BBTime 274 食べるために生きる
「弁当は食べてしまつた秋の空」麻里伊
先日(9/5)BBTime271「食べるために」アップ後、「だから、人は食べるために生きるんや」を反芻(はんすう)しておりました。「生きるために食べる」なら分かりますが「食べるために生きる」・・?
「生きるために食べる」・・これなら、当たり前でしょと素直に理解できます。シンプルにお腹が空いたから食べる、すなわち生きるために食べる。コラムには「生きるために食うのであれば何でもいい」とありますが、そうではない・・。
「忙しなく秋刀魚食べ了へひとりかな」ともたけりつ子
「句集の内容から推して、作者は若い独身女性のようだ。仕事を持ち、ひとり暮らしをしている。仕事帰りに、初物の「秋刀魚」をもとめてきたのだろう。せっかくの季節の物だから、ちゃんと大根おろしを添え、柚子かレモンの汁を滴らせたにちがいない。だが、いざ食べる段になると、季節感をじっくり味わうというのでもなく、いつものように「忙(せわ)しなく」食べ了(お)えてしまった。もはや習い性となってしまったそんな食べ方に、つくづくと「ひとり」を感じさせられている」解説より
「笑ひ茸食べて笑つてみたきかな」鈴木真砂女
「軽い好奇心からの句ではあるまい。八十歳を過ぎ、心から笑うことのなくなった生活のなかで、毒茸の助けを借りてでも大いに笑ってみたいという、一見するとしごく素直な心境句である」解説より。画像は「笑ひ茸」にあらず(笑)。こちらもどうぞ
「淋しさに飯を食ふ也秋の空」小林一茶
「二番目の妻を離別した後の文政八年(1825年)の句。男やもめの「淋しさ」だ。昔の男は自分で飯を炊いたりはしないから(炊けないから)、飯屋に行って食うのである。いまどきの定食屋みたいな店だろう。そこにあるのは、何か。もちろん飯なのだが、飯以上に期待して出かけるのは、ごく普通の人々とのさりげない交感の存在だろう。いつもの時間にいつもの人たちが寄ってきて、ただ飯を食うだけの束の間の時間が、世間並みの暮らしから外れてしまった男には安らぎのそれとなる。ホッとできる時間なのだ」解説より
「舌噛むなど夜食はつねにかなしくて」佐野まもる
「季語は「夜食」で秋。なぜ「かなし」なのかといえば、夜食は本来夜の労働と結びついおり、夜遊びの合間に食べるというものではないからである。夜遅くまで働かないと生活が成り立たない、できればこんな境遇から逃げ出したい。そんな暮しのなかにあっての夜食は、おのれの惨めさを味わうことでもあった。ましてや「舌噛むなど」したら、なおさらに切ない」解説より
「よくかんで食べよと母は遠かなかな」和田伊久子
「伴うのが寂寥感であれ清涼感であれ,「かなかな」の声は郷愁につながっていく。「子供にも郷愁がある」と言ったのは辻征夫だったが、ましてや掲句の作者のような大人にとっては,「かなかな」に遠い子供時代への郷愁を誘われるのは自然のことだ。遠い「かなかな」,遠い「母」……。もはや子供には戻れぬ身に、母の極めて散文的な「よく噛んで食べよ」の忠告も,いまは泣けとごとくに沁み入ってくるのだ。私たち日本人の抒情する心の一典型を、ここに見る思いがする」解説より。「遠かなかな」もしくは「母は遠」をどのように読むかは解説にはありません、どう読むのでしょうか?
「けふいちいち食べるものある、てふてふ」種田山頭火
「放浪行乞の身の上で、いちばん気がかりなのは、むろん「食べるもの」だ。それが「けふ(今日)いちにち」は保証されたので、久方ぶりに心に余裕が生まれ、「てふてふ」の舞いに心を遊ばせている。好日である」解説より
常々、食べることに関する俳句が多いなあと思っておりました。究極とも言える五七五、十七文字で共感可能な「感動」を表現するに「食」が取り上げられるのも何となく合点がいきます。食べることは生きること。「生きる」とはただ生活年齢を重ねるのではないと思います(もちろん十人十色ですが)。「食べる」と「生きる」は表裏一体なのです、きっと。食べることは生きること・・そのためには健康な口・健全な歯が必要です。
https://youtu.be/hejHkPaoPWw