BBTime 477 美味笑

BBTime 477 美味笑:びみしょう
「笑ひ茸食べて笑つてみたきかな」鈴木真砂女

先日横浜金米堂(キンペイドウ)の「どら焼き」を頂きました。ひと口含むと思わず笑みが・・これぞ名付けて「美味笑:びみしょう」・・幸せです。真砂女さんも笑い茸よりは、美味しいどら焼きで笑いましょうよ(笑)。句の解説には『軽い好奇心からの句ではあるまい。八十歳を過ぎ、心から笑うことのなくなった生活のなかで、毒茸の助けを借りてでも大いに笑ってみたいという、一見するとしごく素直な心境句である。が、しかし同時にどこか捨て鉢なところもねっとりと感じられ、老いとはかくのごとくに直球と見紛うフォークボールを投げてみせるもののようだ。よく笑う若い女性にかぎらず、笑いは若さの象徴的な心理的かつ身体的な現象だろう。どうやら社会的な未成熟度にも関係があり、身体的なそれと直結しているらしい。したがって、心理的なこそばゆさがすぐにも身体的な反応につながり、暴発してしまうのだ。私はそれこそ若き日に、ベルグソンの「笑いについて」という文章を読んだことがあるが、笑い上戸の自分についての謎を解明したかったからである。何が書かれていたのか、いまは一行も覚えていない。といって、もはや二度と読んでみる気にはならないだろう。いつの間にやら、簡単には笑えなくなってしまったので……。(清水哲男)』(解説より)

「どら焼き」・・調べてみると面白い歴史があります。餡子とカステラ生地の組み合わせで「和洋折衷」の菓子だと勝手に思っておりましたが、何と「和菓子」です。江戸以前まで遡るようです(Wikipedia)。最も今のような形になったのは明治初期のようで『たとえば『たべもの起源事典 日本編』(岡田哲著/筑摩書房)には「明治初期に、東京日本橋大伝馬町の梅花亭の森田清兵衛は、初めて丸形のどら焼きを創作する。銅鑼の形のあんに、薄く衣を付けて皮を焼く。1914年に東京上野黒門町のうさぎやで、編笠焼きが創作され今日のどら焼きができる。網笠焼きより皮を厚くしたのが三笠山である」との記載』(出典はこちら)。ちなみにドラえもんの大好物です。

先日ふと「なぜ人は美味しい物にこれほどまでに情熱を注ぐのだろう?」と自問自答しました。比較の例が不適切かもしれませんが、日本においては仏教やキリスト教をはじめとする宗教における「敬虔なる信者」の方々の数よりも「熱狂的グルメ」の数の方が明らかに多いのではないでしょうか。小生は美味を求めることを否定も批判もしません、むしろ肯定します。「グルメ:美食家・食通」と呼ばれる人々はひょっとすると「美味教」なる宗教的思考回路のもとに東奔西走するのかもしれないと、真面目に考えはじめました。

辞書で引くと『宗教:生きている間の病気や災害などによる苦しみや、死・死後への不安などから逃れたいという願いを叶えてくれる絶対者の存在を信じ、畏敬の念をいだきその教えに従おうとする心の持ちよう』(新明解国語辞典より)とあります。

笑いの原点は「安堵」であると聞きます。大昔、ヒトが食べ物だと思い口にした物が腐っていた・・とっさに吐き出して無事だった・・「やれやれ」と安堵。この「吐き出す」「安堵」の一連の口の動きが「笑い」として発達したそうです(昔、笑い療法士セミナーで習いました)。美味しい物が「死への不安」を払拭するとは言えませんが、「美味しい」と感じた時を刹那的に捉えるならば「生きてて良かった!」と実感できるのではないでしょうか。この時の笑みが「美味笑」です。

以前「食べるために」「食べるために生きる」をアップしました。「人は食べるために生きるんや」の言葉に引っ掛かったからですが、美食を一種の宗教と捉えると「食べるために生きる」もアリだと思います。自分の望む人生を、凝縮して凝縮して一瞬の「美味しい」に投影しているように思えるのです。楽しい人生、幸せな一生を皆望みますが、皆が皆そうなるとは限りません。しかし、美味しいものは食べた瞬間・・「美味しい」「生きてて良かった」とほぼ間違いなく感じることができます。「思う一生」を細切れにし凝縮した瞬間が「美味しい」の一瞬と重ね合わせて、人は笑みをこぼすのではないでしょうか。皆さま、美味しいものを食べて、ご自愛の程ご歯愛の程。4790



三曲目は前回紹介しましたが、あまりにも歯がキレイなもんで!もちろん声も顔も!

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