BBTime 629 一膳九皿

「九月来箸をつかんでまた生きる」橋本多佳子

2023/08/27投稿 8/28加筆
今週末は九月ですが気温は真夏のまま。句の解説は『多佳子は生来の病弱で、とくに夏の暑さには弱かったという。したがって、秋到来の九月は待ちかねた月であった。涼しくなれば、食欲もわいてくる。「さあ、また元気に生きぬくぞ」の気概に溢れた句だ。それにしても「箸をつかんで」は、女性の表現としては荒々しい。気性の激しさが、飛んで出ている。なにしろこの人には、有名な「雪はげし抱かれて息のつまりしこと」がある。この句を得たのは五十一歳。「箸をつかんで」くらいは、へっちゃらだったろう。しかも、この荒々しさには少しも嫌みがなく、読者もまた作者とともに、九月が来たことに嬉しさを覚えてしまうのである。九月来の句には感傷に流れるものが多いなかで、この句は断然異彩を放っている。ちなみに、若き日の多佳子は、これまた感情の起伏の激しかった杉田久女に俳句の手ほどきを受けている。「橋本多佳子さんは、男の道を歩く稀な女流作家の一人」と言ったのは、山口誓子である。(清水哲男)』(引用元)。今回は「一日二善」「一日二食」を踏まえての結論です。

前回前々回で、訪問診療中に施設の食事回数について感じたことを書きました。一日三食ではなく二食で良いのでは?。数カ所で「一日二食」の話をしました、ある施設で目撃した「一膳九皿」で結論が出ました。その日の昼食は「鮭のムニエル、サラダ、小鉢、ご飯」が標準。準備テーブルを見ていると、きざみ食、ミキサー食、水分摂取制限など、細かく利用者に合わせた膳が並びます。その中にひとつだけ皿数の多い膳を発見。数えてみると、なんと九皿が所狭しと並んでいます。これはこれは豪華ですねと、配膳係の方に問うと意外な答えが・・。

まず「一日二食」の結論から。数カ所で聞いた答えはおおかた次のようです。1)利用者の中には「こんなに(一日三食)は食べきれないから二食でいい」との声も確かにある。2)朝食はシンプルにパンと牛乳だから、そんなに時間や手間はかからない。3)施設説明時に「一日三食提供します」と「ここは一日二食です」なら、あなた(利用者家族も含めて)ならどちらを選びますか?・・というわけで「一日三食」です。

では「一膳九皿」のわけは?・・極めてシンプルでした。利用者(九十歳を超えた女性)の御家族が「おばあちゃんには、好きな物を好きなだけ食べて欲しい」と希望され、施設がその要望に応えて九皿であるとのこと。んー目から鱗でした。そうです!ここは病院ではないし、利用者は入院患者ではない。仮に残り少ない日々を「好きな物を好きなだけ」食べて欲しい。これには納得するしかありませんでした。職員さん曰く「いつも二割から三割しか食べられません」「食事量もご家族には報告しています」「それでもいいから豪華にしてくださいがご家族の希望です」。目から鱗の後、目頭が熱くなりました。

画像は黒砂糖です。南九州ではお茶請けによく登場します。少し前のことでした。訪問診療中に十時のお茶の時間、遠目に見ているとお茶と黒砂糖。職員さん「花子さんにはおまけでひとつ多く入れておくね」・・聞きながら「やめてくれ」と思いました。黒砂糖とはいえ砂糖です。ご自分での歯磨きは不十分な方が多く、結構口の中は汚れています。タイミングを見計らって職員さんに「黒砂糖は砂糖ですよね」「できれば他のものに」など話しました。他のものにと言った手前、探しました。黒砂糖よりムシ歯リスクが低く、コストパフォーマンスは同じくらいのお茶請けは?これが意外とないんです。

しかし「一膳九皿」を目撃してから探すことをやめました。おやつに、これはダメこれが良いよりも、何を召し上がってもいいのでメンテナンス(口腔清掃)をお任せください、の方がベターだと思ったからです。九皿同様、おやつは楽しみです。歯を守るためにおやつを変えるのではなく、食べた後の習慣(システム)を改善すべきであると思います。例えば、まず固形物(黒砂糖など)を出してあげて、ほぼ食べ終わってからお茶を出す。もしくは必ず最後はお茶で口の中を歯を洗うようにする、などです。もちろん、ご希望あらばメンテナンスいたします。

食べることは、多くの方にとって喜びであり幸せ。喜び優先なのか歯の健康が優先なのか?喜び優先であることは明白!黒砂糖、九皿・・その方の人生において喜びなのです。「食べるために」五年前に書いておりました、お時間あれば是非こちらも読みください。では皆様、ご自愛の程ご歯愛の程。

BBTime 628 一日二善

「餡パンの紙袋提げ夏の果」下山光子

2023/08/15投稿
立秋(8/8)はとうに過ぎていますが「夏の果」なぞ、程遠い日々です。句の解説は『季語は「夏の果(はて)」。そろそろ、夏もおしまいだ。朝夕には、いくぶんか涼しい風も吹きはじめた。あれほど暑い暑いと呻(うめ)いていたくせに、いざ終わりとなると少し淋しい気がする。そんな情感が、さらりと詠まれた句だ。なんといっても「餡パンの紙袋」を提げているのが良い。代わりに同じ食べ物でも、茄子や胡瓜などでは荷も句も重くなりすぎるし、かといって水羊羹や何かの菓子の類では焦点がそちらのほうに傾いてしまう。その点餡パンは、主食というには軽すぎるし、お八つというにははなやぎに欠ける。よほどの餡パン好きででもない限り、食べる楽しみのために買うというよりも、ちょっとお腹がすいた時のために求めておくというものだろう。だから、餡パンの紙袋を提げていても、当人にはいわば何の高揚感もない。いくつかの餡パンをがさっと紙袋に入れてもらい、ただ手にぶらぶらさせて歩いているだけである。その気持ちの高ぶりが無いままに、しかし四辺には秋の気配がなんとなく漂いはじめているのであって、このときに作者はさながら紙袋の軽さで夏の終わりを実感したというところか。深い思い入れではないだけに、逆にあっけなく過ぎていく季節への哀感がじわりと伝わってくる。『茜』(2004)所収。(清水哲男)』(引用元)。今回は前回「一日二食」への追加です。

タイトルを考えるに「一日一善」が浮かびました。改めて語源(由来)を調べてみてビックリ!「一日に善いことをひとつしましょう」と文字通り理解しておりました。では善いこと「一日一善」の善とは?

この「善」には六つあり、他人に対する「善」は大方ひとつのみで、他は自分に対する行いのようです。一日一善とは自分自身に対して「善いこと」しましょう!の意味なんです。

一日一善:「一日に一回は善い行いをして、それを日々積み重ねなさい」「「一日一善」は仏教の「六度万行」から来ています。お釈迦様は善い行いを六行とし、「布施=親切にする」「持戒=約束を守る」「忍辱=忍耐」「精進=努力」「禅定=反省」「智恵=考え智恵を高める」の六つから成り立った言葉です。この事から、お釈迦さまはこの六行のどれか一つでも一日の中で実践することで、他の五つも行ったと同じ事になるというように教えました。よって、一善というのはこの六行のうちのどれか一つの言うことを指し、それが元で「一日一善」という言葉が生まれました。」(出典はこちら)。

さらに詳しく調べると・・六度万行(ろくどまんぎょう)とは『布施持戒忍辱精進禅定智慧六度六波羅蜜)を成就するためのあらゆる善行・徳行のこと。『大品般若経』では「六度相摂」を説き、六度行の中に菩薩行のすべてが含まれているとする。浄土教では、そうしたすべての行の功徳が念仏に包摂されているとし、これをとくに六度念仏、あるいは方行念仏という。『無量寿経釈』には、念仏は正、万行は雑と説かれている(昭法全八四)が、その万行の眼目が六度行であることには変わりない。』(出典はこちら)。

布施:ふせ 出家修行者、仏教教団、貧窮者などに衣食その他を施し与えること。
持戒:じかい 戒律をたもつこと。破戒・捨戒に対することば。仏教に帰依する者の根本として生活態度を律すること。
忍辱:にんにく 耐え忍ぶこと、堪忍すること、認めること、忍可すること
精進:しょうじん ひたすら努力して怠けることなく、仏道にかなった善行を勇敢に実践し続けることを意味する
禅定:ぜんじょう 智慧を得るために精神を集中させること。
智慧:ちえ ものごとを判断し、決定する心の働き (全て引用元はこちら)。

他人への善なる行為は「布施」のみで、他の五つ「持戒・忍辱・精進・禅定・智慧」は自分自身への行為です。善行・善い行為というより、生き方における「善」です。先日(8/11)の朝日新聞「折々のことば」・・「なにもしないことはなにもしないのではなくて、悪いことをしているのだ 佐橋滋」

「一日一善」を今以上に心がけるならば、世の中の「一日一進」は可能です。画像にあるように「消防士は火の粉を被っても現場に飛び込んで行く」・・施設の関係者の方々、訪問診療に携わる皆様、いかがでしょうか。「一日二膳」を真剣に考えてみてはもらえないでしょうか。ではでは、ご自愛の程ご歯愛の程。

BBTime 627 一日二食

「よく噛んで食べよと母は遠かなかな」和田伊久子

2023/08/10投稿
「台風のたたたと来ればよいものを 大角真代」台風6号に関して同感です。以前より公共交通機関運休が早めすぎ長すぎのような気がします。句の解説『季語は「かなかな」で秋、「蜩(ひぐらし)」に分類。どういうわけか我が家の近隣では,ここ十数年ほど、まったく鳴いてくれなかった。それがまたどういうわけか、十日ほど前から突然にまた鳴きはじめたのである。数は少なくて,一匹か二匹かと言うほどに淋しいが,とにかく「かなかな」は「かなかな」である。素朴に嬉しい。そして、なんと昨日は朝の起き抜けにも鳴いた。まだ明けきらぬ四時半くらいだったか、一瞬空耳かと疑い,窓を大きく開けてたしかめたら、たった一匹だったけれど、やはり「かなかな」であった。早朝の鳴き声は,田舎にいた少年時代以来だろう。夕刻の声は寂寥を感じさせるが,早暁のそれは清涼感のほうが強くて寂しさはないように思われる。やはり一日のはじまりということから、自然に気持ちが前に向いているためなのだろうか。懐かしく耳を澄ましながら、しばししらじらと明けそめる空を眺めていた。伴うのが寂寥感であれ清涼感であれ,「かなかな」の声は郷愁につながっていく。「子供にも郷愁がある」と言ったのは辻征夫だったが、ましてや掲句の作者のような大人にとっては,「かなかな」に遠い子供時代への郷愁を誘われるのは自然のことだ。遠い「かなかな」,遠い「母」……。もはや子供には戻れぬ身に、母の極めて散文的な「よく噛んで食べよ」の忠告も,いまは泣けとごとくに沁み入ってくるのだ。私たち日本人の抒情する心の一典型を、ここに見る思いがする。『新版・俳句歳時記』(2001・雄山閣出版)所載。(清水哲男)』(引用元)。今回は歯磨きと「一日二食」について。

訪問診療でいろいろな施設に行きます。それぞれ特色があり、はたから見ると違いとして見えてきます。施設利用者の方々の口の中も十人十色、キレイな人もいれば汚れている人もいます。利用者のレベル(介護度、認知症程度等等)に大きく左右されますが、施設の方針の違いも影響するしているように思えます。ある施設は「自立支援」が目標。食堂の椅子から車椅子に移ろうとされる時に、手を貸そうとすると「ご自分でできることはご自分でしてもらいます」とのこと。歯磨きも同様「歯ブラシを持てる方には自分で磨いてもらいます」・・理解できないでもないです。椅子に座る行為(動作)は座ってしまえば完了します。しかし歯磨きは違います。洗面で歯ブラシを手に磨かれても・・「磨いた」と「磨けた」は異なります。食事の際にほんのひと口箸を付けただけで「食べました」とはなりません。ほぼ食べ終えて「食べました」です。

利用者の食後の口腔清掃介助はかなり大変です。口を開けてくれない、歯ブラシを噛む、嫌がる・・等々。ただ、訪問していると結構きれいにしていらっしゃる施設もあります。清掃介助は大変です!そこで汚す前に「汚れにくい、汚す量を減らす」方法を考えてみませんか?という提案です。
1)おやつを考える!ある施設の午前十時ごろ・・おやつの時間でした。お茶と小皿に「黒砂糖」(鹿児島では結構身近です)のかけらが数個。遠目に見ていると「おまけしとくね」ともう一個。歯科医師としてはアリャアリャです。歯の表面の汚れのきっかけは砂糖です。他のものに変えてみませんか?提案したらおそらく「費用の問題」開口一番出て来そうです。口の健康(言わばその方の寿命)と費用は、どちらが優先?

2)自立支援であっても清掃介助は必要!くどい様ですが「腰掛ける」と歯磨きは違います。可能であれば(利用者の方がさせてくれれば)介助は必須です。利用者の方の顔に汚れが付いていれば洗ってあげるでしょう。口の中の汚れ、歯の汚れ、義歯の汚れは他人には見えにくいだけなんです。介助が必要です。

3)施設利用者の食事を「一日二食」にする!今回の提案の中で最も真剣に考えて欲しいことが「三食から二食へ」です。雑誌サライの記事によると「現代では、基本的に1日3食が当たり前ですが、これが定着したのは江戸時代・元禄期(1688~1704年)以降のこと。江戸中期に、さまざまな産業の生産性が高まり、流通が盛んになるまでは1日2食が普通だったのです」(出典元)。一日三食は、端的に言えば江戸中期以降の食習慣に習っているだけのことです。医学的にも三食より二食が良いとの記事が目に留まります。

─―日本では一日3食が健康の基本だと教わります。あまり食事をしないほうが健康にいいということですか。
すべての人が実践できるアドバイスがあるとすれば、食べる回数を減らすことです。一日3食も必要ありません。」記事はこちら是非お読みください。

「胃腸は、4~5時間以上、食べ物を入れない時間をつくらないと正常に働いてくれないといわれています。消化・吸収の時間を考えても、それは正しいと考えます。
このため1回1回の食事の量を減らして回数を多く食べるよりは、食事の回数を減らし絶食時間を長くしたほうが、消化管の負担にもならず、栄養吸収の面でも効率的です。
もちろん、これは単にエネルギー摂取という意味だけではありません。胃腸に負担をかけず、かつ細胞にあるミトコンドリアをリセットする効果もあり、アンチエイジングにも効果的です。」記事はこちら、是非お読みください。

画像はミキサー食。一日三食であれば、ミキサー食利用者の食事は朝昼晩に仮に四皿あったとするとミキサーにかける回数は12回です。ミキサー食の方が6人いらっしゃったら、72回ミキサーにかけることになります。一日二食に変えたなら、労働量・労働時間も減ります。加えて歯の汚れる量・回数も減るのです。二食に変えようとして二の足を踏むのは「利用者家族への配慮」でしょう。しかし、そこは医学的根拠を説明して理解を求めるべきだと思います。

施設のモットーは「利用者の幸せ」と異口同音に言われるでしょう。そうであるならば1)おやつをしっかり考える 2)歯磨き介助をする 3)一日二食へ変える じっくりそれぞれの立場で考えてください、お願いします。皆様、ご自愛の程ご歯愛の程。

BBTime 625 生きる入り口

「うなぎの日うなぎの文字が町泳ぐ」斉藤すず子

2023/07/31投稿
はやいもので七月文月も今日でお終い、明日から葉月八月。昨日7/30が土用の丑でした。解説は『季語は「うなぎの日(土用丑の日)」で夏。ただし、当歳時記では「土用鰻」に分類。この日に鰻(うなぎ)を食べると、夏負けしないと言い伝えられる。今年は今日が土用の入りで、いきなり丑の日と重なった。したがって、この夏の土用の丑の日はもう一度ある。鰻にとっては大迷惑な暦だ。句のように、十日ほど前から、我が町にも鰻専門店はもちろんスーパーなどでも「うなぎの文字」が泳いでいる。漢字で書くと読めない人もいると思うのか、たいていの店が「うなぎ」と平仮名で宣伝している。面白いのは「うなぎ」の文字の形だ。いかにも「うなぎ」らしく見せるために、にょろにょろとした形に書かれている。なかには、実際の姿を組合わせて文字に仕立てた貼紙もあって、句の「うなぎ」表記はなるほどと思わせる。作者は、夏が好きなのだ。もうこんな季節になったのかと、町中を泳ぐ「うなぎ」に上機嫌な作者の姿がほほ笑ましい。今宵の献立は、もちろんこれで決まりである。私は丑の日だからといって鰻を食べようとは思わない性質(たち)だけれど、世の中には、こういうことに律義な人はたくさんいる。名のある店では、今日はさしずめ「鰻食ふための行列ひん曲がる」(尾関乱舌)ってなことになりそう……。『新版・俳句歳時記』(2001・雄山閣出版)所載。(清水哲男)』(引用元)。うなぎ食べたしと思えど、値段鰻登りゆえ食卓に登らず。うなぎでも竹輪でも口から食べる、生きる入り口についてのお話。

あまり詳しく書けないのですが(ご容赦の程)。ある時ある処(高齢者施設)からの依頼が「嚥下してくれないので何とかして欲しい」診せていただきました。職員さん曰く「モグモグするんだけどゴックンしてくれない」。口腔内はほぼ無歯顎(むしがく:歯がないこと)1本だけ根っこのみ有り。見てると確かにモグモグされます。舌の触診で「オヤッ?」・・舌根部(ぜっこんぶ:舌の奥、根本部分)がこわばって、口を開けてもらっても喉チンコが見えません。舌根部が盛り上がって、口の奥を塞いでいるような状態でした。また小生の指で、その方の舌根部を押さえても「ウエッ」とされません。診断:何らかの理由で舌根部の機能低下、よってモグモグしても奥が開かないので食べ物が入っていかない、ゴックンできない。

そこで「舌機能の回復、舌根部の運動改善」を考えました。ピンときたのが「竹輪」。5センチほどに切って口の中に・・モグモグされます(リハビリ目的)。竹輪であれば穴が空いているので万が一のリスクも低いかと思いつつ、食事前の準備運動的に見守りながらの「竹輪モグモグ」を勧めてみました。大丈夫だったかなと後日訪問すると・・。

竹輪がパンダに変わっていました。この器具「ペコぱんだ」は舌機能訓練器具です。詳しくはこちら。思いました・・パンダだけに竹(竹輪)と相性がいい!・・後日、モグモグに続いてゴックンができるようになったとのこと。そこで早速、舌を触診すると・・あら不思議、舌根部が軟らかくなっているのです。続きはまた報告します。

鰻丼には思い出があります。昔のこと・・初フルマラソンが指宿菜の花でした。30数キロ過ぎ、池田湖を背に海辺に出ます。マスクをして走る人を見て「なぜマスクなの?苦しくないの」と思いました(当時、コロナのコの字も世の中にない頃)。無事完走(四時間半)し帰宅後部屋で横たわっておりました。次第に強烈な空腹に襲われ黒電話(ケータイもない頃)で出前注文「あのう、鰻丼ひとつ」。来ました来ました!蓋を開け、湯気と香りを充分に吸い込んで、まずは鰻だけを口に・・ところが飲み込めません。喉が潮風にやられていて、痛みで飲み込めないのです。この時マスク走者の理由がわかりましたが時すでに遅し。もう一度気を取り直して口に・・やはり痛くてゴックン不可。唾液は出る涙も出る・・嚥下できないことがこんなに辛いとは!呆然としつつも何とかウナギだけは胃に収めました。

小生の鰻丼と嚥下障害は意味が違いますが、「口から食べる」ことは生きること、口は「生きる入り口」であると訪問診療をしていて切に思います。理由はそれぞれで解決できない、無理な場合もあることでしょう。しかし「口から食べる」を可能な限り死守してほしいと思います。また歯科医師の最終治療は「いかに口から食べることを可能にするか」だと今更ながら、今頃になって痛感しております。食べるを治療する、食べる治療、精進します。皆様、ご自愛の程ご歯愛の程。

BBTime 623 アイディア

「涼しさは葉を打ちそめし雨の音」矢島渚男

2023/07/03投稿
 早いもので昨日は「半夏生はんげしょう」。句の解説『私が子供だったころには、降り出せば屋根にあたるわずかな雨の音からも、それがわかった。でも、いまでは部屋の構造そのものが外の雨音を遮断するようにできているので、よほど激しい降りででもないかぎりは、窓を開けてみないと降っていることを確認できない。これを住環境の進歩と言えば進歩ではあるけれど、味気ないと言えばずいぶんと味気なくなってきたものだ。もっともたとえば江戸期の人などに言わせれば、大正昭和の屋根にあたる雨音なども、やはり味気ないということになってしまうのだろうが……。そんななかにあっても、「葉を打つ雨音」など、おたがいに自然の営みだけがたてる音などはどうであろうか。それを窓越しに聞くのでなければ、これは大昔から不変の音と言ってよいだろう。昔の人と同じように聞き、揚句のように同じ涼しさを感じることができているはずである。芭蕉の聞いた雨音も、これとまったく変わってはいないのだ。と、思うと、読者の心は大きく自由になり、この表現はそのまま、また読者のものになる。『百済野』所収。(清水哲男)』(出典)。先日の早朝坐禅・・雨音の坐禅でした。記憶に残るは昨夏「蝉時雨坐禅」・・蝉時雨の中での坐禅。もの凄い蝉の声でなくとも、堂内静寂ゆえ、土砂降りの蝉時雨として耳に届きました。今回はアイディアについてのお話。

ほぼ毎日読む「今日のダーリン」から。
・アイディアが泉のように湧いてでてくる会社にしたい。冗談のようだけれど、ぼくの夢はそれなんじゃないかな。アイディアというものは、なかなか、あるようでない。アイディアがなくても、ちゃんとかたちにはなるし、アイディアなんか不要だという場面もたくさんある。
 そういうことはわかっているのだが、アイディアがあったら、もっといろんなことができる。アイディアは人をよろこばせるし、そこに人も集まる。だから、アイディアを生み出せれば、食っていける。 
 どうやって、アイディアをこんこんと湧き出させられるか。 それについてのアイディアがほしい(笑)。「こんこんと湧き出せるようにしたい」と思っているなら、そのためには、まずはなにができたらいいのか。なんにせよ、出発点はそこだと思う。

 まずは、アイディアに気づけるかどうか、なのだ。スポーツをやっている人なら、選手がいいプレイをしたときに、そこにアイディアを発見することができる。もちろん、それを見つけられない人もいる。絵を描く人どうしだったら、他の人のいい絵を見たら、そこに、意識的にどうかはともかくとして、描いた作家のアイディアを見つけることができる。美術というのはアイディアのかたまりみたいなものである。専門の仕事を持っている人は、他の専門家の仕事に、「やるなぁ」というアイディアを見つけられるだろう。ひとりのお客として、いろんな店でサービスを受けても、「これはいいなぁ」というアイディアが見つけられる。

 他者のアイディアを発見できて、感心できるか。
 それがまずは、じぶんがアイディアを出せるかどうかの「はじめの一歩」なのだと思う。あくびしながらいやいや生きていたら、人のアイディアに感心もできなきゃ嫉妬もできない。「世の中のやつら、なんてすげぇんだ!」と、毎日がっくりと落ち込むくらいの毎日を過ごして、人のアイディアに憧れたり、そのまねをしたりしてると、いつのまにか、じぶんのアイディアの芽が出てくる。以上の考え方も、平凡だけれど、ひとつのアイディアだ。
今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。なによりまず発見。そして、感心と、清潔な嫉妬が大事かも。

肝(キモ)は「他者のアイディアを発見できて感心できるか」。言い換えれば、仕事などにおける「不満やうまくいかないことをひと(他人)のせいにする」。仕事で訪問診療に行きます。訪問先で四苦八苦、格闘されている職員さんの姿を見て頭が下がります。そんな時、岡目八目ですが「改善できないだろうか」「改善するためにはどうすればよいか」と思います。繰り返します「他者のアイディアを発見できて感心できるか」がキモですが、この一歩手前が「不満やうまくいかないことをひと(他人)のせいにして改善方法を考える」です。

本来の意味からずれるかもしれません。うまくいかない時に「自分のせい」「努力不足」「スキル不足」などと考えると、改善方法は「自分の頑張り」しかない!が結論となってしまい、原因不明のままで改善策も生まれません。ひとまず自分自身ことは置いといて、周り(職場環境)に原因があると考えましょう。周りに目を向けることで「他者のアイディアを発見できて感心できる」ようになるのではないでしょうか。

患者さんにも同じようなことが言えます。義歯(入れ歯)そのものが原因なのに「私の噛み方が悪いから」とか「歯茎が痩せたから」など、ご自分に原因有りと言われます。違います!ムシ歯も同様「歯磨きが悪いから」「お菓子の食べ過ぎ」など。これも(全てではありませんが)違います!ご自分で100%歯をキレイにすることはできないのです。

以前読んだ本に「アイディアは逆から読んでもアイディア」・・これもアイディアである。という趣旨の文章がありました。先日、訪問先での相談。「食事中に下の入れ歯(総義歯)が浮いて歯茎との間に食べ物が入って痛い」とのこと。外来診療なら方法は幾つかありますが外出は無理な方。そこで一考「フィンガーボウルのように、デンチャー(義歯)ボウルを用意していただくのは?」もちろん周りの人(施設利用者)への配慮は必要ですが。

取り留めのない話になりました、アイディアって取り止めのないボヤっとした時にポコンと生まれるような気がします。まずは「人のせいにする」「自分はやるべきことはやった」から考え始めてみてはいかがでしょう。・・くどくてすみません、ムシ歯ができたのは貴方だけのせいではありません。「歯は、磨いてももらうもの」。では皆様、ご自愛の程ご歯愛の程。

 

BBTime 622 施設昼食

「カップ麺待つ三分の金魚かな」上原恒子

2023/06/19投稿 6/21追加
 句の解説から『季語は「金魚」で夏。うん、たしかにあの三分という待ち時間は、なんとも中途半端である。作者は仕方なく「金魚」鉢に目をやっているわけだが、この句を読んで、では他の人たちは、この間何をして待っているのだろうかと興味が湧いた。いや、それよりも自分は普段どうしているのかな。「カップ麺」を食べるときは、たいてい家に一人でいるときだ。発売当時(1971年)ならばまだしも、一家そろってカップ麺などという情景は、あまりいただけない。でも、三分間では、タバコに火をつけて一服やるには短かすぎる。しかし、何もしないでじっとカップ麺の蓋を眺めているには長過ぎる。かといって、他にすることも思いつかない。それこそ仕方がないから、金魚を飼っていない私は、たいてい壁の時計を見てきたようだ。別に正確に三分間を待とうというのではないのだけれど、なんとなく三分という時間のことが頭にあるので、それで結局は時計を見る習性がついてしまったのだろう。この句の手柄は、誰もが持つそうした日常的な些細な無為の時間を、あらためて思い起こさせるところにある。俳句の題材は、見つけようと思えば、どこにでもあるという見本のような作品だと思う。ところで、こうした無為の時間を気にするのは、どうやらメーカー側も同じのようで、日清食品のホームページには、こんなコーナーができている。一分間で出来上がりというスパゲッティ「スパ王」用のキッチン・タイマーならぬ「美女タイマー」だ。一応なるほどとは思ったけれど、なんか見てるだけでせわしない。それに、すぐ飽きてしまう。他に、妙案はないものだろうか。『正午』(2001)所収。(清水哲男)』(引用元)。カップ麺には大変お世話になりました。当時、カップ麺は袋麺(インスタントラーメン)よりも高価であったため、高校時代はラーメンポットで袋麺を、大学ではカップ麺に世話になりました(値段が下がったのかな?)。我田引水ですが三分あれば是非食前歯磨きを!食前歯磨きは食後同様に意味があります。今回は施設セミナーの補足内容です。

設定を高齢者施設でお昼12時からのランチとします。(もちろん、カップ麺ではありませぬ!)
11:30 1)テーブル(食卓)に野菜そのものか模型を展示→眼
    2)BGM「きょうの料理」と「3分クッキング」を交互に流す→耳
    3)テーブルの高さ、姿勢の確認と調整
    4)調理場が近くにあれば料理の匂い→鼻
    5)ここまでは言わば「食べる」ための準備体操

12:00 昼ご飯開始 BGM「夏は来ぬ」「みかんの花咲く丘」「夏の思い出」を流す。

12:30 食後 まずはうがい、かなり力強く。次に義歯洗い。そして歯磨き。もし可能であれば食事前の「食前磨き」も効果的です。では皆様、ご自愛の程ご歯愛の程。


BBTime 621 施設診療

「走り梅雨ちりめんじゃこがはねまわる」坪内稔典

2023/06/10投稿 6/12追加 6/13更に追加
 鹿児島は梅雨真っ只中で、跳ね回るどころか雨の中を泳ぎ廻っています。句の解説は『梅雨の兆し。そのただならぬ気配に、「ちりめんじゃこ」がはねまわっている。昔から鯰は地震を予知すると言われるが、「ちりめんじゃこ」も雨期を予知するのだろうか。予知して、こんな大騒をするのだろうか。そんなはずはない。そんなことはありっこない。このとき、ただならぬのは「ちりめんじゃこ」よりも作者の感覚のほうである。誰にでも、他人はともかくとして、なんとなくそんな気がするという場面はしばしばだ。独断的な感受という心の動きがある。詩歌の作者は、この独断に言葉を与え、なんとか独断を普遍化しようと試みる。平たく言えば、「ねえ、こんな感じがするじゃない」と説得を試みるのだ。その説得の方法が、俳句と短歌と自由詩と、はたまた小説とでは異なってくる。そのことから考えて、掲句の世界は俳句でしか語れないものだと思う。たとえば、詩の書き手である私は、この独断を句のように放置してはおけない。はねまわる「ちりめんじゃこ」の様態までを自然に書きたくなってしまう。書かないと、気がおさまらないのだ。したがって、こうした句をこそ「俳句の中の俳句」と言うべきではなかろうか。ふと、そう思った。なお「ちりめんじゃこ」は関西以西の呼称だろうか。東京あたりでは「しらすぼし」と言う人が多い。『猫の木』(1987)所収。(清水哲男)』(引用元)。今回はBBTime 618「ゴックン」とBBTime 620「食べる」のまとめです。

1)摂食・嚥下について。
「認知期」「準備期」「口腔期」「咽頭期」「食道期」のステージがあります。

2)認知期でできること:ある日のお昼ご飯。お分かりのように右が「普通食」、左が「ミキサー食」。一目瞭然!食欲を刺激するのは右側普通食。それぞれ匂いを嗅いでみると・・ミキサー食はなんとなく料理がわかる程度。介助者はひと匙ごとに「キャベツですよ」「お魚ですよ」など声で伝えながら食べさせていらっしゃいます。ミキサー食の場合、「目で見えること:視覚情報」「鼻でわかること:嗅覚情報」において劣ります。それらを捕捉することとして「食材そのもの」「食材模型」などで情報を増やすことは可能ではないでしょうか?また、言わば食前酒効果を狙って音楽の使用です。小生が小学生の頃お昼の給食前には必ずある音楽がスピーカーから流れてきました。給食準備の合図です。施設においても同様に、お昼直前に童謡や文部省唱歌などを流してみてはいかがでしょう。六月は「雨雨ふれふれ」七月は「われは海の子」など。

3)準備期・口腔期でできること:口の中に問題があれば歯科治療が必要です。さほど問題がないとして気を付けて欲しいことは、椅子とテーブルの高さ関係。差が約30cmが良さそうです。車椅子使用などで30cm確保できない時には、テーブルに脚継ぎするなどしてください。またベッドで食事を取る方は可能な限り、通常の食事姿勢(少し前かがみ)に近づけてください。ベッドを少し起こしても、やはり寝たままだと食はすすみません。舌根(ぜっこん、舌の奥)が沈下(喉の方へ落ちて)して、口の中が窮屈のまま咀嚼せざるを得ない状態なので。
義歯使用の方:シンプルに考えてください。義歯は口の中の食具(しょくぐ)、箸やスプーンと同じです。特に総入れ歯の方で、義歯が合っていないなどの理由で食べにくい時には外して(義歯なし)食べる方がベターでしょう。

4)咽頭期・食堂期:この二つのステージは反射です。できることと言えば舌骨上筋下筋の強化ぐらいですが、施設利用者の程度によって筋トレが無理な場合もあるでしょう。

 さてもちろん利用者ファースト。施設利用者が「口から食べられる」ことをまず第一に考えます。次は、介助する人介護する人の負担を減らすことを考えるべきだと思います。負担には「臭い」「汚く見える」「しにくい(例えば義歯の着脱)」なども含まれます。先日次のような相談を受けました。上顎のみ総義歯・胃瘻の方。経口摂食無しですが、幾つかの理由で上顎総義歯を入れたほうが良いケース。介護者が上顎総義歯の着脱の際に口角(こうかく:唇の左右のつなぎ目)を切ってしまうので、どうしたら良いかとのこと。ワセリン使用など色々と試されたけど、口角が切れる。解決策は「総義歯を削りましょう」でした。義歯の幅を小さくすれば着脱しやすくなります。

ある時、施設の方が「この男性の舌打ちが嫌だ」と。もちろんその男性は不快感を表現しているのではないのですが・・。そこで一言「舌打ちではなく舌鼓と受け取るのはどうですか?」。その方は奥歯が無いので、その空間に舌が入り込み舌打ちをされるのかも知れないと判断し義歯を作ります、さて結果はいかに。

訪問歯科診療に携わると、診療室とは違う判断を求めらることが多々あります。また、訪問先において如何に機転をきかせて問題を解決・改善するかも求められます。利用者ご本人も日々の食事、日々の生活はある意味大変ですが、施設の方はさらに大変です。最後にひとつ、歯科医師からアドバイス。あなた自身の認知症予防・認知症発症を遅らせるためにできることがあります。口の中の炎症を極力低いレベルに保ってください。必ず定期的(一月に一回)メンテナンスをお勧めします。皆様、ご自愛の程ご歯愛の程。

https://youtu.be/D1ZYhVpdXbQ

追加6/12:咀嚼嚥下の際に力を発揮するのが脳神経の五番目「三叉神経」です。脳神経の一番目「嗅神経」を忘れておりました。味の9割は嗅覚由来ともいわれます。こちらの記事を是非お読みください。施設のご飯の際に、この「嗅覚」を刺激してください。スプーンで「これはカボチャですよ」とミキサー食を口元に運ぶ前に、まず鼻先に!鼻先で嗅いでもらう時間が余計にかかりますが、咀嚼嚥下の準備運動となり、誤嚥回避につながります。もちろん食も進みます。花より団子ではなく「鼻から団子」・・口に入れる前に嗅ぐ・嗅がせる!人生に華が必要なように、食事には鼻が必要です。

追加追加:施設におけるお昼ご飯前の候補曲を追加します。食事中はゆっくりの曲の方がよろしいかと。

BBTime 620 食べる

「アジフライにじゃぶとソースや麦の秋」辻 桃子

2023/06/05投稿 6/7筋トレ追加
 昨夜、食べました!アジフライ。句の解説は『季題は「麦の秋」で、夏。「秋」を穀物の熟成する時期ととらえることから、夏であっても「麦の秋」と言う。麦刈りの人の昼食だろうか。あるいは、労働とは無関係な人の、一面に実った麦を視野に入れながらの食事かもしれない。空腹の健康とたくましい麦の姿が、よく照応している。「さあ、食べるぞ」という気持ちが活写されていて、気持ちのよい句だ。ひところ話題になった「お茶漬けの友」のテレビCMの雰囲気に同じである。ソースをじゃぶとかけたら、後は一気呵成にかっこむだけ。健啖家は、見ているだけでも爽快だ。ところで、あのCMを見たドイツ人がイヤそうな顔をした。音を立てて物を食べることに抵抗があったわけだが、ビール天国のドイツのCMでは、咽喉を鳴らしてビールを飲むシーンなども皆無だという。日本だって、昔は蕎麦以外は音を立てないで食事をするのが礼儀だった。それが、いつしか安きに流れはじめている。で、もう一つの余談。私はアジフライにソースはかけない。醤油を使う。好みの問題だが、何かと言うと醤油を使う人が、我が世代には多い。子供の頃に、ソースが出回っていなかったせいだろう。(清水哲男)』(解説より)。小生、日南生まれ南九州育ちのせいか「麦の秋」は記憶にありませんし、季語と知ったのもかなり後のことでした。今回は前々回「ゴックン」の補足話。

この画像はご覧の通り、朝日新聞朝刊「折々のことば」。ここの「生きる」はおそらく「人生を味わう」の意味だと思います。仕事で高齢者施設を訪問するに「食べる=生きる」であると痛感します。「食べる=人生を味わう」はほぼ健康な人における話。BBTime618「ゴックン」を補足していきます。BBTime 271 「食べるために」もお読みください。

まず(1)認知期を強化する方法として・・その料理の材料を同じテーブルに置く。目からの情報をより豊富にする。可能なら現物(かぼちゃ料理なら、丸ごとカボチャそのもの)を、無理ならカボチャの模型か画像でも。耳からの情報強化として皿ごとの説明、レストランで給仕係の説明のように。

(2)準備期(3)口腔期においては・・可能な限り少し前屈みの姿勢をとる。椅子の背もたれに背をつけない、通常食卓の姿勢です。この姿勢だと頭位も少し前傾になりますので、咀嚼しやすく、食塊を後方(咽頭)に送りやすくなります。大方、食卓テーブルと椅子の座面の高低差は30cm(テーブルが72cmなら椅子座面は42cm)。車椅子利用などで高低差が縮まる際には、テーブル脚に継ぎ足ししてあげる。

(4)咽頭期(5)食道期は反射ですので、嚥下の際に力を発揮する舌骨上筋・下筋の強化ぐらいです。

これはBBTime 615 「明日は我が身?」でご紹介したポスター。「音で、認知症に挑め。」・・そうです、音です!音楽です!高齢者施設において、食事前(食事の合図)と食事中と童謡・文部省唱歌などを週替わりで流してみてはいかがでしょう。今なら「あめふり」や「夏は来ぬ」など。今回の話はあくまでも私見です、あしからず。ではでは、皆様ご歯愛の程。

追加:舌骨上筋・下筋のトレーニングについて。画像はNHKラジオ「健康ライフ」のツイートです。

BBTime 619 ゆ

「豆飯の湯気を大事に食べにけり」大串 章

2023/05/27投稿 お知らせ:本日(6/5昼過ぎ)まで表示不可でした。
 湯気は写っていません・・もう食べられたのでしょう。句の解説には『食べ物の句は、美味そうでなければならない。掲句は、いかにも美味かったろうなと思わせることで成功している。あつあつの「豆飯」を、口を「はふはふ」させながら食べたのだ。たしかに「湯気」もご馳走である。ただし「湯気『も』」ではないから、まさかそう受け取る人はいないと思うが、食料の「大事」を教訓的に言っているのではない。念のため。「大事に」という表現は、作者と「豆飯」との食卓でのつきあい方を述べている。「湯気」を吹き散らすようにして食べるよりも、なるべくそのまんまの「湯気」を口中に入れることのほうに、作者はまっとうな「豆飯」との関係を発見したということだ。「大事に」食べなければ、この美味には届かなかったのだ、と……。もっと言えば、このようにして人は食べ物との深い付き合いをはじめていくのだろう。しかも「大事に」食べる意識が涌くのは、若い間には滅多にないことなので、作者は自分のこのときの食べ方をとても新鮮に感じて、喜んでいる。グリーンピースの緑のように、心が雀躍としている。もとより「大事に」の意識の底には、食料の貴重を知悉している世代の感覚がどうしようもなく動いているけれど、私はむしろあっけらかんと受け止めておきたい。せっかくの、あつあつの「豆飯」なのだ。「湯気」もご馳走ならば、この初夏という季節にタイミングよく作ってくれた人のセンスのよさもご馳走だ。想像的に句の方向を伸ばしていけば、どんどん楽しくなる。それが、この句のご馳走だ。『天風』(1999)所収。(清水哲男)』(出典元)。今回は豆飯の「湯気」ではなく湯気向こうの「ゆ」について。

先日、ラジオから湯道の話が流れてきました。御家元は小山薫堂氏、昔々「シャトー薫堂を飲む会」で御一緒した事があります。小生、高校二年から二年間温泉(鹿児島市)、大学六年間銭湯(小倉)の丸八年間ほぼ毎日「ゆ」に通いました。湯道サイトに投稿欄がありましたので、早速投稿、原稿四篇ご紹介します。

一の湯「湯は幸せ」
 かなり前の晩冬。その年の春にイタリアのワイナリーを巡る予定があり、まさに付け焼き刃イタリア語勉強中でした。当時、日南から大分へ出張の際、大分駅では特急を降りず、ひとつ先の別府駅下車が常。理由はただひとつ「温泉」。駅前の油屋熊八の像というよりオブジェに見送られ徒歩数分で「高等温泉」到着。目当ては半地下のような下にある湯船。その時、幸いにも下の湯は貸し切り。洗った後にひとり湯船に浸る・・それはそれは「幸せ!」。その時、ふと浮かんだイタリア語が「Mi sento felice! ミ セント フェリーチェ!」。思わず貸し切りをいいことに数回叫びました「Mi sento felice!」。ワイナリーでテイスティングの際に感想として使おうと練習中の文章。セントゥに浸りながら反復した「Mi sento felice!」。これぞ体感学習!一発で覚えました。勿論ワイナリーで連発。あぁ湯は幸せ、Mi sento felice!  (こちらもご参照ください)

二の湯「湯で磨く」
  小生がブログを始めたのは1999年のアースデイ(4/22)。当時、ホームページと呼ばれ、制作に際しデザイナー、プロバイダーさらにネットに詳しい人と小生の四人での打ち合わせが必要でした。それぞれの中間地点で会いましょうと人吉に集合。この二軒は、その時の温泉巡りでのお話し。
 人吉は温泉郷。打ち合わせと称してのミーティング、酒宴、宿泊。翌朝、帰路で見つけたのが「うぐいす温泉」。山あいの三月のこと、鶯の声がしていたかは定かではありません。季節柄、名前に惹かれて行ってみると建物は普通、湯船の大きさも普通、おそらく鶯の声は格別なのでしょう。湯につかりふと見ると、湯船に注ぐ大きな蛇口の下に小ぶりの板。近寄ると「イレバ洗うな」とマジックの拙い文字。仕事柄(歯科医師)考えました。利用者が体を洗い頭も洗い湯船に。ホッとしたところで「イレバ洗っとらんかった」と(察するに総入れ歯)。洗い場で、髭を剃り歯を磨いている人を見ることはあります。しかし入れ歯となると・・。せめて洗い場で、ご自分の洗面器の中で磨くならまだしも・・。心地良い湯、きれいな湯で磨きたくなったのでしょうか。
 二軒目。当時、人吉えびの間は高速道路未開通で加久藤峠(かくとうとうげ)ループ橋を利用。人吉からえびのへ向かう国道脇の「のぼり」に目が留まりました。その名も「かくれ里の湯」・・本当かいな?と思いながらもハンドルを切り横道へ。かくれ里への道は、まさに千と千尋に出てくるような道。くねくね行けども「のぼり」が時たま。興味が不安に変わりそうになった時、やっと建物が見えてきました。まさに「かくれ里」。湯の質も上等で「あぁ幸せ」と浸っていると、初老の男性がひとり、いかにも常連という仕草で入ってきました。見るともなしに見てびっくり!木こりか山師か?肌は赤銅色、小柄な体に無駄な肉は全くなく、ムキムキではない筋肉、まさに磨かれた体。仕事によって磨かれたのか、湯によって磨かれたのか。ご本人に理由を聞いても「そんなこと知らん」でしょう。磨こうと思って磨かれるものもあれば、図らずも磨かれるものがある。小生少々恥ずかしくなり、横目で見ながら湯に身を沈めました。男性は湯に映る我が姿を見ているのか見ていないのか、しかし湯は見ている。・・勝手に想像しながら浸っておりました。  (こちらもどうぞ)

三の湯「湯で学ぶ」
  時は昭和。小生、高校二年間大学六年間の計八年、銭湯通いでした。はじめの二年は鹿児島市の温泉、次は北九州市小倉北区の銭湯。
 さて大学入学時に借りた部屋は六畳ひと間、家賃月六千円、洗面トイレは共同、もちろん風呂は無く銭湯へ。近所の清水湯(きよみずゆ)は午後四時から。まずは、これに驚きました。鹿児島で通っていた温泉は朝6時から夜11時までの営業。この時、初めて「銭湯」と「温泉」の違いを身を持って知りました。温泉は地下から湧き出ますゆえ、始終湯船は湯で満たされています。銭湯はさにあらず、水を沸かして湯にして湯船に張る。ゆえに午後四時からの営業、と勝手に理解納得した次第。
 湯へ通う中で様々なことを知りました。銭湯によっては、湯に入れる薬があり、常連さんが番台でカップに入ったその怪しげな粉薬を貰い受け湯船に溶かすこと。家族で来た男性が「かあちゃん、シャンプー!」と声をかけると仕切り壁の上を通過してシャンプーボトルが飛んでくること。中でも一番学んだのは「刺青:イレズミ」。時が時、場所が場所だったのかも知れません。結構、お客さんの背や腕に彫ってありました。挨拶せずとも互いに常連、背中を見ただけで人物特定ができましたし、湯煙の中で顔はぼんやりでも声でわかりました。歳の頃、三十半ばでしょうか、もちろん男性です。刺青完成までの順序を知りました。
 ある日突然、白い肌に青黒い線が!日を追うごとに描かれる輪郭は複雑になっていきます。どうやら般若の面のよう、輪郭完成でひと休み。皮膚への侵襲を考慮して日を置くのでしょう。数週間経つと色が加わります。順序は定かではありません、青が入り緑が加わり赤が・・。部位ごとに色が入るのではなく、色別に足されていったように覚えています。色が入るたびに「肌休み」があり、その方の場合、完成まで数ヶ月を要したと記憶しています。完成した般若は、角度によっては少しニタリ顔のようにも見えるし、入浴時の肌の色でピンク般若であったり。まさに裸の付き合いゆえの学びでした。
 残念ながら「清水湯」は卒後数年経った頃、地上げ騒動に巻き込まれ廃業されたとか。地上げではなく湯が上がって温泉が出れば、朝から湯に浸かることができたのに!とその報を聞いて思いました、残念です。番台に座る二人のおばさんの笑顔と「いらっしゃい」の声は今もはっきりと覚えております。

四の湯「湯で清める」
 いつの頃からか、日曜朝は禅寺で坐禅を組み、道すがら温泉に寄るのが常となった。坐禅の後の入浴は気のせいか妙に心地良い。なにゆえと考えるに、高校生時の銭湯通いを思い出した。昭和の唄「神田川」よろしく洗面器にタオルや石鹸を入れ銭湯へ。思った、毎日のように体を洗いに来る。実は己の体を洗っているつもりで、本当はタオルなど湯道具をキレイに保つための行為ではないのか?湯の中には湯の神様がいらっしゃって、湯道具を清潔にするために、人間に入浴なる行為をさせているのではないだろうか。その証拠に、下宿に着いて干すタオルはいつもキレイだった。
 利休百首に「茶の湯とは只湯をわかし茶をたてて飲むばかりなる事と知るべし」とある。「飲むばかり」と言いつつもそうではない。準備にて茶碗などを洗い、キレイなはずなのに点前の「茶筅通し」にて茶碗を洗う。先生の言葉で合点した。茶筅通しは「洗う」のではなく「清める」のである。入浴も同じではなかろうか。洗い場で体の「垢(あか)」を落とし、湯船で湯に浸りながら心の「垢」を落とす。湯で体を洗い、湯で心を清める。坐禅後の湯が心地良い訳もこれで腑に落ちる。
 シャワー派ではなく湯船派である。湯の神様に感謝しつつ湯に身を沈める。煩悩が多いゆえかも知れぬ。そんな小生にとって世の流れとはいえ、心の垢を洗い清めてくれる銭湯が減っていくのは寂しい限り。入浴とはただ湯を沸かし身を洗うばかりではない事と知るべし

清める・・神社などの手水場(ちょうずば)では、手を洗うというより「清める」。敬意を表するために「清める」。歯磨きは「洗う」がメインですが、お気持ちの中に「清める」を幾分かでも持っていただければと思います。皆さま、ご歯愛の程。

BBTime 618 ゴックン

「くちびるに夏欲しければ新茶飲む」小迫倫子

2023/05/13投稿
五月も半ばと言うのに朝ひんやりの鹿児島です。句の解説は『載せようか、載せまいか。何日か思い悩む句がある。偉そうにしているわけではないけれど、私なりの評価が定まらないからだ。この句も、そのひとつ。若々しく新しい感覚ではある。だが、どこか私にはいぶかしい。それは「新茶飲む」という表現のせいだ。これまでの句では、茶は「汲む」ものであり「喫する」ものでありと、「飲む」というストレートな言い方はゼロに近かった。茶には「飲む」だけでは伝わらない風合いがあるので、多くの俳人はあえて婉曲的な表現を選んできたのだろう。そんななかで、作者はずばり「飲む」と詠んでいる。ミルクやジュースと同じ「飲み方」をしている。そういうふうに読める。おそらくは、このあたりの表現法が今後の俳句の大問題になるはずで、当サイトの読者はどうお考えになるだろうか。「喫茶」という言葉が持つ色気を追放したときに、どんな新しい風が吹いてくるのか。私にも、大いに興味がある。その意味で、この作品は重要だと考え紹介することにした。小迫さんは1969年生まれ。『21世紀俳句ガイダンス』(現代俳句協会)所載。(清水哲男)』(出典)。茶は「汲む」であって「飲む」ではない?今回は飲む、嚥下についてのお話し。ちなみに前回の句は「汲む」。

ご存じ、画像は燕(ツバメ)。燕に口が付いて「嚥」、検索すると『ツバメの子が口を大きく開けて親鳥からエサをもらい、 飲みこむ様子※から作られました。口へんに燕(つばめ)と 書いて「飲みこむ」という意味の動詞になったのです。※ツバメは人間に近い所で巣を作るため、給餌の様子がよく観察できました。 また、嚥下(えんげ)は英語でswallowと言います。 語源は違いますが、名詞の「ツバメ」と、動詞の「飲みこむ」と して使われています』(出典元)。と言うことは、ヤクルトスワローズのスワローは燕であり、動詞で「グッと飲む、飲み込む」です。ヤクルトスワローズの隠された意味は、ひょっとすると「ヤクルト飲もう!ヤクルト愛飲者!」かも。燕だけに不思議なゴエン!

こちら(日医工株式会社)に、非常にわかりやすい嚥下の説明が載っています。引用しながら飲み込んでいきましょう(進めていきます)。はじめに摂食嚥下のメカニズムについて。『摂食嚥下とは食べ物を認識してから、口に取り込み、咀嚼し、咽頭・食道を経て胃へ送り込む一連の機能を指します。摂食嚥下は、認知期(先行期)、準備期、口腔期、咽頭期、食道期の5つのステージにわかれており、このうち、口腔期から食道期までの、いわゆる「飲み込む」動作が嚥下に該当します』(引用元)。

1)認知期:認知期(先行期)は、食べ物を認知し、口の中に取り込むまでの段階です。食欲を感じ、唾液の分泌、消化管の運動を促すなどにつながる大切な段階と考えられています(引用元)。
ポイント(あくまでも私見です)・・レストランを例に。まずは「メニューを読む」可能ならば小声でいいので音読する。産地の表示があれば地図をイメージする。疑問があれば、質問する。オーダーが済んで料理が目の前に来た時、お店の人の説明に耳を傾ける。食前酒もベター。鰻屋、カレー屋、ケーキ屋などの匂いや香りも有効な準備です。
施設(グループホームなど)であれば、眼・耳・鼻などに問題のある方もいらっしゃるでしょう。ミキサー食の場合もあります。例えば、その食事の材料を食卓に並べる。トマト、カボチャなど色鮮やかな野菜や果物(模型でも可)を置くことなども効果的かも。

2)準備期:準備期は、咀嚼・食塊が形成される段階です。口に取り込まれた食べ物は舌と歯を使って咀嚼され、更に、唾液と混合されることで嚥下しやすい形態、つまり食塊に整えられます(引用元)。
ポイント:もちろん歯に問題があれば上手く噛めません。義歯に問題(痛みやガタつき)があっても良くありません。また、唾液が少ない、口腔内の水気が足りないもの問題です。乾杯で直前に口の中を潤す、口の動きの準備するなど必要な場合もあるでしょう。

3)口腔期:口腔期は、舌が口蓋(前歯の裏)にしっかり押し付けられ、食塊を後方の咽頭に送り込む段階です。味覚や触覚、温痛覚などが保たれていることも円滑に口腔期の運動を行うためには重要です(引用元)。

4)咽頭期:咽頭期は嚥下反射そのものであり、食べ物を咽頭から食道へ運ぶ段階です。
咽頭通過は約0.5秒以内と一瞬ですが、摂食嚥下のメカニズムの中でも「誤嚥」が起きる段階であり、まさに嚥下のポイントといえます(引用元)。

5)食道期:食道期は、食道へ送り込まれた食塊が蠕動運動によって胃へ運ばれる段階です。食道上部の上食道括約筋が咽頭への逆流を防ぎ、食道下部の下食道括約筋が胃食道逆流を防ぎます(引用元)。
引用元には、非常にわかりやすい動画があります。ぜひご覧ください。毎日毎食、当たり前にしていること・・嚥下。真っ暗闇で何か飲み物を渡されても不安です、口を開けたまま飲み込むのは至難の業。やはり健康は有難いものです。皆様、ご自愛の程ご歯愛の程。