BBTime 421 耳うどん

BBTime 421 耳うどん
「パンに耳うどんに腰や冬うらら」千坂希妙

バイアスがかかってました(笑)。毎日新聞朝刊(1/13付)に、この句を見た瞬間「耳うどん」が俳句に詠まれてる!と驚き「パンに 耳うどんに 腰や冬うらら」と読んでしまい何度読んでも「?」意味不明・・前回「うどんの形」をアップしたので頭の中に「耳(から)うどん」が茹で上がっていました。皆様は、お分かりのように「パンに耳 うどんに腰や 冬うらら」です。普通に読めばすんなりと解説文も理解できます。(バイアス:思い込みや偏見)

以下解説より『「パンに耳うどんに腰」がある。では、大根には?答えは「足がある」だろうか。とまれ、こうした言葉遊びを楽しむような、いわば能天気でおだやかな日和、それが季語「冬うらら」』(毎日新聞季語刻々より)。

「大根には足がある」もバイアスがかかっているような気がします(笑)。「首がある」も正解では?(青首大根があるでしょ)。さて「お菓子を食べすぎるとムシ歯になる」・・これもバイアス。他の食べ物でもムシ歯になります、砂糖が僅かでも含まれていればムシ歯になり得るのです。肝心なのは「何を食べてもいいので、食べた後にいかにキレイにするか」。お菓子→甘い→砂糖が多く含有であれば、ムシ歯のリスクは高くなりますが「お菓子の食べ過ぎ=ムシ歯発生」ではありません。

さらに「歯を磨けばムシ歯予防できる」も思い込みです。歯を磨くことはできますが、完全に磨き上げることは、ほぼ無理難題なのです。そのため歯医者の口から「あまりお菓子を食べないように」の一言が出るのです。毎日100%磨き上げるのは無理ですが、乱暴な言い方をすると「一週間で磨き上げる」ことは可能です。歯ブラシのみならず、フロスや歯間ブラシも使ってくださいませ。定期的(せめて3ヶ月に1回)な歯科受診もお勧めします。チョコマカ磨きしやすい「チョコブラシ」もオススメです!2120

BBTime 417 門松の竹

BBTime 417 門松の竹
「まつかれてたけたくひなきあしたかな」作者不詳

ネットで見つけた画像です、よく見ると竹が水平に切ってあります。「寸胴:ずんどう」と呼ばれネット記事には『門松の寸胴は水平に竹が切られている状態のものを指します。こちらの形が実は門松の本来の形状で、そぎの切り方は後ほど現れた形です。元々は寸胴の方が一般的で、江戸時代以前は寸胴でした。江戸時代になっても武家の家では寸胴の門松が飾られたと言われています』(出典はこちら そぎ:斜めにカット)とありました。

では斜めカット(そぎ)の由来は・・結構えぐい話です。冒頭の句の解説に『新年早々、頭の体操です。この句は、どう読んだらよいのでしょうか。時は戦国時代。元亀四年正月。浜松北方の三方ケ原で武田軍との合戦に破れ、浜松城に逃げ帰りシュンとしていた徳川家康のもとに、武田方よりこれみよがしに上掲の句が届けられた(昔の戦さは呑気なところがあった)。読んでみると、「松(松平=徳川)枯れて竹(武田)類なきあしたかな」とあり、要するに、これからは武田の天下なんだぞと書いてあった。家康にしてみれば、結局はこの敗戦が生涯唯一のものになるわけだから、その意気消沈ぶりもすさまじかったに違いない。そんな心境の彼に、句の追い討ちである。まいったなあ。落ち込んでいると、徳川方にも知恵者がいた。「殿、おそれながら……」と、彼は独自の読み方を披露してみせたのである。すなわち、「松枯れで武田首無きあしたかな」と。これで家康も元気になった。で、ここからが本題。いまだに東京などで門松の竹を槍のように尖らせているのは、このときの「武田首無き」という徳川方の解釈に由来している。武田の地元である山梨県や外様大名の支配下にあった土地では、門松の竹は節のところから水平に切り落として飾るのが普通だ。お宅は、どちらでしょうか。(清水哲男)』(解説より)とあります、血生臭い話です。

来週月曜日(1/6)より今年の本格始動の方も多いことでしょう。「口は生きるの1丁目」、「百年一生」の百分の1の2020年今年、ご自愛の程ご歯愛の程!年の始め、エンジン始動にはこの曲を!6100


おまけ:あるラジオ番組でゲストデザイナーが「今年2020は、アヒルが卵を背負って歩いているようだ」と、言い得て妙!ひょっとすると子年ならぬアヒル歳?

BBTime 414 亥年の余禄

BBTime 414 亥年の余禄
「その前に一本つけよ晦日蕎麦」鷹羽狩行

今年も大晦日になりました・・皆様の一年はどのような歳でしたか?句の「その前に」には「名残惜しさ」を含んでいるような気がします。余禄をもって振り返ってみます。イラストの出典はこちら

今朝(12/31)の毎日新聞「余禄」より・・『元号が令和になった2019年。いろはカルタで振り返る。【い】イチロ邁進(まいしん)の野球人生【ろ】ロン待つ黄泉路(よみじ)ヤスがゆく【は】板門店またいではみたが【に】24時間戦えません【ほ】補助金取れんナーレ【へ】ベスト8でにわかファン【と】都知事にバッハの戦慄(せんりつ)【ち】チッ、チケット当たらず【り】輪禍悲痛【ぬ】抜き差しならぬ日韓【る】は客を呼ぶ【を】沖縄の心、国知らず【わ】ワンチームに遠い世界【か】家族差別も根絶へ【よ】世つなぐ京アニ愛【た】台風停電で逐電ちくでん)【れ】令和平安絵巻【そ】ゾゾをヤフーでラインして【つ】ついに撮った漆黒の穴【ね】子年に祈る子の平安【な】なんと、クリステル【ら】来夏よりパリで璃花子の夢【む】無理だ老後2000万【う】宇宙のかなたにタッチダウン【ゐ】いつまデモ香港【の】のれんに腕押し弾劾訴追【お】汚職ドットコム【く】グレた世界に少女の怒り【や】闇トークでやめトーク【ま】毎月勤漏統計【け】契約者なめたらいかんぽ【ふ】文化財切断の言語道断【こ】小判ザメ原発に群がる【え】エリカロシアも薬物で【て】電池で革命ノーベル彰【あ】アフガンの井戸は枯れぬ【さ】の疑枠【き】球速より球児に休息【ゆ】ゆめゆめブレぬジット【め】目黒のサンマも貴重品【み】短い国会長い政権【し】シンゾーにトウモロコシ全部【ゑ】炎上恨めし首里パリ【ひ】ヒナコだけどシブコ【も】文科省の考えぬ力【せ】税上げてポイント甘言【す】の一手【京】教皇の祈り、核なき世界』(毎日新聞「余禄」より)【ん】ん!これはいいぞ「チョコブラシ」。記事リンクは、小生が勝手に選びましたので、ひょっとすると的外れがあるかもです、ご容赦の程。

最後に「いろは」の俳句をご紹介・・「竹馬やいろはにほへとちりぢりに」久保田万太郎 余禄ならぬ余談ですが、過去の「余禄」をリンクしておきます。201220142015201620172018 ということで、今年一年の皆様の「connote.jp」へのご訪問に感謝!皆様、よいお年玉を!4040



BBTime 412 EVE

BBTime 412 EVE
「聖菓切るキリストのこと何も知らず」山口波津女

我が家のシュトレン、ラストピースです。句の解説には『ほとんどの日本人は、この句のようにふるまっている。宗教をムード的にとらえ、聖なる日を娯楽化してしまう国民的規模のセンスとはいかなるものなのであろうか。したたかなのか、単にお調子者なのか。かくいう私ももとより例外ではないけれど、とにかく不思議という以外にはない。小学校の低学年だった昭和二十年代前半には、私も友達もキリストやサンタクロースという名前すら知らなかった。まだあちこちの家には、煙突があった時代である。(清水哲男)』(解説り)。作者の「山口はつじょ」氏は山口誓子の奥様で明治39年(1906)年10月25日生、昭和60年(1985)年6月17日没とのこと。この句がいつの作かはわかりませんが、各家庭から煙突が消えた頃からサンタさんが訪問し出すとは、サンタさんもご苦労な話です。

句にあるように、特に最近日本人は深く考えず、はしゃぐように思えます。来年に向けていろんな場面で「おもてなし」を耳にしますが、相手の文化を理解することも必要な「おもてなし」だと思います。さて、クリスマスは何の日でしょう?

Wikipediaには『クリスマスChristmas)は「キリストのミサ」という意味で、一部の教派が行うイエス・キリストの降誕祭。あくまで誕生を祝う日であって、イエス・キリストの誕生日ではない』(Wikipediaより)とあります。そうなんです、イエス様の誕生日ではなく、イエス様の誕生を祝う日なのです。

これには大まかには二つの理由があるようで、ひとつは「イエス様の誕生日は不明」、もうひとつは初期のキリスト教会による「入会キャンペーン」・・過去ブログに書いておりました「ところで「クリスマスって何の日?」と十人に聞いたらおそらく十人が「イエス様の誕生日」と答えるでしょう。百人に聞いたら1人くらいは「イエス様の誕生日ではないよ」と答える人がいるかもしれません。イエス様の誕生日は不明ですが、西暦354年にローマ主教リーベリウスが「誕生を記念する日」として12月25日に制定したそうです。詳しいことはネットで探すと色々と出てきます、そちらを参考に。」(BBTime 023 為にが駄目に)。詳しくはここを是非お読みください、目から鱗(この言葉も聖書から)ですよ!

今朝(12/24)の朝日新聞朝刊天声人語に『日本文化のありようを「雑種文化」だとしたのは、評論家加藤周一の慧眼である。ここ数年もハロウィーンの広がりなど、雑食ぶりは健在だ。節操なき嫌いはあれど、目も耳も舌も、楽しく味わえるのが増えるこのは悪いことではない。』とありますが・・ね。

最後に「メリークリスマス」を他の言語で。仏語:ジュワイユ ノエル Joyeux Noel !。伊語:ブオン ナターレ Buon Natale !。西語:フェリス ナビダ Feliz Navidad !。1130

BBTime 411 CASE

BBTime 411 case
「自動車のとまりしところ冬の山」高野素十

句の解説に出てくる車はこのような自動車でしょうか。解説には『まだ「クルマ社会」ではなかった頃の句。「自動車」という表現から、そのことが知れる。これは作者が乗っている「自動車」ともとれるし、それなりに句は成立するが、私は乗っていないほうが面白いと感じた。さて、バスやトラックではなくて、いわゆる乗用車が田舎道を走ってくることなどは滅多になかった時代である。走ってくればエンジン音がするし、いやでも「何事だろう」と村中が好奇の目を注ぐことになる。みんなが、どこの家の前でとまるのかと、じいっと眺めている。同じように作者も目で追っていると、点在する人家を遠く離れたところでやっととまった。はて、不思議なこともあるものよ。人の降りてくる気配もないし、なかなか発車もしない。しんと寝静まったような小さな「冬の山」の前に、ぽつんとある一台の黒い「自動車」は奇怪だ。好奇心はいつしか消えて、だんだん光景が寒々しい一枚の絵のように見えてくる。見慣れた自然のなかに、すっと差し込まれた都会的な異物が、ことさらにそう感じさせるのだ。昔の乗用車はたいてい黒色で塗ってあったから、この山がすっかり冠雪しているとなると、ますます寒々しい光景となる。子供の頃、近くを「自動車」が通りかかると、走って追いかけたのが私の世代だ。そんな世代には、懐かしくてふるいつきたいような寒々しさでもある。『雪片』(1952)所収。(清水哲男)』(解説より)。考えてみると名は「自動車」であっても「自動」では走らない。牛や馬、はたまた人に引かれる事なく自力(と言っても燃料は必要)で動くという意味でしょう。今回は前回「SEERS:シアーズ」で触れたケースのダジャレです。車とは無関係の二つのケースの話。

字面通りに読めばcaseの「A:autonomous:自主的な」が自動の意味を持ちます。さて、今回「iPhone8plus」を「iPhone11」に機種変更しました。例によって画面に保護フィルムを貼り、好みのクリアケース(ハード)をつけました。使い始めると11にはホームボタンがないため、画面をなぞる操作が増え・・結局、指の腹がフィルムに引っ掛かるのが不快で、フィルムは外して画面は裸で使っています。

8プラスを初期化してケースを外し下取り返却・・ふと手元に残ったケース(ソフト)を捨てるしかないなぁと思いながらイレブンと遊んでいると・・あらら、ぴったり入るではありませんか。8プラスのソフトケースにハードケース入りイレブンが入れ子のようにすぽっと入りました。携帯時(移動時)は表をソフトケースで覆い、使用時には背面にはめて使ってます。捨てたらゴミ、生かせばケース!

もうひとつはエアポッズ、普通のエアポッズです。何と画像のリコーカプリオの液晶ビューファインダー革ケースがぴったし!これは重宝してます。車とは無関係なケースのお話でした。

おまけ:俳人「高野素十」のwikipediaを読んでみると、東京帝国大学医学部出身で大学教授まで勤めたお医者さん、天は二物も三物も与えたんですね。医者で俳人で大学教授とは、希有なケースでしょうけど。0850


BBTime 401 石榴と勉強

BBTime 401 石榴と勉強
「実ざくろや妻とは別の昔あり」池内友次郎

『石榴(ざくろ)の表記は「柘榴」とも。夫婦して、さて季節物の何かを食べようというときに、必ずと言ってよいほど話題になる食物があるはずだ。「子供のときは家族そろって大好物だった」とか、逆に「こんなもの、食べられるとは思ってなかった」とか。そういうときに、私も作者のような感慨を覚える(ことがある)。石榴の場合は、おそらくは味をめぐっての思い出話だろう。一方が「酸っぱくて……」と言えば、片方が「はじめのうちだけ、あとは甘いんだよ」と言う。石榴を前にすると、いつも同じ話になるというわけだ。ま、それが夫婦という間柄の宿命(?)だろうか。私は「酸っぱくて……」派だけれど、子供のころに野生に近い石榴しか知らなかったせいだと思う。(中略)たしかに「妻とはべつの昔」に生きていたのだ。石榴といえば、とても恐い句があるのをご存じだろうか。「我が味の柘榴に這はす虱かな」という一茶の句。虱は「しらみ」。江戸時代、柘榴は人肉の味に似ていると言われていたそうだ。(清水哲男)』解説より。今回は言葉「ザクロ」と「勉強」について。

画像はアップルウオッチバンドで、色が「pomegranate:ポムグラネット」・・初めて目にした色名なので辞書を引くと「pomegranate=ザクロの木・実」とあり、さらに「たくさんの種をもつリンゴ」の意と書いてあります。確かにpommeはフランス語でリンゴ。

ザクロといえば「紅一点」の紅は、ザクロの花で王安石の「万緑叢中紅一点:ばんりょくそうちゅうこういってん」が出典です。次は「勉強」について。

ブログ「BBTime 399 耳障り」に書いた「私の日本語辞典・生活の中の身近な漢語を考える」に「勉強の使い方」が出てきました。昔のことです・・遠い記憶で弟の勉強机をデパートか家具屋に買いに行ったシーンです。机が決まりこれから支払いという時に親が「勉強してください」と言うではないですか。幼心に「勉強するのは弟なのに・・?」と不思議でなりませんでした。店員さんとのやりとりで「勉強しますよ」「もうちょっと勉強してください」・・。のちに「勉強する」とは「値引きすること」であると知りました・・やっと今回、半世紀ぶりに理由が判明!

本来「勉強」とは「勉めて強いる」こと。言い換えるなら「商売に励む」転じて客側からは「値引きしてもらう」となったようです。そもそも「勉強する=study」の使い方は明治以降のようで、このラジオ(私の日本語辞典)を聴いた後に「ラジオまいにち中国」放送時に合点しました・・番組では「さあ、今日の学習を始めましょう」!「勉強始めましょう」ではありませんでした。面白いことに英和辞典にstudyの古語として「・・しようと努める」とあります。今回のブログは歯科とは無関係・・ボチボチ読みながらダラダラ磨きしてください(唾液のみで)。7420


BBTime 400 ハレとケ

BBTime 400 ハレとケ
「よく晴れて秋刀魚喰ひたくなりにけり」和田耕三郎

学生時代、秋刀魚定食なら此処という店を決めていました。訳は「秋刀魚が大きい」から、注文時に「内臓そのままで切れ目を入れずに焼いてください」も言い添えて。句の解説には『秋刀魚の句というと、たいていはじゅうじゅう焼いている場面のものが多いなかで、こうした句は珍しい。ありそうで、無い。「よく晴れて」天高しの某日、体調もすこぶる良好。むらむらっと秋刀魚が「喰ひたく」なったと言うのである。この句を読んだ途端に、私もむらむらっと来た。句に添えて、作者は「晴れた日は焼いた秋刀魚を、雨の日は煮たものが食べたい」と書いているが、その通りだ。料理にも威勢があって、とくに威勢のよい焼き秋刀魚などは、威勢良く晴れた日に食べるのがいちばん似合う。秋刀魚は昔ながらの七輪で焼くのがベストだけれど、我が家には無いので、仕方なく煙の漏れない魚焼き器で焼いている。これはすこぶる威勢に欠けるから、そう言っては何だけど、どうも今ひとつ美味くないような気がする。食べ物に、気分の問題は大きいのだ。秋刀魚で思い出したが、学生時代の京都にその名も「さんま食堂」という定食屋があった。メニューは、ドンブリ飯に焼いた秋刀魚と味噌汁と漬け物の一種類のみ。一年中、いつ行ってもこれ一つきりで、毎日ではさすがに飽きるが、よく出かけたものだ。旬のこの季節になると、やはり相当待たされるくらいに繁盛していたけれど、あの店はどうなったかしらん。むろん、厨房にはいつも威勢良く煙が上がっていた。』以上解説より。今回は秋刀魚ならぬチキンに絡めて「晴れと褻:ハレとケ」ハレンタッキー、ケンタッキーについて。

ケンタッキーの記事を読みました。「増税後も好調のケンタッキー」「ケンタッキー超復活」「ケンタッキー劇的回復」などです。記事には『「ケンタッキーフライドチキン」が絶好調だ。昨年まで苦戦を強いられていたが、一転して急回復している。店舗経営コンサルタントの佐藤昌司氏は「500円ランチを打ち出し、『ハレの日のごちそう』から『普段使いできる店』にイメージを刷新したことが、業績回復につながった」と分析する――』とのこと。「晴れの日のケンタッキー(ハレンタッキー)」から「褻(け)の日のフライドチキン(まさしくケンタッキー)」への変化戦略には驚きでした。

新明解国語辞典には「晴れ:人前で誇ることのできるような(公式の)機会」「褻・け:(晴れに対して)ふだんの意。改まった場合でないこと」とあります。嘘のようですが歯科臨床で「晴れ」と「腫れ」がかぶることがあります。大昔、ヒトは「晴れる」と狩に出ていました→狩に出ると気分が高揚する→ボルテージが上がる→慢性炎症が急性に転化する→腫れる・・があるようにも聞きました。「歯茎が腫れた・歯が痛い」は誇れることではありませんが非日常です(治療が必要です)。方や歯のお手入れ・予防は「褻:け・普段」です。これから忘年会など何かと「ハレ」が多くありがちな時期、このような時こそ「ケ(普段)」の予防お手入れをお忘れなく。

このブログを書くにあたって十年以上ぶりにフライドチキンを買いに行きました。味を確かめる目的で久しぶりに食べましたが、味は「ハレ」ではなく「ケ」でした・・これもKFCの戦略?さすがケンタッキー。こちらもどうぞ「痩せた?

紹介している動画「目黒のさんま」は大好きな金馬師匠です。庶民から見ると毎回「ハレ食事」の殿様が偶然サンマを食べる・・すなわち「ケの食事」を口にする。毎日「ハレ」のお殿様にとっては庶民の「ケ」がハレに思える・・やはり日頃は「ケ」がよろしいかと!7140



ふと気がつけば・・BBTime 400 でした。祝!400号。

BBTime 399 耳障り!

BBTime 399 耳障り!
「目刺焼くラジオが喋る皆ひとごと」波多野爽波

句を見て「季語は?」と読み返し「目刺が春だ」と・・Wikipediaには『目刺(目刺し、めざし)は、干物の一種。カタクチイワシウルメイワシなどのイワシ類の小魚を塩漬けした後、目から下あごへ竹串やワラを通して数匹ずつ束ね、乾燥させたもの。通常はそのままではなく、焼いて食べる。また「目刺」は季語のひとつでもある。九州、特に大分県宮崎県においては、しばしば唐人干(とうじんぼし)と呼ばれる。日本の創作文化等においては、「貧しい食卓」の象徴として、「目刺一匹のみが白米のおかず」という演出が多くなされる。』とあります。小生、宮崎生まれですが「唐人干」を耳にしたことはありません。今回「耳障りなラジオ」のお話。

健康ライフ・・テレビを所有しないため覚醒時はラジオが常時オンです。多くは「NHKラジオ第2放送」を聴いていますが、就寝前や朝、ニュースなどは「第1放送」です。ここ数年徐々に「耳障り」が増えて不機嫌になることしばしばでしたが、数ヶ月前からの極め付けが「ポワン」の効果音なんです。平日(月から金)の朝5時半過ぎに「健康ライフ」が流れます。週ごとにテーマ(病気や臓器)を決めての病気や予防、健康に関する情報番組で毎回8分くらい5回連続のコーナーで、非常にためになるため欠かさず聴いておりましたが、最近「ポワン」「ピピン」などの効果音が挟まれます。まとめやポイントを言う直前に入ります、意図はわからんでもないのですが小生には非常に耳障りで、一瞬の効果音によってそれまでの思考が乱され不愉快になります。ここ数週間、番組から遠ざかっています。

英語の番組・・ついでに言わせてもらうと、以前から耳障りだったのは(笑)基礎英語のみならず多くの英語番組の中の日本語が貧弱なこと!勿論英語は正しいのですが、訳としての日本語がお粗末です。典型が「お父さん・お母さん」・・「私の父は教師です」「母は自宅に居ます」などは全て「私のお父さん・私のお母さん」。親は「きちんとした敬語が使えないと育ちが知れる」と言っておりました。「私の父」「私の母」を使って欲しいと思うのですが。実は番組のなかで結構おじんギャグが飛び出します(笑・もっとも日本人男性講師担当番組に限り)・・個人的には大歓迎。先日は「言うは易く行うは難し=It is easier said than done.」にからめて・・「横山はやすし、西川はきよし」!!聴いた瞬間、目がテンでしたが小生にはウケました。・・返歌「言うは恥ずかし、言った後はもっと恥ずかし」。

子ども科学電話相談・・夏休み・冬休みに関係なく今では毎週日曜日にあるようです。この「子ども科学電話相談」での「次のお友達は」の表現です。なぜ「次の質問者」とか「質問する人は」と言わないのでしょう。なぜ友達でも知り合いでもないのに「友達」と言うのでしょうか?子ども向けの番組であるからこそ、英語番組も同様ですが教育番組であるからこそ、より正しい日本語をNHKには使って欲しいのですがね。

朝に限らず夜の番組でも、アナウンサーやキャスターが妙に燥ぐ(はしゃぐ)ようになりました。感情不要とは言いませんが、意味のないハシャギや時に幼児語のような言い方(トーン)など小生にとっては耳障りなんです。

ニュースの内容(原稿)も然り・・。折々に農産物の収穫についてのニュースが流れます。聴く前からニュースの筋書きが読めます。「夏に長雨だったがその後晴れが続いて、例年よりも小振りだけど甘みが強い」のように、いつもと違ってマイナスなことがあったけど結果は大丈夫!のような筋書き。農産物に限らず様々なイベントでも同様です。原稿の雛形があって「数字=月日や量」と「地名や氏名」などを入れ替えただけのようなニュース・・リアル感が薄いのです。

一方で毎回欠かさず聴いているのが「私の日本語辞典」。ゲスト毎に様々な視点で、日本語を見たり深めたりとそれはそれは興味深い内容です。進行役の秋山和平アナウンサーの日本語に対する情熱にはほとほと感心させられます。より正しい日本語とは? より品のある日本語とは? 日本語の持つ多様性とは?等々、毎回日本語とはいかなるものかを再認識させられます。「歩く日本語辞典」の面々がNHKには多くいらっしゃるのに、先に勝手に述べたような「耳障り」を指摘されないのでしょうかね。民法と違って「NHKの日本語」はより正しく、より品があり、日本語の拠り所だと思うのは今や過去なのでしょうか。

ウドンが短くなりました。ノイズキャンセリング搭載です。近い将来、ノイズキャンセリングではなく「耳障りキャンセリング」搭載モデルが出ないでしょうか・・期待します。最後に句の解説を御紹介『私のようなラジオマンからすれば、句の中身は「ひとごと」じゃない(笑)。それはともかく、ラジオをつけっぱなしにして目刺しを焼いている作者は、少々ムシの居所が悪いと見た。どうせラジオは「ひとごと」ばかり喋(しゃべ)っているのだから、自分には関係はないのだから、いま大事なのは「ひとごと」じゃない目刺しのほうである。こちらに集中しなければ……。と思いつつも、少しはまたラジオを聞いてしまう。そしてまた「ひとごと」放送に腹を立て、またまた目刺しに集中する。そのうちに、しかし目刺しもラジオも「皆ひとごと」に思えてきてしまう。そんな図だろうか。目刺しは、あれで焼き方が難しい。黒焦げになったり生焼きになったりするから、これはもうしょっちゅう焼いている酒場のおばさんなどにはかなわないのである。ラジオをつけていてもいなくても、うまく焼けないので苛々する。そこで「みんなラジオが悪いのよ」と言いたくもなる作者の気持ちは、わからぬでもない。いや、よくわかる。ところで「ひとごと」は漢字で「他人事」と書く。最近のラジオやテレビでは、これを平気で「たにんごと」と読むアナウンサーやタレントがいるが、あれは何とかならないものか。「ひとごと」ながら、恥ずかしいかぎりである。『鋪道の花』(1956)所収。(清水哲男)』・・ラジオからの耳障りを所詮「他人事:ひとごと」とスルーできないカルノでした。
先日から「note」始めました。5890


BBTime 396 残るサイド

BBTime 396 残るサイド
「一線を越えて凍る尾觝骨」春海敦子

終わりました・・。画像はご記憶にあるように準決勝開始前のNZチームの「ハカ」に対してイングランドがとった奇襲作戦です。イングランド選手がハーフウェイライン(中央線)を越えたため、後日罰金約35万円が科せられました。この時は「なるほど、さすがイングランド」「何もせずにハカを見ないとは流石」と肯定的に受け取りました、勝つことへの執念を感じました。一線(ハーフウェイライン)を越えたことは頂けませんが。

イングランドは決勝で南アフリカに負け銀メダル(準優勝)。ところが今度はメダル拒否!これはダメです。ラグビー発祥地のナショナルチームがこの態度はダメでしょう。小生が学生の頃、耳にしていたのが(不適切な表現ですが・サッカー関係者には失礼と思いますが)サッカーは「野蛮(人)の紳士的スポーツ→だから手を使わない」で、ラグビーは「紳士の野蛮的なスポーツ→だから手を使って良い(何をしても良い)」と。ラグビーにおいては、あくまでも「ベースは紳士である」と。

心中はわかりませんがイングランドの行動を見る限り「ノーサイド」はなかったことになります。ラグビーを愛する者として起源のイングランドにはポイント(点数)のみならずスピリット(精神)も追い求めて欲しいと思います。試合終了後のオブストラクションの反則でペナルティですよ、これは。

一時期、日本の柔道が低迷した時に、理由として日本選手は「一本勝ち」にこだわるが、外国選手(日本以外)は「勝ち」にこだわる。柔道がポイント制の今、いわばセコイ手であってもポイント稼いだ方が勝つ・・しかし現在、日本柔道は盛り返しました。黒帯の小生としてはポイント重視は否定しませんが「道」と名乗るからには「一本勝ち」にこだわって欲しいのが本音です。

対照的に「美しい勝利」が南アフリカです。黒人初のキャプテンの元「ワンチーム」で堂々たる勝利。やはりラグビーの神は見ていたのです。ネルソン・マンデラ氏が御存命なら滂沱の涙だったことでしょう。国際的には「ノーサイド」よりも「フルタイム」の方が一般的のようですが、ノーサイド精神なくしてラグビーを語りたくはありません。次のW杯まではイングランドではなく南アフリカを聖地としましょう!

最後に冒頭の句の解説を紹介します、意味深です。『凍るは「こごえる」と読ませるのだろう。うーむ、丸ハダカか。「一線を越えて」という古風な言いまわしが、かえって生々しい。行為の直後のことを詠んだ句も珍しい。この人、鋭い感受性を持ってるし、素直でいい性格もしてるだろうな。でも、お友だちにはなれない気がする。この句を読むかぎりでは、まったく詩的なセンスが合わないからだ。とはいえ、かなり凄い句ですよ。ユーモラスだが、下品に落ちていないところが……。無季と読みたい』(解説より)。今回、イングランドの行動が自らの品を落としたことは確かです。0200



おまけ:イングランドのペナルティにレフリーから「喝!」





「BBTime 393 ノーサイド」もどうぞ!

BBTime 394 南瓜大王

BBTime 394 南瓜大王
「日あたりや熟柿の如き心地あり」夏目漱石

熟柿:じゅくし 小生大好きです、スプーンで食べます。この時期至る所で目にするのが熟柿色の南瓜・・ハロウインの南瓜です。正確には柿色のハロウインの南瓜を英語で「パンプキン」、全くの別物である日本南瓜は「スクワッシュ:Squash」と言います。パンプキンとスクワッシュの違いについてはこちらをどうぞ。

ここ数年、小生にとって戸惑い・違和感を通り越して嫌悪感を抱きつつあるのが「日本のハロウイン」です。なぜあそこまで仮装して大騒ぎをするのでしょう?他人に迷惑かけなければ悪くないとは思いますが、コンビニによっては店員までもハロウイン仕様の格好をさせられたりしてます。どう考えても「やりすぎでしょ!」日本だから・・と言えばそれまでですが、来月のボジョレーヌーボーも然り、再来月十二月のクリスマスも同様、ついでにバレンタイデーもそうです。

来年のオリンピックに向けて様々な場面で「おもてなし」の言葉を耳にします。NHKラジオ外国語番組にも「おもてなし」がついている言語があります。そこまで「おもてなし(相手に敬意をもって接する)」を声高に言うのであれば、是非「起こり・起源」を多少なりとも理解した上での日本人なりの「あなたなりの」行事として欲しいと切に思います。西洋の行事(日本以外の行事)に敬意を払う意味で、ある程度はその行事の意味を知るべきだと個人的には思います。

小生が初めてハロウインを知ったのは小学生の頃、漫画スヌーピーでした。毎年10月31日夜にライナスはカボチャ畑でカボチャ大王を待ちます・・カボチャ大王とはいわばサンタさんのような存在のようです。ハロウインとは元はケルト人のお祭りが起源で、オリジナルはカボチャではなく「カブ」でした。ハロウインがアメリカに伝わるとこの時期身近にある収穫されたカボチャ(パンプキン)がカブに取って代わったようです。詳しくはこちらをどうぞ。お時間ある方は「BBTime019 歯ロウイン」「BBTime177 チガウノヨ!」もお読みください。

ハロウインとは『毎年10月31日に行われる、古代ケルト人が起源と考えられているのこと。もともとは収穫を祝い、悪霊などを追い出す宗教的な意味合いのある行事であったが、現代では特にアメリカ合衆国民間行事として定着し、祝祭本来の宗教的な意味合いはほとんどなくなっている』(Wikipediaより)。

ボジョレーヌーボーとは『毎年11月第3木曜日(日付が変わった午前0時)に解禁される、特産品の新酒をボジョレー・ヌヴォー (Beaujolais nouveau) という。以前はその年のブドウの出来栄えをチェックすることを主な目的としたもので、ワイン業者が主な顧客であったが、その後、解禁日をイベントとして、新酒として大々的に売る販売戦略や販売手法が確立され、現在はフランスでも、日本と同じ目的で一般の消費者向けに売られている』(Wikipediaより)。

クリスマスとはキリストの誕生日ではなく(誕生日は不明)「キリストの誕生を祝う日」です。『クリスマスChristmas)は「キリストのミサ」という意味で、一部の教派イエス・キリストの誕生を祝う祭であり、降誕祭ともいう。あくまで誕生を祝う日であって、イエス・キリストの誕生日ではない』(Wikipediaより)。

バレンタインデーは『ローマ帝国皇帝・クラウディウス2世は、愛する人を故郷に残した兵士がいると士気が下がるという理由で、兵士たちの婚姻を禁止したと言われている。キリスト教の司祭だったウァレンティヌス(バレンタイン)は、婚姻を禁止されて嘆き悲しむ兵士たちを憐れみ、彼らのために内緒で結婚式を行っていたが、やがてその噂が皇帝の耳に入り、怒った皇帝は二度とそのような行為をしないようウァレンティヌスに命令した。しかし、ウァレンティヌスは毅然として皇帝の命令に屈しなかったため、最終的に彼は処刑されたとされる。彼の処刑の日は、ユーノーの祭日であり、ルペルカリア祭の前日である2月14日があえて選ばれた。ウァレンティヌスはルペルカリア祭に捧げる生贄とされたという。このためキリスト教徒にとっても、この日は祭日となり、恋人たちの日となったというのが一般論である』(Wikipediaより)。

最後に句の解説をご紹介『不惑などという年令は、とっくのとうに過ぎてしまったのに、いまだに惑ってばかりいる。句のような心地には、ならない。いや、ついになれないだろうと言うべきか。このとき、漱石は弱冠二十九歳。あたたかい日のなかの熟柿は美しく充実して、やがて枝を離れて落下する自分を予知しているようだ。焦るでもなく慌てるでもなく、自然の摂理に身をまかせている。そんな心地に、まだ若い男がなったというのだから、私には驚きである。ここでは、みずからの充実の果ての死が、これ以上ないほどに、おだやかに予感されている。人生五十年時代の二十九歳とは、こんなにも大人だったのか。「それに比べて、いまどきの若い者は……」と野暮を言う資格など、私にはない。西暦2000年まであと二ヶ月。一年少々で、二十世紀もおしまいだ。「二十一世紀まで生きられるかなあ。無理だろうなあ」。小学生のころ、友だちと話したことを、いまさらのように思い出す。切実に死を思ったのは小学生と中学生時代だけで、以後は生きることばかりにあくせくしてきたようである』(解説より)。不惑=四十歳 7530