BBTime 578 珈琲二題

「休むとは流れることねあめんぼう」黒田早苗

2022/6/14投稿
冒頭の句とタイトルは無関係です。句の解説は『口語でなければ表現できない俳句世界はあるだろうか。最近、口語俳句について考える機会があって、口語俳句にこだわっている人々の俳句や五七五にさえなっていれば後は自由という作品などを、まとめて読んでみた。はっきり言って、なかなかよい句は見当たらなかった。なぜ、口語なのか。多くの句が、そのあたりのことを漫然とやり過ごしているように思えたからである。俳句のような短い詩型にあって、たとえば文語である「切れ字」を使用しないで物を言う口語は、かえって口語を不自由に窮屈にしているようだ。そんななかで、掲句は例外的と言ってもよいほどに、口語ならではの世界の現出に成功している。同じ心持ちを文語的に詠めないことはない。』(解説より抜粋)。今回は珈琲(カフェ)について文を書く機会があったのでご披露します。機会についてはこちら

「句読点」  
ウイスキーよりワインを好む。持論だが、嗜好品にはそれぞれの役割がある。ウイスキーは過去へのタイムマシン。10年ものであれば10年前に、30年ものであれば30年前に思いを馳せる。残念ながらその多くは回顧ではなく反省であり後悔、みなほろ苦い。ひとり静かに、バーの棚に目を泳がせながら聞くともなくジャズに耳を貸す・・これが小生のウイスキーの飲み方。かたやワインは今。手にしたワインのエチケットを眺め抜栓する。グラスにトクトクと注ぎ鼻を入れ口に含む。トクトクがワクワクとなり、脳の中で花開く。魅惑的な人と初めて話す時のようなワクワクである。さて、コーヒーはいかに。
 その昔「コーヒーは日常における句読点」とは美美(びみ)のマスターの言葉、言い得て妙。緑茶は読点にしかなれず、紅茶は句点、コーヒーのみが句読点となりうる。朝起きて鉄瓶を火にかけ豆を挽く、湯が沸くと温度計で確かめ、秒を計りながら湯を落とす。湯気の中の薫りを探りカップに口をつける。目覚めの儀式となっている。新聞やネットに目を走らせながら、粗熱が抜けていくとともに変化する薫りと味を楽しむ、至福の時。
 賞状の文章には句読点がない。勝手に解釈するに、賞状の文章は見る文章であり、読むものではないのだ。日常において句読点がなかったらどうなるだろう。昨年のこと、コロナ禍における飲食店時間短縮中、一人暮らしのバーテンダーが店を閉めた。時に二週間、長い時で四週間。日々の会話はコンビニやスーパーでの「ありがとう」くらい、気が滅入ったとのこと。日常における何気ない会話、仕事中の必要な会話、家族とのまさに日常会話。会話がなければ、句読点も必要ない。日常に句読点がなかったらこうなるのかも。
 日々の句読点、これがコーヒー。流されがちな日常に「喝」を入れ、日々是好日を実感させてくれる。一日の流れにメリハリをつけてくれる、リズムを与えてくれる。そして安堵の一杯である。珈琲美美の伝票には「ダルマサンガコロンダすきに 世の中も変わっとる ゆっくり珈琲ば飲んで 元気に起き上がってみんしゃい 何か手があるや呂」と。そんなコーヒーが私は好きだ。

「クラインガルテン」
 このドイツ語をご存じだろうか。直訳すると小さな庭、ドイツにおいて二百年以上の歴史を持つレンタル市民農園で、その多くは集合住宅が集まる都市中心部から離れた郊外にあり、小屋が併設されているものもある。週末になるとドイツ市民は野菜づくりに勤しみながら畑の脇でBBQしたり、小屋でくつろいだりと、実益を兼ねたレジャーとして人気だそうだ。先日、近所の「カフェ」でこの言葉を思い出した。
 「カフェ」とはひと昔前まで喫茶店と呼ばれ、コーヒーそのものでもある。以前、美美(びみ)のマスターから興味深い話を聞いた。もともとコーヒーチェリー(コーヒーの実)の果肉部分を乾燥させた、いわば「干しコーヒーチェリー」が商品であった。それを適量口に入れ、噛んで滲み出る汁を飲み込んではまた噛む、まさにチューイングガムのようなもの。この「干しコーヒーチェリー」をクチャクチャしながらお喋りに興じる、その時のクチャクチャ音がお喋り「チャット」の語源だそうな。さて、ベドウインはその「干しコーヒーチェリー」を商品として交易の旅に出るが、いかんせんカビたり腐ったりする。いつしか果肉に代わってコーヒー豆が主役となり、乾燥豆ゆえより遠くまで流通するようになったとのこと。
 「チャット」とは、今でこそネット上での対話も指すが、もともとおしゃべりである。古来、コーヒーとお喋りは好相性だが、飲みながらの対話はコーヒーが興奮剤であるためか時に討論となり激論化することもあったろう。近代、知識人や文学・美術などさまざまな分野のオタクが集い刺激し合う場としてカフェが存在し重要な役割を果たしてきた。まさにカフェでのチャットが「カルチャ」を生み育ててきたと言えよう。
 「カルチャ」と言えば、そのカフェにはコーヒーの香りに加え文化もかなり匂う。日常的に絵画、絵画的アート、立体造形の展覧があり、壁には日々変貌するアート「花」が生けてある。カウンターにはイータブルアート(食べられるアート)といえるビーガンスイーツが並び、カフェの一角には「坐って半畳」の茶室が不思議な空間を醸し出している。はたまた鉄製十六角柱椅子が片隅に鎮座しており、店主と常連客が太宰治について熱く語っている。時にライブが催されると聞く。カルチャの雰囲気漂うというより、ここでは「文化空気」を吸いながらコーヒーを楽しめる。
 ご存じの通り「カルティベート:耕す・栽培する」がカルチャーの語源である。なるほど「クラインガルテン」を思い出したのも合点がゆく。ここでは様々な文化野菜が植えられ栽培されている。小生のクラインガルテンはここである。そう言えば、カフェの名はカルチベートに似ていたような気がする。

タイトル二題で、音楽は三題。余談ですが、太宰治が山崎富栄と入水したのが昭和二十三年(1948年)六月十三日、発見されたのが十九日。奇しくも十九日は太宰の誕生日でした。皆さま、ご自愛の程ご歯愛の程。

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