BBTime 150 小説いれば食堂 その2

BBTime 150 小説いれば食堂 その2
「おはようの野菊おかえりの野菊」三好万美

『オハヨウ入れ歯』
いれば食堂は食堂というよりカフェの雰囲気で、待合は木をベースにしたシンプルなつくり。お品書きが変わっていた。お品書きには過去に注文された入れ歯の名前とちょっとした物語が添えてある。
源さんは定年後、ケア施設のバス運転手として働いている。数年前から、朝だけ小学校の正門近くの横断歩道に立つようになった。
今はもう吸っていないが、昔はヘビースモーカーであったためか歯周病が悪化し上は総入れ歯、下は右の前歯二本、左が三本のみで他は部分入れ歯だった。ところがここ半年くらいで次々と動き始め、一本また一本と抜けていった。三日前にも左の一本が抜け、ついに右下一本だけとなった。抜けるたびに下の入れ歯はゆるくなり、抜けたところに食べ物は詰まるし不便を感じてはいたが、生来の億劫ゆえ歯医者に足を向けることはなかった。「全部抜けたら、入れ歯を作りに行こう」と勝手に決めていた。ところが、さすがに残り一本になると困った。
何に困ったかと言うと「おはよう」が言えなくなったことである。横断歩道に立ち、大声で「おはよう」と児童に声をかけている。すると倍返しの大きな声で「おはようございます」が返ってくる。この声聞きたさで毎朝立っているようなもんである。
それが大声で「おはよう」と言おうとすると下の入れ歯が飛び出しそうになる。舌で押さえて「おはよう」となんとか言えるが声は小さい。いつしか子供達からは「源さん」をもじってか「声の大きな元気さん」と呼ばれていただけに、源さんはショックだった。

その朝も横断歩道に立ったものの大声は出せず、ごまかすためにマスクをはめていた。
「元気さん、風邪ひいたと?」
子どもたちは口々に尋ねた。その都度「まあね」と小声で頷いていた。今度ばかりは重い腰を上げた。
「次の休みを利用して歯医者に行こかいね」
帰宅後カミさんに言うと
「あら、どげんしたと?いけん風の吹き回しね」
「どっか入れ歯のうまか歯医者を知らんね?」
「そうね、お寺の掃除の時に小耳に挟んだけど「いれば食堂」ってのが良かって。行ってみれば?」
カミさんの話で大方場所の見当はついた。送迎バスの運転のおかげで市内の道はだいたいわかる。高麗橋の近くだった。
指折り数えてとはこのこと、久しぶりに休みが待ち遠しかった。
受付で名前と住所を記入して待っていると中に通された。
「どうなさいました?」
「いやあ、下の入れ歯が動いてうまく話せんとです」
「すぐに院長が来ますので」
「お早うございます、イナバです。下の歯がゆるくなったとか」
源さんは、下の入れ歯を年甲斐もなく少々恥ずかしそうに口から出した。先生はしげしげと眺めた後、トレーの上に置きこう言った。
「まずは口の中を診せてくださいね」
治療台が倒れる。
「記録を取ります。上顎7から7欠損、FD。下顎は右下3のみ残存、他は欠損。うがいをどうぞ」
の声で治療台は起きた。
「残りの一本も抜いて新しく作ってください」
うがいの後に、素直な気持ちを伝えた。
「レントゲンを撮ってから判断しましょう」
レントゲン室を出るとすぐ横で先生が説明してくれた。
「これは右下の糸切り歯です。下の歯の中で一番根っこの長い歯です。根が長いと言うことはそれだけ力を発揮できるという歯です。根の周りはさほど問題はなさそうですから、この歯を抜くのはもったいないです、残しましょう。まずは、抜けた部分も含めてこの入れ歯を補修しましょう」
その言葉を聞いて、源さんは拍子抜けした。残りの一本を抜いて、傷が治るのを待ってからしか新しい入れ歯はできないと思っていただけに、次に大声で「おはよう」が言えるのは下手すると夏休みに入るかもと案じていたのである。
「ただし残っている一本は根っこだけにしましょう。あなたの場合、その方が噛み合わせの良い入れ歯にすることができます」
「もっとはよ来ればよかった」と心の中で後悔しきり。
「もし、今日預かることができれば、明日の夕方にはしっかり噛めるようになりますけど。いかがしましょう?」
「上もですか?」
「いえ、下だけです。下だけお預かりして歯を足します」
「そぎゃんしてください。修理したら緩みも取れますかね」
「やってみないとはっきり言えませんが、多分大丈夫ですよ」
歯の処置後、型を採り、入れ歯を預けて、いれば食堂を後にした。すでにお昼を少し回っていた。晩御飯のことが少々心配になったが心は軽かった。

翌日は勤務のため二日後にいれば食堂に予約を入れた。今朝も子供達はウソ風邪のマスク姿の源さんを気遣ってくれる。
「お預かりした義歯です、きれいにできましたよ」
先生は補修の出来上がった入れ歯を見せてくれた。見た目はいわゆる「総入れ歯」である。恐る恐る口の中に入れてゆっくり噛んでみる、痛いところはないが少々ガタツク。
「適合状態を調べますね」
先生は入れ歯の内側に白いマヨネーズのようなものを付けた。
「ゆっくり噛んでください、痛くないですか?」
「いとなかです」
「すぐに固まりますので、そのまま噛んでおいてください」
数分もしないうちに先生は下の歯を取り出して見せてくれた。
「ピンク色の部分は歯茎に合っています、白い部分は隙間です。隙間が多いとガタツキも多いことになります。隙間を埋めましょう」
見ていると先生は薄ピンクの粉と透明の液を混ぜ始めた。水飴のようなドロリとしたものを入れ歯の内側に盛り口の中へ。
「ちょっと変な味がしますよ、はじめだけです」
「はい、噛んでください」
「ギューッと噛んでください」
「はい、うがいどうぞ」
噛んでも痛くないし、うがいの時も浮き上がらなかった。
「どうですか、緩みはどうですか?」
「いとなかです、緩くもなかです」
「話すのは大丈夫ですか?」
これは手品だと思った。舌を動かすたびに浮き上がっていた入れ歯が嘘のようにおさまっている。吸い付いているようにも思える。
「固まるのに五分程かかりますから、その間に上を診ましょう」
そう言うと先生は上の入れ歯を外して、白いハンドクリームのようなものを筆で塗っている。
「見てください、ここに刷毛目がついています。これから入れ歯とベロの関係を診ますので、住所を二回言ってみてください」
「鹿児島市脇田三四五二番地、鹿児島市脇田三四五二番地」
先生は入れ歯を取り出すと
「刷毛目のこの部分が消えてます、ここが舌の動きの邪魔をしているんです、削りますね。もう下も固まったでしょうから外しますよ」
上下の入れ歯を手に先生は奥に消えた。待つことしばし、水洗いされた上下の入れ歯を持った先生の顔はにこやかだった。
「入れてみてください」
「どうですか?」
噛んでも痛くないし、入れ歯を舌で押しても浮き上がらない。
「先生、良かです」
「今日の処置は、下の入れ歯に歯を足して、入れ歯全体の緩みを取りました。上の歯は話す時に舌の邪魔をしないように調整しました。食事されて痛みが出たら調整しますね」
源さんはもう一度うがいすると治療台を降り深々と礼をした。

その日の晩御飯は「ブリの煮付け」。骨のまわりの身も綺麗に食べることができる、もちろん噛んでも痛くない。
「うんまか!」
思わず声が出た。自分の声を聞いて驚いた、大きな声が出る。台所に立つカミさんに大声で
「こっは、うまか」
「そげん太か声で言わんと聞こえますよ」
「いや、こいでやっとおはようが言いがなっ」
「良かったねえ、ここんとこ元気なかったもんね」
翌朝はいつもより三十分も早く旗を持って家を出た。気の早い児童が数人登校して来る。
「おっはよう」
あまりの声の大きさに子供はキョトンとしていた。
数日後、いれば食堂の予約の日である。
「食べられましたか?」
「いけんもなかったです」
「話しやすかったでしょ」
「ですよ!今までんとは全然違うてわっぜ話しやすかったです。上ん歯も別ん歯のごた」
先生の話では、上の入れ歯の奥の長さと形は非常に重要だそうだ。長さが合っていないと、飲み込みづらく、話しづらい。飲み込みにくくなると食が進まなくなったり、また喋りにくいために相手から何度も聞き返されることで口数が減ってしまった人もいるそうだ。合わない入れ歯のせいで引き籠りになりかねないと、源さんは話を聞きながら「くわばらくわばら」と安堵していた。
先生は、今後の大まかな予定について言葉を続けた。しばらく今の入れ歯を使ってもらいながら、残っている一本の歯の処置をして入れ歯を調整していくとのこと。新しくするのはそれからとのことだった。源さんは決めていた、新しい入れ歯は「オハヨウ入れ歯」。
帰りしな源さんはお礼の気持ちを込めてこう言った。
「先生は入れ歯がうまか、イナバ先生じゃなくてイレバ先生じゃ、これからはイレバ先生がよか!」
この日よりイナバ先生改めイレバ先生となった。
その3に続く・・・
さんま食堂」「いれば食堂その1」のお替りどうぞ。
今回のBeat はおはよう入れ歯ですのでズバリ「Good Morning」です。映画「雨に唄えば」の挿入曲です。ここBBTime011「お早う!磨こう!」でも紹介しています。

こんな「お早う」もありました。5400

こちらの方が画像がキレイです。

インスタグラム始めました。hideky1961

 

 

「BBTime 150 小説いれば食堂 その2」への2件のフィードバック

  1. 大変面白いですね!
    入れ歯食堂も先生の発想も!お変わりないです。
    何か面白い企画ができないでしょうかね?

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