BBTime 217 物忘れ

BBTime 217 物忘れ
「もの忘れするたび仰ぐ春の山」黛 執

前回「思い出す」について書いた後、ふと目についた言葉がありましたので御紹介。朝日新聞第一面連載「折々のことば」から

「忘却の強制である「忘れなさい」と忘却の欲求である「忘れたい」とが協力して多くのことが忘れられた。西川祐子」2017/12/7

「年を取ると人生って言葉自体がだんだんどうでもよくなるから、役に立つも立たないも死んでしまえば皆同じって心境になります。安田登」2017/12/4
極端な言い方かもしれませんが「思い出せない」の9割は「忘れてもさほど人生には影響しないこと」だと思います。受験生諸君はそうはいきませんが・・。

時に釜爺のように手がたくさんあればと思うこともありますが、増えたら増えたでこれまた足りなくなるのでしょうね。やはり手は二本、足は二本が良いのでは?同じく頭の単語帳は人それぞれでしょうが、千も万もではなく百なら百で実は事足りるのではないかと思います。通勤鞄をひと回り大きくすればそれなりにカバンの中身は増えます。ひと回り小さくすればそれなりに少なくできます(経験談)!

「捨てるという仕方をつうじて学ぶ事柄は、実はとても多い。河本英夫」2017/12/15
やはり人には断捨離が必要なんでしょう。ヒトは天邪鬼(あまのじゃく)です、客観的に観て必要なことはやらず(できず)必要なことは忘れてしまう。しかし・・スマホがここまで進化してくるとふと思います。世界の全てが雲の上(クラウド)という無限の物置に収納可能な今、雲の上から引き出す術(すべ)さえ忘れなければ・・。近いうちに「忘却の彼方」から「忘却は彼方」に・・ただし歯磨きはお忘れなく!8190
https://youtu.be/aXjdMV7SOfE

BBTime 216 ショーシャンクとお婆さん

BBTime 216 ショーシャンクとお婆さん
「この部屋に何用だつけ春の昼」渡辺善夫

大好きな句で春ならずとも(忘れずに)思い出します。「しもが心当りのある体験だろう。老化現象ではないかという人もいるが、どうであろうか。だとすれば、私には小学生の頃から、よくこういうことが起きたので、物忘れに関しては天才的に早熟だった(笑)ことになる。何をしにこの部屋に来たのか。忘れてしまったときの対策は、私の場合、ひとつしかない。もう一度、元いた場所に戻ってみることである。双六の振り出しに戻るようにしてみると、たいがい思いだすことができる」解説より

前々回「命の糧」で文七元結をご紹介した手前改めて聴き直しました。噺の終盤に「忘れていたことを思い出させる」場面(55分頃)があります。番頭さんが文七に「順々に思い出してみろ・・(58分頃)」と。今回は前回「いのちのかて」でアップした「Ink Spots – If I Didn’t Care」を聴きながらふと思い出したと言うかたどり着いた曲についてのお話、歯科とは無関係ですがシカ!とお読みください。
この映画、ご覧になった方も多いと思います、邦題「ショーシャンクの空に」です。小生この映画大好きで先日久しぶりにDVDで観ました。その時に気になった曲が「If I didn’t care(私が気にしなかったら)」です。いつかどこかで聞いたことのある曲だなあと思いつつ・・。番頭さんのアドバイスよろしく順々に辿ってこの度見事たどり着きました!

それは古今亭今輔師匠の落語「青空お婆さん」でした。ところがナント落語の挿入歌は別の曲!落語に出て来る(21分頃)曲は邦題「私の青空」原題「My Blue Heaven」で「If i didn’t care」ではなかったのです。歌い出しのメロディが瓜二つ、驚き桃の木山椒の木でした。ちなみにMy Blue Heavenの方が古く(1927年と1939年)、オリジナルの歌い出しは前奏がついており有名なフレーズは途中からです。

冒頭の画像は「百味箪笥」。記憶というか脳の仕組みはこの百味箪笥のようだとも聞きました。なかなか思い出せないのは、忘れたのではなく仕舞い込んでしまって、どの引き出しかわからない状態のようです。すぐに引き出すために、小生の考えでは
1)いつも引き出してどの引き出しかを体で覚える、自分の名前などはこれです(すぐに引き出しやすいところにその引き出しを置く)。2)関連づけて覚える、引き出しに目印をつける(四桁の数字→誕生年・誕生日・車の番号など)。3)引き出しの数を減らして百味箪笥ではなく十味箪笥にする(余計なことは忘れる、捨て去る)。

「最近は、それでも思いだせないときもままあるが、この場合はやはり老化現象かもしれない。でも、何かを忘れてしまうことも、たまには必要だ。というよりも、人間は常に何かを忘れつづけていないと生きていけない動物ではあるまいか。誰が言ったのか、それこそ忘れたけれど、ニワトリは三歩歩くと何もかも忘れてしまうのだそうだ。時々、ニワトリになりたくなる」(解説より)同感です!忘れたいことがあれば鳥の唐揚げを食べましょう。

蛇足です、映画の原題は「The Shawshank Redemption」です。公開時にこの映画を観て数年以上経ってから原題を知り、意味を調べました。レデンプションとは「買い戻し、質受け、償還、身請け、救済、(キリストによる)(罪の)贖(あがな)い、救い、(約束・義務などの)履行、補償」などの意味があります。また金融用語でもあるようで、主人公は銀行マン。これを知った時に少なからず後悔しました。以来、映画を見る前には必ず原題と意味をチェックします。6555



https://youtu.be/gqMl4-aETzA
ふたつの聴き比べをどうぞ

 

BBTime 215 いのちのかて

BBTime 215 いのちのかて
「はなはみないのちのかてとなりにけり」森アキ子

前回と同じ句ですが御容赦を。拙ブログでも度々ご紹介していますがラジオはスゴイです。「麝香間祗候、金鶏間祗候、龍宮乙姫元結切り外し」も「健康ライフ」にしてもラジオからです。特に「健康ライフ」はためになります、糧になります。「聞き逃し」で今日現在(3/22)聞けるものだけでも尿・腸・心・血栓と多岐にわたり体の隅々まで痒い所に手が届く内容です。

ロシア語講座もほぼ毎日ラジオから流れてきます。興味ない人には「?」の番組ですが健康ライフは老若男女に関する話です。体の取扱説明書のような内容ですし、まさしく聴く薬です。朝5:36頃からの放送ですので枕元にラジオを置いて目覚ましがわりにオススメします。

とはいえ、あなたの人生あってこその糧だと思います。桜が咲いても、良い情報が流れても、医療が進んでも結局は受取手(あなた)あっての花や情報であり、ヒトあっての糧です。興味ない人・必要ない人にとってロシア語がチンプンカンプンであるのと同様、健康を求めない人にとっては価値ある糧も雑音に過ぎないでしょう。

折々のことばにあるように音楽も同じです。オススメします!健康ライフと落語は「いのちのかて」となります。もちろん音楽も、ついでにBBTimeも!5700
「話しみないのちのかてとなりにけり」カルノ



枝雀師匠の「山のあなた」はこちらでもあちらでも。

BBTime 206 これでいいのだ!

BBTime 206 これでいいのだ!
「時刻表レレレレレレレ春嵐」渡辺テル

「レレレ」と聞くとやはりレレレのおじさんです!「お出かけですかぁレレレのレー」。句の「レレレ」は何?と思いきや解説によると「通過駅」の「レ」でした。

インスタグラムで「これでいいのだ!」腕時計を見つけました。一本針(one hand)腕時計で、24時間(一日)で文字盤を一回りするタイプと12時間(半日)で一回りする2タイプあり。他にもネットで見ると「時」は数字で分針のみの時計もありますが、この「slow」という腕時計は「時針」のみで分秒は全くなし。画像見ながらこれでもいいのだ!と共感しきり。

紹介動画には次のような言葉が出てきます。
Can a watch change your life?  24hours  One hand   It reminds you to stop chasing minutes and live for the moment. Be slow. 意訳すると「狭い日本そんなに急いでどこに行く。短い人生、時刻に追われるのではなくマイペース」でしょうか。

NHKラジオ第二の聞き逃しで「時間栄養学が開く健康の扉」を聴いています。体内時計・脳内時計のみならず個々の細胞にも細胞内時計があるそうで、言わば生き物の体は機械式時計のように、心臓部(脳・親時計)がきちんと動くとともに連動する個々の小さな歯車(抹消・子時計)もしっかり回らないと不具合が起こるそうです。具体的には不眠、肥満、病気等々。3/13まで聴けます、是非。

ただしマイペースは良くないとのこと、理由は明解!「地球の自転で一日は24時間となっているけど、体内時計の一日は24時間15分から24時間30分」この体内時計(脳内時計)のズレ(15-30分)を補正するために小さな歯車である細胞内時計を刺激する(例:朝ごはんを食べる)必要があるとのことでした。

「ヒトは体内で起きていることを行為として行う」が持論です。この論によれば腕時計は正確無比の電波時計よりも少し遅れる自動巻や機械式時計の方が良さそう(ヒトらしい・人に合ってそう)ですかね。9400
今回の一言「日に一回は時計を合わせましょう」
今回の一曲「time」



おまけ:BBTime 033 それでいいのだ!

BBTime198 錯覚

BBTime198 錯覚
「雪の朝二の字二の字の下駄のあと」田 捨女

先日の今年初冠雪の桜島です。この句はおおよそ380年前1639年頃に詠まれたそうで、驚くことに作者(田ステ)六歳。彼女は芭蕉より11歳年上で交流があったそうです。今時(平成30年)雪の朝に下駄で歩く人はいませんが、彼女の見たであろう光景は容易にイメージできます。また俳句には「五七五」のリズムがあります。この句はさらに「の」が5回も繰り返し使われており、一度聞いたら忘れないテンポを醸し出しています。五文字の「の」、三分の一が「の」です。句をジッと見ていて与謝蕪村の「菜の花や月は東へ日は西へ」(1774年旧暦2/15)を連想しました。これは漢字と平仮名が交互に使われています。「雪の朝二の字二の字の足の跡」としなかったところが捨女の非凡さでしょうね。連想というより錯覚についての一言。追加:ネットで調べてみると「下駄の跡」の表記も見られます。いずれにせよ、当時六歳の女性が詠んだ俳句がきちんと残ったということが驚きであり、「名句」であることの証明でしょうね。

年末からNHKラジオ聞き逃し番組「人間を考える より良く生きる」第1回花園大学教授仏教学者:佐々木閑氏の話を繰り返し聴いています。そこに出てくる言葉が「六根」と「錯覚」です。六根とは「根(視覚):目」「根(聴覚):耳」「根(嗅覚):鼻」「舌根味覚):舌」「根(触覚):皮膚」「意根(意識):脳」です。人はこの六根を使って生きているが、錯覚する生き物であるとのこと。

二つの赤丸はどう見ても左が大きく見えますが、物差しで測ってみると同じなんです。講演では錯覚を錯覚と知った上で生きるのか、錯覚を事実のように受け止めて生きるのでは大きく違ってくると言うわけです。話の中では視覚のみならず他の五根も同じく錯覚を起こすとのこと。以前話題になった「プリン+醤油=雲丹」は味覚の錯覚。いろはすの味付き砂糖入り水は嗅覚・味覚の錯覚等々。

丸の絵は物差しで測ることで錯覚と知ることができます。問題なのは個人個人で錯覚と確認できない錯覚とのこと。先日も「缶コーヒームシ歯」の人(20代男性)を発見!ムシ歯のでき方が尋常ではないので「缶コーヒー飲んでますか?」とお聞きしたところ「はい、仕事中に飲んでます」。これも錯覚!前々回「病気」も錯覚。御本人は体に良かれ、心に良かれと錯覚して缶コーヒー飲んだり、ゲームをしたり。講演では本人が確認できない錯覚を解くのは難しいと話が続きます。宗教とは人々の苦しみを少しでも軽減し、より良い生き方に導くのが宗教とのこと。

小生は毎朝、保温機能なしのマイボトルにお茶か紅茶持参です。缶コーヒームシ歯の方には次のようにアドバイスしました。「缶コーヒーをキッパリやめるか」「缶コーヒー飲んだ後に歯磨きは無理でしょうから、せめて水やお茶でうがいだけでも」「ブラック、無糖、甘さ控えめなどの表示はイコール砂糖ゼロとは言えないものもあるので要注意」「表示も炭水化物と記載してある」等々。

「二の字二の字」から「下駄のあと」を連想可能ですが、大人の方でも実際の光景(下駄のあと)を見た人はどれくらいいらっしゃるでしょうか?連想と錯覚は紙一重だと思います。仏教において五感(五根)に六根目(心・脳)を加えているのは大正解です。余談ですが、「どっこいしょ」の語源が六根清浄だとも言われています。3430
今回の一言「錯覚は錯覚と知るべし」
今回の一曲「イメージ」

下駄とくれば、やはりこの歌でしょう。
https://youtu.be/2va2GuF3Uig
ムッシュかまやつ氏は昨年鬼籍に入られました(2017.3.1享年78歳)。なんと次の歌もこの人でした。はじめ人間ギャートルズのエンディング曲。


ラストは「足の跡」です。
ムッシュかまやつ氏の言葉を見つけました。折々のことば 2017/10/22朝日新聞朝刊
910「自分のデッドラインさえ超えていれば、デカイ顔をしていられるのだ。ムッシュかまやつ」「プライドを捨てず、自然体でいられるギリギリのラインを設定して、それより下にはいかない」と決めてしまえば、気後れすることなく生きてゆけると、元ザ・スパイダースの歌手は言う。しかもその線はできるだけ低めにと。世間に合わせず自分の波長はこれだと決めると、自分の感性を傷めずに「とぼけた顔して」生きてゆける。音楽と交遊をめぐる自伝『ムッシュ!』から。(鷲田清一)折々のことば

BBTime196 病気

BBTime196 病気
「竹馬やいろはにほへとちりぢりに」久保田万太郎

竹馬」が冬の季語とは知りませんでした。記事(俳句一口講座)には「どの季節にも遊べそうな気がしますが、冬の季語になっています。もともとは川を渡るときや降雪の際に使われる生活用具だったそうで、そんなところから冬のものという意識が定着したのではないでしょうか」とあります。同じく「竹馬」がアマゾンなどで売られているのも驚きでした。もっとも竹製ではありませんがね。

年明け早々気になる記事を見つけました。「ゲームのやり過ぎで日常生活に支障をきたす症状、WHOが疾病分類へ」との見出し。端的に言うと新たに「ゲーム病・ゲーム症」を定義し、診断されれば患者として治療が必要であるとのこと。

いやはや・・です。小生とコンピュータゲームの出会いは高校時代、喫茶店設置型のインベーダーゲームでした。当時ワンコイン(百円)で1回。鹿児島の公立高校でしたので即禁止。学校近くの喫茶店で密かに興じていると「そげん面白かや(そんなに面白いのか)?」との声。横を見ると補導係の先生、瞬間凍りつき敢え無くゲームオーバー・・その後マリオ登場です。

「遊びを遊ぶ 安田武」 凧(たこ)あげ、蝉(せみ)とり、竹馬、お手玉、綾(あや)とり、花いちもんめ。すっかり見かけなくなった昔の児戯には二つの特徴があった。自然を相手に「ゆっくりと、のびやかに」遊ぶこと。勝ち負けを競うものではないこと。遊びは「合理性を拒否する」ものなのに、余暇として計画したりすれば、遊びを再び合理性の中に閉じ込めることになると、評論家が一昔前警(いまし)めていた。『遊びの論』から。2017.9.10 (鷲田清一「折々のことば」/朝日新聞連載)
本来、大人にとっても子供にとっても「遊び」とは楽しむもの癒すもの育むもの。逆に蝕むものならそれは遊びではなく毒や害です。9900

かたや、このような記事も。
「スイッチ、1家に1台?1人1台? 任天堂社長一問一答」揶揄(やゆ)するならば「一家に一害、一人一毒」です。自己責任ではなくゲーム機そのものに「時間制限自動ロック」が付いているば別ですが。人が創り出したもので病気になるとすれば妙な話です。「癒し・楽しみ」と「害・中毒」は紙一重。食べ過ぎると太ります、飲みすぎると酔っ払いますが、ゲームは少々異なります。太らないし、酔わないし、さほどお金を使い過ぎるでもなし。だからこそ恐いのではないでしょうか?所詮ゲームでありエンターテイメントであるべきものが「毒」になるとは・・トホホ。

https://youtu.be/mnipB_8Br8U