夜にかぎって冷え過ぎている。生温いビールもまずいが、あまりに冷え過ぎたのも美味くはない。「なんだい、冷え過ぎだよ」と、思わずも口走ってしまう。つまり、自分はあくまでも素直に友の出世を祝福するつもりでいたのだが、冷え過ぎのビールに当たるという形で、どこかに隠れていた妬みの感情が露出してしまったということなのである。サラリーマンの哀しみ。(清水哲男)』(引用元)。社会人になり本格的に酒を嗜むようになったある時「乾杯=ビール」に違和感を抱きました。2002年に秋田大館市「柴田慶信さん」の取材時晩御飯の乾杯は「お酒(日本酒)」でした、合点しました。今回は生活の中での「はて?」違和感について。

週に三日程、訪問診療に行きます。施設の入り口でよく見かけるスイッチ(ボタン)。毎回思います「この表示はウソ!」。自動なら自動で開くはずです、押せば開くのでは自動ではなく「電動」です。荷物で両手が塞がっているため大声で「開けゴマ」と言いたくなります。なぜ、このような虚偽表示が当たり前であることに「はて?違和感有り」

生活の色々な場面で利用するエレベーター。乗った後、小生は「閉」ボタンをあえて押しません。理由は「待てば自動に閉まる」からと、ある県立病院が経費削減のために「節電=電気代削減」の理由で(ボタン押さずを)実行しているという記事を読んだからです。電気代削減については「さほど削減にならない」との記事も見受けられますが。押さずに自動閉鎖を待つと「アンタなぜ押さぬ」の顔で見る人もいます。しかし涼しい顔して、押すべき空気には「はて?違和感有り」

過去にも書いております「大丈夫です」について。歯科診療でも、レジでもよく耳にします。「痛みはありますか?」に対して「大丈夫です」と患者さん。お店の方が「買い物袋は大丈夫ですか?」と質問。つい「丈夫なバッグ持ってます」と答えたくなります。この大丈夫です、小生にとっては非常に不親切、あやふやに聞こえます。痛みが有るのか?無いのか?バッグを持参しているのか?もしくはレジ袋は必要なのか否か?はっきりとストレートに会話してほしいと個人的には思います。「はて?違和感有り」

訪問診療で「歯磨き粉((ペースト)使用について」のアドバイス。使わなくてもいいですよ、まずはブラッシングです。と答えると怪訝そうな顔で「えっ使わなくていいのですか」。何度も書きますが、ムシ歯予防・歯周病予防に必要なことは歯の表面の汚れ(プラーク)除去であって、歯磨き粉を使用したからと言って除去効果がアップすることはありません!ハミガキとは「洗面所」で「毎食後」に「歯磨き粉」をつけて磨くべきと信じておられるのではないでしょうか?歯磨き粉無しで歯ブラシだけでの「唾液磨き」ならば場所を問わず、タイミング(時間)も問わず可能です。さらに言えば「砂糖無し」の食事であれば「ウガイ」のみで歯磨きは必須ではありません。「洗面・毎食後・歯磨き粉」をマスト(すべきこと)であるには「はて?違和感有り」

以上、私見です。肝要は「はて?」と自問自答、自分で問うことです。知らぬ間に家族が親が他人が周りがやっているから「する」ではなく「はて?」
台風ゼロは無理です、無事を祈って最後にもう一句。皆様、ご自愛の程ご歯愛の程
「台風のたたたと来ればよいものを」大角真代

おまけ:オレンジページnetに掲載中の拙記事「軽羹とデコン」はこちら
8/31追加:朝日新聞8/31朝刊beに興味ある記事発見!
『「ハードル下げは一つずつ』上手に悩むとラクになる・・の中に『例えば「ダイニングテーブルに歯ブラシと歯磨き粉を置いておく」。根が生えたようにそこから動かなくなる夫ですが、ダイニングテーブルに歯ブラシがあったら、そこで歯磨きが開始できます。口の中が泡だらけになったら、きっとうがいがしたくなりますね。』(記事より)・・賛成賛成大賛成!

BBTime 663 最後の晩餐

「美しき緑走れり夏料理」星野立子

2024/08/08投稿
パリオリンピック開会式で物議を醸した「最後の晩餐」。絵画としては、ご存じのようにレオナルド・ダ・ビンチの作品のひとつで、ミラノにあるサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ修道院食堂に描かれています。ちなみに「最後の晩餐」は『キリスト教の新約聖書に記述されているキリストの事跡の一つ』で詳しくはこちらを。

時に「最後に食べたいものは?」のような記事を目にします。小生なら「鶏の唐揚げ」でしょうか。訪問診療に携わるようになって「最後の晩餐」について、ふと思いました。歯の本数、有無にかかわらず、人によっては普通食から刻み食、ミキサー食へと変わることがあります。歯があっても義歯が使えても「噛む力が弱い」「噛む気力が低下」などで、噛めないことが主な理由です。また、噛めても(モグモグできても・咀嚼できても)それに続くゴックン(飲み込み・嚥下)ができない場合もミキサー食になることがあります。

結論:多くの人は「最後の晩餐」をとることができない、言い換えればこれが「最後の晩餐」として認識できない場合がほとんどです。先日、ラジオで料理人の方が和食について語っていました。「誕生日、節目での祝い、季節の節目」など和食は人生の行事や節目と結びつきが深い。行事食、ハレの食事のように今でも身近に残る食事が多々あります。先月の「土用のうなぎ」もそのひとつでしょう。

その昔、レストランを数多く経営しておられる方の講演の冒頭「私はあと一万食くらいしか食べられない」と。一万食=365×3×9=9,855となり大まかに九年から十年ということでした。一食一食は貴重です。皆さま、ご自愛の程ご歯愛の程。

BBTime 662 涼風

「この門を入れば涼風おのづから」森永湛堂

2024/07/29投稿
画像は朝の桜島です(7/28 5:58)。掲句は先日、和尚さんとの会話で知りました。「涼風:りょうふう」とは、涼しい風というより「涼しく感じる」の方が近い意味でしょう。詳しい解説はこちらを。

画像は霧島連山(7/28 5:58)。左手から「韓国岳:1700m」、わかりにくいのですが「新燃岳:1421m」、画像のほぼ中央が霊峰「高千穂峰:1574m」です。撮影場所(鹿児島市与次郎)からは桜島に向かって左から、韓国岳 新燃岳 高千穂峰 桜島 開門岳の五峰を見ることができます(この朝、開門岳は見えず)。さて、今回「涼風」をお届けします。この涼風は「音」で「明珍火箸風鈴」の奏でる音です。

「音」と文章は、オレンジページの拙ブログにて!
明珍さんのお話は「やってあたりまえ」を是非!
では皆様、ご自愛の程ご歯愛の程。

BBTime 661 耕不尽

「夏の夜や崩て明し冷し物」松尾芭蕉

2024/07/20投稿
「耕不尽:こうふじん」耕せども尽きず。句の解説から『清少納言は「夏は、夜」がよろしいと言った。「月のころはさらなり、闇もなほ、螢の多く飛びちがひたる」。違いないが、健全な風流心にとどまっている。そこへいくと、掲句の「夏の夜」はよろしいようなよろしくないような、とにかく健全さは読み取れない。「なつのよやくずれてあけしひやしもの」と読む。句会が宴会に転じ、ずるずると飲みかつ語るうちに、夜がしらじらと明け初めてきた。その光のなかで卓上を見やれば、昨夜のせっかくの冷えた酒肴も見苦しく崩れてしまっている。みんなの顔もとろんと大儀そうで、ああ適当に切り上げておけばよかったのにと、後悔の念にかられているのである。眼目は、実際に「崩て」いるのは「冷し物」なのだが、座全体が「崩て」しまっている雰囲気を、崩れた「冷し物」に象徴させているところだ。徹夜の酒席の常であり、江戸期も現代も同じことで、最後はこの狼藉ぶりに後悔しながらのお開きとなる。蛇足ながら、旅にあった芭蕉は別室ですぐに休めたろうが、朝のまぶしい光のなかを歩いて帰宅する人もいたはずで、そんな人は一句ひねるも何もなかっただろう。私はいま、若き日に徹夜で飲んだ果ての新宿の早暁の光を思い出している。(清水哲男)』(引用元)。今回は前回「BBTime 660 届けるものは」の続きのようなお話し。

梅雨明け朝の桜島。冒頭の短冊は開業した1990年に南洲寺(鹿児島市)の当時の御住職矢野完道(やのかんどう)和尚の筆で、「あなたの仕事でもそれ以外でも、これで終わり(ゴール)ということはない」との言葉とともに頂きました。前回「届けるものは」をアップした後、この「耕不尽」が頭の中を回ってます。

訪問診療に従事するようになって「認知症」について勉強する機会が増えました。認知症にならないためにはどうすれば良いのか?認知症になるタイミングを極力遅くするにはいかにするか?認知症予防に有効なひとつは「生活を耕不尽」です。

鶴丸城跡御楼門前の蓮。冒頭の句を見てください、漢字とひらがなが交互です。読んでも見てもリズムを感じます。超有名句「菜の花や月は東に日は西に 与謝蕪村」も同じスタイル。見方を変えるだけでも「耕不尽」。訪問先で利用者の方を見て思います。まず第一に「自分の足で歩くこと」次に「口から食べること」・・この二つを死守してほしいと痛感します。逆の見方をすれば・・「しっかり歩く」「歯と口の健康を守る」。多くの方は充分でないのでは?ちょっとそこまででも車、ファストフードジャンクフード炭酸飲料等々を日々口にする。極端な言い方ですが、人並み(半数以上の人がやっていること)の生活をしていたら、認知症リスクは高まります。

7/20朝の桜島。今、盛んに「AI」関連の記事や動画を目にします。ネットが普及し始めた時以上の変革が始まっていると言われます。「AI」をいかに使うかが「人」として問われます。茶道で「一生稽古」という言葉をよく聞きます。「一生稽古」「生涯現役」「耕不尽」、人生百年を生ききる秘訣は、好奇心を失わず、日々キョロキョロし、歩き回って、美味しく食べることのような気がします。最後にひとつ「耕不尽」は字の通りまずは「耕す」です。耕さないと「不尽」はありません。では皆様、ご自愛の程ご歯愛の程。