BBTime 646 自ら然り

「春立つと古き言葉の韻よし」後藤夜半

2024/02/04 立春投稿 2/5追加
暦では春。句の解説『韻は「ひびき」と読ませる。昔から、立春の句や歌は数多い。それだけに、後代になるほどひねくりまわし過ぎた作品が目立つようになってきた。止むを得ないところではあるけれど、だからこそ、逆に立春という題材をどう扱うかは、俳人や歌人の腕の見せどころでもある。「芸の人」夜半としては、そこでしばらく考えた。考えた結果、立春のあれやこれやの情景を捨て去って、一見すると素朴な発想のこの一句に落ち着かせることにした。さすが、である。つまり、この句には古今の名句や名歌のひびきが、すべて収まってしまっているからだ。さりげなく「他人のフンドシで相撲をとる」のも、立派な芸というべきだろう。脱帽。(清水哲男)』(引用元)。この時期、好きな句です。句とは関係なく「自然:じねん」「自ら然り:おのずからしかり」について。
もうひとつ好きな句のご紹介(2/5追加)
「雨の中に立春大吉の光あり」高浜虚子

北原白秋の詩「薔薇二曲」
「薔薇ノ木ニ 薔薇ノ花サク。 
ナニゴトノ不思議ナケレド。

薔薇ノ花。
ナニゴトノ不思議ナケレド。
照リ極マレバ木ヨリコボルル。
光リコボルル。」

薔薇は向井バラ園@mukai_rosegarden 

ネットで見つけた文章
『なんのことはない。薔薇の木に薔薇が咲いたというだけだ。
しかし、考えてみれば不思議なことではないか。だれもなにも教えていないのに、時期がくればちゃんと咲くのだから。 
 動物だって、右足が出れば左足がでるというように、左右交互に手足が動くから歩いたり走ったりできるのだし、呼吸をすることも、心臓が動くことも、自分の意志とはまったく関係ない働きである。
 すべての生き物に備わっているこの不思議な働き。
 これこそ、天からの授かり物だろう。
 春来たらば草自ずから生ず、である。』(引用元)。
自ずから生ず・・まさに「自ら然り」自然(じねん)です。

自然(じねん)をネットで見ると・・
『「春は名のみの風の寒さや」
 暦の上では春なのに寒い日々が続くとき、この「早春賦(そうしゅんふ)」の詞章を想い出す人は優れた感受性の持ち主である。今や人間は大自然に住まうのでなく、改造された人工環境の中で生活している。
 今日、私たちが「自然」と言う場合、山川草木や雨や風など、人間を取り巻く外的な環境のことを指す。そのような自然環境は人間に対立するものであり、自分たちに都合のよいように改造できるものと考えてきた。その結果、地球の温暖化や砂漠化、水や大気の汚染などの様々な問題を惹起した。どれもこれも人間の我が儘が原因である。人間は自然を支配しようとするが、自然は人間の支配の対象ではない。
 仏教では、自然を〈じねん〉と訓じて「自ら然る」という意味に解する。人間の作為のない「そのまま」の在り方が自然である。法(真理)が「そのまま」に顕現していることを示す法爾(ほうに)と自然とは同義語で、その両者を合わせて「自然法爾(じねんほうに)」「法爾自然(ほうにじねん)」という四字熟語ができた。
 浄土宗開祖の源空は、「法爾自然」を略して法然と号した。浄土真宗を開いた親鸞は、「自然法爾章(じねんほうにしょう)」と称する一文を認め、その中で「自然といふは、自はをのづからといふ、行者のはからひにあらず、然といふはしからしむといふことばなり」(『末燈鈔(まっとうしょう)』)と説いている』(引用元)、こちらも。

薔薇がバラとして何事もなく咲くように、ヒトもまた自然(じねん)。Wikipediaには特徴として『直立二足歩行 現存生物で唯一ヒトのみが直立二足歩行を行う。 二足歩行のみなら鳥類やカンガルー、一時的な二足歩行であれば一部の哺乳類が行えるが、頭から足までまっすぐ伸ばした直立姿勢を取るのはヒトのみ』
『コミュニケーション能力 脳・声帯が発達しており、(身振りだけでなく)音声(音声言語)・手話や文字(書記言語)によるコミュニケーションを図れる』
加えて『全体として「大型」「群れる」「中速度で長距離を移動する」「調理された質の良い、多様な食物を食べる」「投擲など自分の体から離れたものを利用する」ことが動物としてのヒトの特徴・生態的地位といえる』(引用元)。

シンプルに考えるに、ヒトは「歩く」「食べる」「話す」が自然(じねん)、自ら然りでしょう。歩くについては「BBTime 644 歩く!」を、食べるは「BBTime エンタメ」を、話すは「BBTime 640 セイタイハイリョ」もご覧ください。皆様、是非ご自愛の程ご歯愛の程、自ら然りで人生を楽しみ尽くしませんか!

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です