BBTime 653 道

「どっちみち梅雨の道へ出る地下道」池田澄子

2024/04/20投稿
早い方は来週末から連休でしょうか。鹿児島は雨多く梅雨を思わせます。句の解説から『雨降りの日は地下道が混雑する。少々遠回りでも、なるべく雨を避けて歩きたい人が多いからである。かくいう私ももちろんその一人だが、しかし、句の言うように、いずれは雨の道に出なければならないのだ。そう思うと、わずかの雨を嫌がって地下道を歩いている自分が情けなくも滑稽に見えてくる。晴れている日と同じように、いつもの地上の道を真っ直ぐに行けばよいものを……。と、思いつつも、やはり地下道を選んで歩いてしまう。これが人情というものである。なお「どっちみち」は「いずれにしても」と「どっちの道」の二重の意味にかけてある。なんということもないような句だが、読者に「なるほど」と思わせる作者のひらめきは、なかなかどうして脱帽ものだ。自由詩では書けない世界である。いつか梅雨時の地下道で、この句を思い出して苦笑いする読者も少なくないだろう。「池田さんは正直に、デリケートに、またユーモアを秘めて時代と向き合っていると思う」(谷川俊太郎)。『いつしか人に生まれて』(1993)所収。(清水哲男)』(引用元)。解説では「どっちみち」の「みち」について触れていますが、結句の「地下道:ちかどう」を強引に「ちかみち」と読めば「どっちみち」「梅雨の道」「ちかみち」と「道」がみっち(三つ)!今回は「道」について、去る4/8の「ほぼ日」から。

『・いまの時代には、なにかをはじめるときに、
 それがうまく完成するものなのかどうかを、
 見極めてからはじめるべしという考え方がある。
 いや、考え方のひとつというよりは、
 そうでなければやってはいけない、
 まちがうかもしれないことをやるのは無責任である、と「原則」のようにされてしまっている。かならず成功するために調査をし、テストを続けて推論し、方向が決定されても修正を加えながら進行していく。これは、コンピューターの進化のおかげで、デジタルデータを入れての「テスト」がほぼ無限にできることになったおかげも大きいだろう。』

『いま、ぼくの付け焼き刃「論語」ブームはまだ続いていて、昨日は呉智英『現代人の論語』を読み終えたところだ。この本の第33講に冉有(求)という弟子の話がある。かいつまんで記す。覇気がなくなかなか実行しない冉有と孔子との問答だ。
 「私は先生の説く理想の道を歩むのが
 うれしくないわけではありません。
 ただ私には力が足りないのです」
 と言う冉有に、先生がおっしゃった。
 「力が足りない者なら、
 進めるだけ進んでそこでやめる。
 しかし今のお前は
 自分で自分の力を見限っている」』

『孔子は「進めるだけ進んでそこでやめる」ことを、だめじゃないか無責任だというのではまったくなく、始めず進めないことのほうを叱っているわけだ。これ、いろんな読み方があるかもしれないが、ぼくには、とても新鮮で本質的な考えに思えた。
 「まちがいなく完全に成功する計画」などありえないのに、それをやろうとしているのが現代の支配的な考え方であり、ぼくの内にも息づいている「慎重で善良な思い」である。ここでもまた、古代中国の思想家に、痛い所を突かれた。』

『日曜の夜のNHKスペシャル『LastDays』で坂本龍一が、いまつくりたい、つくっている理想的な音楽について語り、「そんなのは、ぼくのいまの力量では叶わないんだけれど」と言い「なんとか努力してみます」とはっきり結んだ。彼は「進めるだけ進んでそこでやめる」を現実にしていた! 限りある人生でできることは、みんなそれなんだと思った。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。すべては未完成にしかならないと思いつつ、進めれば幸いだ。』

画像は高村光太郎(1883-1956)の作品『手』(1918年)です。ほぼ日を読んで「道程」(1914年)を思い出しました。
『僕の前に道はない
僕の後ろに道は出来る
ああ、自然よ
父よ
僕を一人立ちにさせた広大な父よ
僕から目を離さないで守る事をせよ
常に父の気魄を僕に充たせよ
この遠い道程のため
この遠い道程のため』
ほぼ日の「進めるだけ進む」は、まさに
「僕の前に道はない 僕の後ろに道は出来る」!

おやつ堂は、昨年の天皇誕生日(2023/02/23)にオープンしました。いまだ「行き先の見えぬ道を歩む」です。日々精進! 皆様ご自愛の程ご歯愛の程。

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