BBTime 151 小説いれば食堂 その3

BBTime 151 小説いれば食堂 その3
「コスモスのあたりに飛べばホームラン」浜崎壬午

『トンカツ入れ歯』
「ヤマノさん、中へどうぞ」
名前を呼ばれて我に返ったハナさんは、手にしていたお品書きを置いてゆっくりと椅子を立った。頭の中では「おはよう」がこだましている。
「こんにちは、院長のイナバです」
この人がイレバ先生と笑いそうになるのを我慢して
「よろしくお願いします」
「なかなか合わないそうですね」
一呼吸置いて、ハナさんは入れ歯の歴史を話し始めた。歴史というより不満や愚痴の方が多かった。ひとしきり話し終えると、それまでじっと黙って聞いていた先生は一言
「任せてください」続けて
「まずは診せてください、外しますよ」
上下の入れ歯をじっくりと診たあと、口の中もしげしげと診た。おもむろに指で歯茎を丁寧にたどっていった。
「これまでかなり入れ歯で苦労されましたね」
「はい、ですから上下とも新しいのを作ってください」
「んー、まずはお持ちの歯を調整しましょう。調整しながらヤマノさんが何を希望されるのか、何が不満なのかをしっかり見極めます」
確かにそうである、先生の言うことは的を射ている。
「患者さんは新しくしてくださいとおっしゃいますが、その言葉の裏には、様々な不満、要望が隠されています。問題点を明らかにして、その解決法を盛り込んだ作り方をしないと満足していただける義歯を作ることはできません」
先生はいくつかの指示をスタッフに出した。
「まずは適合を調べます、安定剤を外しますよ」
安定剤を取り除くと代わりに白いものを入れ歯に盛った。
「はい、カチカチしてみてください」
「痛くない程度にギュッと噛んで」
「そのまま軽く噛んでおいてください」
ほどなく、口から取り出した入れ歯を説明してくれた。噛むとなぜ下が痛くなるのか、上が緩む原因も先生にはわかったようだ。
「今日は入れ歯の形を修整してクッションを引きます、おそらくこれで大方のものは食べられるようになると思います」
ドロッとしたものがついた入れ歯が口に入った。
「軽く噛んで」
「はい、カチカチして」
「ギュッと噛んで」
「うがいして」
「軽く口を閉じて」
立て続けに指示が出た。最初変な味がしていたが、次第に味は消え、噛んでもさほど痛くなくなってきた。
「早速今日からいろんな食材を試してください。食べられなかったもの、食べにくかったものを次の時に教えてくださいね」
下の入れ歯が若干大きくなったような気がしたが特に痛みはない。
いれば食堂を後にしてスーパーに寄った。初鰹の季節である、二パック求めて、隣の精肉コーナーを見ると「黒豚ロース・トンカツ用」の文字が目に入った。なぜか無性にトンカツを食べたくなった、今すぐにではなく、いつしかである。名店マルイチで舌鼓を打ったのは何年前だったろう。五年前?十年前?「トンカツ入れ歯」はどうかしらと思いながら、初鰹に合う醤油を手に取った。

続く・・・。サンマ食堂・いれば食堂その1・いれば食堂その2もどうぞ。
今回のBeat :さすがにトンカツの曲はありませんでした・・冒頭の句に敬意を評して「秋桜」です。三者三様ですが、やはり山口百恵でしょうかね。6250



 

 

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