「白菜やところどころに人の恩」阿部完市
2025/01/20大寒投稿
あっという間に今月も十日余り。句の解説は『なんだろうね、これは。どういう意味なのか。阿部完市の句には、いつもそんな疑問がつきまとう。でも、疑問があるからといって、答えが用意されているような句だとも思えない。そういうことは、読み下しているうちにすぐにわかる。そのあたりが、好きな人にはこたえられない阿部句の魅力となっている。この白菜にしたところで、どんな状態の白菜なのか。作者は何も説明しようとはしていない。要するに、単なる「白菜」なのだ。「人の恩」についても同断である。そこで妙なことを言うが、この句の面白さは「ねえねえ、白菜ってさァ、見てるとさァ、だんだんこんな感じになってくるじゃんよぉ……」という女子高生みたいな口調の感想に集約するしかない、そんなところにあるのだと思う。白菜か白菜畑か、見ているうちに作者はふと「人の恩」というものに、たしかに白菜に触発された格好で思い当たったのだ。その確かさを、直裁に読者に伝えようとしている。同じ冬の野菜でも、対象が大根や人参であったとしたら、たぶん「人の恩」には行きつかなかっただろう。……などなどと、読者に数々の素朴な疑問を生じさせておいては、結果的には句のようであるとしか思わせない説得力が、一貫して阿部句の方法の中核にはある。『阿部完市全句集』(1984)所収。(清水哲男)』(引用元)。今回は断捨離の真髄について。
南洲寺住職「焔恵和尚」筆(えんけい和尚、鹿児島市)。毎年干支色紙を描かれます。私ごとながら昨年夏引っ越しました。その際勘弁してと言いたいくらいの「断捨離」・・ふと思いました。断捨離とは「捨てる」ことではなく「絞り込むこと」「集中すること」言い換えれば「夢中になること」一言で言えば「純化:じゅんか」であると。純化の過程で当然ながら「断つ」「捨てる」「離れる」など行います。和尚の解説を読んで意を強くしました。
「何かひとつ夢中になる」・・まさにこれぞ断捨離の極意・真髄でしょう。先日、博多西中洲で大学時代の友人と飲みました。お互い還暦を過ぎた今、異口同音に「これからはやりたいことをやる!」時に「坐禅の時は煩悩を捨てよ」などと耳にします。実際に坐って「頭の中を空(から)」にすることは至難の業で、ひとつのことだけを集中して深く深く考えることの方が可能です・・これも純化
今の世、あまりにも「モノやコトや情報」が溢れ返っています。小生は二十歳過ぎた頃、テレビ捨てました。八年ほど前に車を手放しました。テレビ捨ててラジオを拾い、車を手放して歩きを手にしました。次に捨てるものは?手放すものは?行動規範を「純化」に照らし合わせれば答えは自ずと出るでしょう。では皆さま、ご自愛の程ご自愛の程。