BBTime 383 味のある

BBTime 383 味のある
「赤とんぼじっとしたまま明日どうする」渥美 清

ほぼ毎日読むエッセイに「今日のダーリン」があります。糸井重里氏のほぼ日刊イトイ新聞の冒頭コラムです。本日(9/4)分を読んで頭に浮かんだのがこのひと「寅さん」。以下スクリーンショットです。

「やさしく、つよく、おもしろく。」この順序が大事なんだよと、よく言う。なによりまず、「やさしく」からはじまる。他の人が「愛」と呼んでいるのと同じようなことだ。そして、「つよく」がそれを支える。「よわさ」のままで、ほんとうになにかするのは、ちょっと難しすぎるだろう。約束は、つよくないとなかなか守れない。そして「おもしろく」は、最後にくるのだけれど、この「おもしろく」はめしのタネです、と、ぼくは言う。腹の皮がよじれるほど笑う、というようなことではない。ふつうにしていて、しかも「おもしろい」のがいい。ふつうであることは、たいしたことなのだけれど、そこに「おもしろく」がないとそのまま埋もれてしまう。

「おもしろく」って、どういうことですか?と、よく質問されてきたような気がする。そこにはっきりした答えがあるとも言えない。ぼく自身も、その「おもしろく」ってどういうものか、ずっと考えてきているのだ。どうすれば「おもしろく」なるのか、よくわかってはいないのかもしれないけれど、実際に「おもしろい」ものは、たくさんある。それは、「いい人ってどういう人?」と訊かれて、なかなか説明しきれないのだけれど、現実には、たくさんの「いい人」がいるというのと、とてもよく似ている。

前にも書いたかもしれないけれど、ぼくの知っている、ぼくよりかなり年上のご夫婦がいて、その旦那さんが、ぼくに、さらっと言ったことがある。「女房はね、おもしろいんですよ」と、少し離れたところにいた奥さまを見ながら言った。「かわいい」ご婦人だというのは、見ていてわかった。でも、「おもしろいんです」と言われて、はじめて、なんだか、とてもうらやましいお二人なんだと思った。ぼくの言う「やさしく、つよく、おもしろく。」の「おもしろく」というのは、こういうことだ、たぶん。「あのこは、やさしくて、つよくて、おもしろいね」と、そんなふうに言われる人に、こどもたち、育つといいね。  今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。「おもしろくない」ということは、ほっといたらダメだね。

読み返すほどに読み返しました。「やさしく、つよく、おもしろく。」を漢字にすると「愛情、正義、滋味」でしょうか。糸井さんのおっしゃる「おもしろく」とは「味のある」のような気がします。「おもちや」や「あんぱん」で触れたTED も同じく。『「あのこは、やさしくて、つよくて、おもしろいね」と、そんなふうに言われる人』になるためには、やはり磨く必要があるでしょう。英語に代表される外国語習得を例とするならば、単語や文法を覚えることはできても会話や文章のユーモア・センスまでマスターするなると、ちと難しいように思えます。だからこそ、最後の文章『「おもしろくない」ということは、ほっといたらダメだね。』なのでしょうか。これは冒頭の句の「どうする」に通ずるような・・。

『三木露風の童謡「赤とんぼ」を思い出す。三番の結び。「……、とまっているよ、竿の先」。掲句の作者も見ているように、よく赤とんぼ(だけではないけれど)は、秋の日に羽を光らせて「じっとしたまま」でいることがある。休息しているのだろうか。が、鳥のように羽をたたまずにピーンと張ったままなので、緊張して何か思案でもしいるような姿に写る。露風の詩はここまでで止めている(この詩が、露風十代の俳句を下敷きにしていることは以前に書いた)が、掲句はもう一歩踏みだしている。お前、明日はどうするんだい。そう言ってはナンだが、何かアテでもあるのかい。この優しい呼びかけは、もとより自身への呼びかけである。お互いに、風に吹かれて流れていく身なのだからさ。と、赤とんぼを相棒扱いにして呼びかけたところに、露風とはまた違う生活感のある人間臭い抒情味が出た。作者は、ご存知松竹映画「『男はつらいよ』シリーズ」で人気のあった寅さんだ。いや、寅さんを演じた役者だ。渥美清は、俳号を「風天」と称していた。「フーテンの寅」に発している。掲句は朝日新聞社発行の雑誌「アエラ」に縁のある人々の「アエラ句会」で披露された45句のうちの一句。熱心で、句会には皆勤に近かったと、亡くなった後の「アエラ」に出ている。このことを知ると、どうしても「寅さん」が詠んだ句だと映画に重ね合わせて読んでしまう。止むを得ないところだが、しかし、そういうことを離れて句は素晴らしい。「どうする」の口語調が、とりわけて利いている。』解説より。

寅さんを敬愛し、第45作「寅次郎の青春」にエキストラとして参加した小生にとって寅さんは永遠です。去る8/27は、第1作「男はつらいよ」の公開から50年でした。朝日新聞に「月刊寅さん」がスタート。こじつけですが「やさしく、つよく、おもしろく。」のムシ歯予防を考えています。近々、第一弾「歯と歯茎にやさしい歯ブラシ」をご紹介予定、乞うご期待!8001


BBTime 343 五月後六月

BBTime 343 五月後六月
「五月雨の降のこしてや光堂」松尾芭蕉

句の解説には『旧五月十三日、芭蕉と曽良は平泉見物に訪れ、別当の案内で光堂(正式には金色堂)を拝観している。「おくのほそ道」の途次のことだ。句意を岩波文庫から引いておく。……五月雨はすべてのものを腐らすのだが、ここだけは降らなかったのであろうか。五百年の風雪に耐えた光堂のなんと美しく輝いていることよ。とまあ、これは高校国語程度では正解であろうが、解釈に品がない。芭蕉はこのように光堂の美しさをのみ詠んだのではなくて、光堂の美しさの背景にある藤原氏三代やひいては義経主従の「榮耀一睡」の夢に思いを馳せているのだからである。有名な「夏草や兵どもが夢の跡」はこのときの句だ。ところで光堂であるが、現在は鉄筋コンクリートの覆堂(さやどう)で保護されている。たとえば花巻の光太郎山荘と同じように、元々の建物をそっくり別の建物で覆って保護しているわけだ。家の中の家という感じ。芭蕉の時代にも覆堂はあり(と、芭蕉自身がレポートしている)、学者によれば南北朝末の建設らしいが、いずれにしても五月雨からは物理的に逃れられていた。『おくのほそ道』の文脈のなかではなく、こうして一句だけを取り出して読むと、光堂はハダカに見える。また、ハダカでなければ句が生きない。その意味からすると状況矛盾の変な句でもあるのだが、覆堂の存在を忘れてしまうほどの美しさを言っているのであろう』とあります(解説はこちら)。ちなみに旧五月十三日は六月十五日(令和元年)です。金色堂についてはこちら

鹿児島は先日(5/31)梅雨入りしました。ご存じのように「五月雨:さみだれ」とは梅雨のこと。本来「さつきばれ」とは「梅雨の晴れ間」であって、五月(現代のごがつ)の晴れではないのです。句は旧暦五月十三日に詠まれたので六月十五日(今年)。現代では五月=さつきと解釈されますが、このように正確には旧暦五月=さつき=現代六月となります。ややこしくなりました・・結局「さつき=六月」なんです。

去る三月にNHKラジオ第二「私の日本語辞典」「歳時記を読み直す」シリーズでのお話。本「季語の博物誌」をベースに著者の工藤力男氏と話は進みます。「さつき」の項で「さ」は「稲の霊」の意味を含むとのこと、さつきとは梅雨時ですので湿っぽいイメージとのこと。こちらで聴けます(6/2現在視聴可能)。

画像は紫陽花(錦玉:きんぎょく)です(引用元)。紫陽花は雨に濡れているほうがしっくり来ます。さて強引ですが口の中について。以前「したしたこおか」に書きました、口の中(歯)でいつも潤っているのが下の前歯です。かたや濡れにくいのが上の前歯の唇側なんです。下の前歯にむし歯を作る方はよほどの方(失礼)です。上の前歯は唾液が届きにくく濡れにくいので、むし歯になりやすいのです。言い換えれば「唾液の力」「むし歯から歯を守る力」が及びにくいのが上の前歯なんです。よって、むし歯になりやすいところ、お握り食べて「歯に海苔」になりやすいのも上の前歯なんです。

下の前歯は始終唾液で濡れている・潤っている反面、歯石(しせき)の付きやすくなります。お茶やコーヒーの渋も付きやすくなります。これから暑くなり水分補給(一日1リットル以上が目安)が肝要となります。水やお茶を一口含んだら、すぐさまゴクンと飲み込まずに上の前歯を十二分に濡らしてから飲んでください(可能ならば)。いつまでもあなたの歯が「光」輝き続けるように!7570


BBTime 341 光と影

BBTime 341 光と影:Both Sides, Now
「鮎は影と走りて若きことやめず」鎌倉佐弓

和菓子「若鮎」です。『楕円形に焼き上げたカステラ生地で求肥、若しくは小豆をつつみ、半月形に整形し、焼印で目とひれの印をつけた和菓子である』とウイキペディア。画像は出雲の和菓子屋さんのInstagram「choppe_tt」より拝借。帰宅途中FMから流れてきたシールの歌う「Both Sides, Now」が秀逸でした。ご存じの方も多いでしょう、原曲はジョニ・ミッチェルで邦題「青春の光と影」1969年発表の曲です。

Rows and floes of angel hair
And ice cream castles in the air
And feather canyons everywhere
I’ve looked at clouds that way

編み込まれたり
梳きながされたりしている
天使の髪の毛。
空の真ん中に浮かんだ
アイスクリームのお城。
いたるところに広がる
鳥の羽根毛で形づくられた峡谷。
雲というのはそういうものだと
私は思っていた』出典はこちら

But now they only block the sun
They rain and snow on everyone
So many things I would have done
But clouds got in my way

でも今では雲なんて
お日さまをさえぎるものでしかない。
みんなの上に雨は降らすし雪は降らすし
私にはやらなくちゃいけないことが
いっぱいあったのに
雲は私のじゃまばかりしてきた』

I’ve looked at clouds from both sides now
From up and down, and still somehow
It’s cloud illusions I recall
I really don’t know clouds at all

私は雲というものを
両方の側から見たことになる。
上からと下からと。
他にも見方があるかもしれない。
ふりかえってみるとそれは
雲の幻想にすぎなかったのだと思う。
私は本当は雲というもののことを
何も知らないのだ』

I’ve looked at life from both sides now
From win and lose and still somehow
It’s life’s illusions I recall
I really don’t know life at all

私は人生というものを
両方の側から見たことになる。
勝者の側からと敗者の側からと。
他にも見方があるかもしれない。
ふりかえってみるとそれは
人生の幻想にすぎなかったのだと思う。
私は本当は人生というもののことを
何も知らないのだ』出典はこちら

今週(5/20-24)のNHKラジオ第1「健康ライフ」は歯の話。「歯を失ったらどうするか」の問いに「ブリッジ・部分入れ歯・インプラント」の選択肢。臨床で同じ場面があります。「部分入れ歯は外して洗うのでしょ、面倒臭い」と患者さん。んー思います・・「取り外し可能は、固定式よりもキレイに洗えるのに」・・歯医者の見方でしょうか。若鮎・アイスクリームを楽しむことは喜びですが、歯の立場からは「汚れましたよ」で「汚した後はキレイにしてね」です。

「影」と「陰」。小生、解するに「光あれば影あり、陰なれば影なし」「影に姿あり、陰に姿なし」(詭弁にあらず)。辞書で先に出てくるのは「陰:その物のために光や風などがさえぎられて届かない部分。本人(他人)が見たり聞いたりしない所」。続いて「影:光が何かにさえぎられて、その裏側に黒く現れるもの。水面・鏡・金属面などに映って見えるもの。姿。ぬぐうことの出来ない暗い印象や、好ましくない影響を思わせる何ものか。光」新明解国語辞典より。「影=光」の用例に「月影がさす・星影」とあります。小生またひとつ賢くなりました・笑

冒頭句の解説に『私は素早い動きの魚は苦手なので、一度も鮎を目掛けて釣ったことはない。どろーんとした鮒釣りが、子供の頃から性にあっていた。それはともかく、掲句は鮎の動きをとてもよくとらえていて素敵だ。たしかに「影」と一緒に走っている。しかも単なる写生にとどまらず、「若きことやめず」と素早く追い討ちをかけたところが見事。若さは、影にも現われる。人間でも、化粧もできない影にこそ現われる。しかも、鮎は「年魚」とも言われるように、その一生は短い。だからこそ、今の若さが鮮やかなのだ。句には、佐藤紘彰の英訳がある。俳誌「吟遊」(代表・夏石番矢)の第二号に載っている。すなわち”A sweetfish runs with its shadow ever to be young”と。以下、私見。……間違いではないんですけどねエ、なんだかちょっと違うんですよねエ。第一に、鮎が露骨に単数なのが困る。”sweetfish”が”carp”のように単複同一表記なのは承知しているが、ここはやっぱり”Sweetfish”と出て、一瞬単複いずれかと読者を迷わせたほうがベターなのではないかしらん』とあります。あなたのスタイルは「光と影」それとも「光と陰」・・食べる楽しみと歯の汚れは「光と影」・・光あっての影ですが、やはり歯は光っている方がヨロシ!と思いますが・・。4270



この曲は「BBTime 281 高楊枝」でも紹介しておりました。ちなみに小生のインタグラムはこちら

追加:鮎を英語でsweetfishとは面白いですね。鮎は甘いのかな?「Sweet Tooth」について書いております、是非どうぞ。BBTime 321 甘い歯 

BBTime 336 羊羹猪羹

BBTime 336 羊羹猪羹:ようかんちょかん
「大南風黒羊羹を吹きわたる」川崎展宏

解説に『季語は「南風(みなみ)」。元来は船乗りの用語だったらしく、夏の季節風のことだ。あたたかく湿った風で、多く日本海側で吹く強い風を「大南風」と言う。旅先だろうか。作者は見晴らしのよい室内にいて、お茶をいただいている。茶請けには「黒羊羹」が添えられている。外では猛烈な南風がふきまくり、木々はゆさゆさと揺れざわめいている。近似の体験は誰にもあるだろうし日常的なものだが、それを「黒羊羹」を中心に据えて詠んだワザが、情景をぐんと引き立たせ異彩にした。実際にはどうか知らないけれど、黒い羊羹は素材の密度がぎっしりと詰まっているように見える。人間で言えば沈着にして冷静、どっしりとしている。その感じをいわば盤石と捉え、激しくゆさぶられている周辺の木々と対比させながら、「大南風」の吹く壮観を詠み上げた句だ。動くものは動かぬものとの対比において、より動きが強調される。この場合の動かぬものとは、しかし目の前のちつぽけな羊羹なので、多分に作者のいたずら心も感じられ、激しい風の「吹きわたる」壮観を言ってはいながら、全体としては陽性な句だ。秋の台風だったら、こうはいかない。やはり夏ならではの感じ方になっている。以下、蛇足。羊羹でもカステラでも、あるいは食パンでも、私は端(耳)の部分が好きだ』(引用元)とあります。解説読んでも「南風と黒羊羹」の関係性がなんとも不可解なんですが・・今回は「外郎外伝」に続いて羊羹のお話。

羊羹と豚汁の関係性は?と聞かれたらどう考えますか。「羊」と「羹に懲りて膾(なます)を吹く」の「羹:あつもの」で羊羹です。羊の肉も入ってなければ「羹:野菜や肉を入れた熱い吸い物」でもありません。にもかかわらず「羊羹」とはこれいかに?

中国の話です。羹(あつもの)には、羊の肉のみならず猪羹(ちょかん:豚肉の汁、豚汁)や魚羹、鶏羹など四十八もの種類があり、その中の羊肉の羹を羊羹と呼んでいました。日本に伝来した頃、日本人は獣肉を食べませんでしたので、羊肉の代わりに小豆や小麦で作ったもの(団子)を入れました。この団子が汁から独立したものが羊羹の原型で、蒸し羊羹へと進化します。その後、江戸時代になって小麦粉の代わりに寒天を入れるようになったのが今の「羊羹」なんです。詳しくは本「新和菓子噺」をどうぞ。画像は本文です。

本の中には「なぜ饅頭に「頭」があるのか」「本来は栗はなくとも栗饅頭」など興味深い和菓子噺が満載です。読んで改めて和菓子と日本人の関係・和菓子の奥深さを知りました。皆さん、和菓子を頂きましょう!その後は歯磨きをお忘れなく。7500

BBTime 335 外郎外伝

BBTime 335 外郎外伝
「暮れ際の紫紺の五月来にけり」森 澄雄

令和初日5/1の暮れゆく高千穂峰(たかちほのみね)、天孫降臨の地とされる霊峰です。「天孫降臨(てんそんこうりん)とは、日本神話において、天孫邇邇藝命(ににぎのみこと)が、天照大御神神勅を受けて葦原の中つ国を治めるために高天原から日向国高千穂峰へ天降(あまくだ)ったこと」(Wikipediaより)。平成から令和へ変遷しました。真偽のほどはさておき伝承的には、この秀峰に天降った神様(瓊瓊杵尊)から令和天皇に繋がっていることを思うと感慨深い夕暮れでした。瓊瓊杵尊のひ孫が神武天皇(初代)で126代目が新天皇です。さて前回「滑舌改善」で外郎について触れましたが、今回は由来について。

外郎の由来についてネット検索すると、やはり薬の透頂香(とうちんこう:外郎薬)が起源のようです。『ういろうは仁丹と良く似た形状・原料であり、現在では口中清涼・消臭等に使用するといわれる。外郎薬(ういろうぐすり)、透頂香(とうちんこう)とも言う。中国において王の被る冠にまとわりつく汗臭さを打ち消すためにこの薬が用いられたとされる。14世紀元朝滅亡後、日本へ亡命した旧元朝の外交官(外郎の職)であった陳宗敬[2]の名前に由来すると言われている。陳宗敬は王朝を建国する朱元璋に敗れた陳友諒の一族とも言われ、日本の博多に亡命し日明貿易に携わり、輸入した薬に彼の名が定着したとされる』(Wikipediaり)。

薮光生(やぶみつお)氏の著書「新和菓子噺」には次のようにあります。「鎌倉時代に中国で礼部員外郎(れいぶいんういろう)の役職にあった陳宗敬が、日本に来て透頂香という薬を広めるのですが、「外郎」という役職にあった人が伝えた薬であったことから、「外郎」といわれるようになりました。その陳さんは、やがて改名して陳外郎と名乗るのですが、菓子の外郎は、その陳さんがお客様をもてなすためにつくった菓子にはじまるといわれています」(一部抜粋)。

また『以前読んだ本に、この薬と役職名、菓子の名の勘違いから、的はずれの勘違いのことを指す透頂香を別読みした「トンチンカン」なる言葉が誕生したと書かれていたことを記憶していますが、成程と思わせられる話です』とあります(131頁より)。フリスクの元祖とも言える「透頂香:とうちんこう」と伝えた人の役職名「外郎」が、お菓子の「外郎」となって今に伝わる・・なんとも「外郎」の本伝のみならず外伝も面白い!外郎を末長く楽しむためにも歯の予防をお忘れなく。ふと、小さん師匠に「トンチンカン」に似た演目があることを思い出しました(こちらは万金丹)。ちなみに「トンチンカン」には「鍛冶などで師が鉄を打つ間に弟子が槌を入れるため、ずれて響く音の「トンチンカン」を模した擬音語であった。 音が揃わないことから、ちぐはぐなことを意味するようになり、さらに間抜けを意味するようになった。 漢字で「頓珍漢」と書くのは当て字である」とも(出典はこちら)。7330




 

BBTime 333 和顔施

BBTime 333 和顔施:わがんせ
「晩春をヌード気分のマヨネーズ」小枝恵美子

鹿児島の昼間は晩春を通り越して初夏です。今や「ヌード」は死語かもしれませんね。解説に『春もようやくたけなわを過ぎ、どこか気だるいような雰囲気のなかで、卓上に「マヨネーズ」の入ったポリ容器が立っている。「ヌード」は単なる裸体を言うのではなく、そこに審美的要素が絡む概念だ。流線型の容器の形といい、薄く透けて見える卵黄色といい、たしかになまめかしい感じがする。この句のよさは、おそらくは誰しもが何となく感じているマヨネーズのなまめかしさを、ずばりヌードと言い切ったところにある。さらにマヨネーズを擬人化して、マヨネーズが勝手にそんな「気分」になっているのだと思うと、可笑しくも可愛らしい。もしも、句のマヨネーズにキューピー人形のマークが付いていたとしたら、もっと可笑しいだろうな。なまめかしさとは無縁のキューピーちゃんが、一所懸命大人ぶっている図には微笑を禁じえない。あれはメーカーがマヨネーズを健全なる家庭に普及さすべく、なるべく本体のなまめかしさを打ち消すために採用した苦心のキャラクターではあるまいか。感覚そのままに成人女性のヌードでは具合が悪いし、かといって、あまりにも違うイメージではもっと具合が悪いし……。と、そんなことまで考えてしまった。ところで、いまでこそどこの家庭にもあるマヨネーズだが、四十年前くらいまではなかなか受け入れられなかったようだ。全国マヨネーズ協会の調査によれば、一人当たりの年間消費量は、1960年度でたったの151グラム。それが2000年では1895グラムと、10倍以上に跳ね上がっている。少年時代の私は、マヨネーズの存在すら知らなかった』解説より。

これはQPマヨネーズが創業百周年記念に作ったいわば「ご当地マヨネーズ」。九州は柚子胡椒マヨネーズ、かなりいけます!解説に消費量について書いてありますが、昨年平成30年の生産量は220,859トンで、人口1.26億人(平成30年11/01確定値)で割ると1,752グラムとなります。マヨネーズ消費量は横ばいですかね。今回は朝日新聞のコラム「折々のことば」より「和顔施:わがんせ」と「お」について。

『いつもニコニコしていることで、徳を積めるんです。瀬戸内寂聴
人に笑顔を施すことを「和顔施(わがんせ)」という。そのために普段からユーモアの感覚を磨いておくよう僧・作家は奨(すす)める。そして好きなことしかしないこと。何かに呆(ほう)けると悪口を言う暇もなくなる。日本文学研究者、D・キーンとの対談『日本の美徳』から。演出家の久世光彦は、寂聴姉(ねえ)は〈女〉をやめなかったから「死んで桃色の骨になるだろう」(『美の死』)と書いて、先に逝った。(鷲田清一)』
和顔施は顔施とも言うようです。こちらにも『布施とは、相手の欲することを与えること。物施(ぶつせ)もあれば心施(しんせ)もあります。でもわたしは、顔施(がんせ)ということばがいちばん好き。だれに逢ってもにこにこ優しい表情をみせることで、顔さえあればだれにでも可能なのです。瀬戸内寂聴』引用元はこちら。・・とは言うものの「仏の顔も三度」ですから、凡人小生にとって「いつもニコニコ」は無理です。文章中の『普段からユーモアの感覚を磨いておくよう僧・作家は奨める』は大賛成!マヨネーズからヌードを連想するユーモア心・・見習います。加えて大賛成は『そして好きなことしかしないこと』・・実践してます!画像を見ると寂聴さん、どこかしらキューピーちゃんに似てますね(ニコニコ)。

『「にぎり」と「おにぎり」では食費の予算が変わる 糸井通浩
日本語には、「お」をつけると意味が大きくずれる例が少なくないと、日本語・古典文学研究者は言う。「ひや」と「おひや」、「めでたい」と「おめでたい」、「しゃれ」と「おしゃれ」、「はこ」と「おはこ」、「ふくろ」と「おふくろ」。音の僅(わず)かな差が世界を緻密に分けてゆく。濁点の有無もそう。江戸期には「はけに毛があり、はげに毛がなし」と言ったそうな。『谷間の想像力』から。(鷲田清一)』

おっしゃる通り!日本語は面白いですね、生きてますね。「笑い」と「お笑い」区別してますよね。日本語のデリケートな中に潜むユーモアかも。差は一文字でも意味は大違い。日本語の美しさ・ユーモア、大事にしたいと思います。最後にいつものコジツケですが、ニコニコにも歯は大事!お握り食べるのも、握りをつまむのにも歯は大事!ご自愛ください、ご歯(じ)愛ください。

今回の曲は「愛と青春の旅立ち」のテーマ。映画の中でリチャード・ギアが「マヨネーズ」と呼ばれますのでマヨネーズ繋がりで。最後にひとつ御紹介、本日4/22はアースデイで拙ホームページ開始日でもあります。スタートが1999.4.22ですので丸二十年、本日「connote:カノート」二十歳の誕生日なんです、祝!二十歳。2770

おまけ:歌詞もいいんです!ぜひこちらを参照。

BBTime 323 十六時間

BBTime 323 十六時間
「父を呼ぶコーヒの時間春の宵」小山白楢

皆さんは「春の宵」と聞いて何時頃をイメージされますか?調べてみると意外にも早い時刻なんです。『辞書を見ると、「宵」は「日が暮れてまだ間もない頃」「夜がまだそれほど更けていない頃」「日が暮れて間もないとき」などと書いてあります。「日暮れ」が一つの基準になっているなら、「宵」の時間帯は季節によって違うはずです。「日が暮れて間もないとき」は日没後1時間ほど。日が短い冬なら17時頃、日が長い夏なら19時30分頃、春(4月)なら18時30分頃となります』出典はこちら。確かに「宵の明星」は日没後間もない西の空に輝く金星です。

句の解説には『この句は、新潮社が1951年に発刊した『俳諧歳時記』に載っており、となれば、この茶の間の光景は戦後すぐのものだろう。もとよりインスタント・コーヒーなどなかったころだから、とても貴重なコーヒーというわけで、一家で大事にして飲んでいた雰囲気も表現されている。飲む時間は、一家が揃ってくつろげる時、すなわち宵の刻であった。当時は、夜間にコーヒーを飲むと寝られなくなるということがしきりに言われていた記憶もあるが、そんなことは構わずに、作者一家は宵のコーヒーを楽しみに団欒していたようだ』とあり、小生は晩御飯後のコーヒのように受け取ってしまいますが、宵を正確に解釈するならば晩御飯前のコーヒで「書斎にいらっしゃるお父様を呼んできて・・」なのでしょうか。

洋画に「48時間」「72時間」「96時間」「127時間」などがあります、今回は「空腹は薬」に出てくる十六時間について。アップした後に十六時間の可能な取り方を考えてみました。結論!夜9時に晩御飯終了し翌日昼1時からランチ、これで十六時間絶食可能です。もちろん夜8時終了の翌昼12時でも十六時間!

画像はラマダーン「ラマダーンは、ヒジュラ暦の第9月。この月の日の出から日没までの間、ムスリムの義務の一つ「断食(サウム)」として、飲食を絶つことが行われる」ウイキペディアより。ラマダーンのような習慣、また一時期話題になった「パレオダイエット」など、「一日三食しっかり食べよう」ではない食事法が健康維持に効果ありの気がします。単刀直入に言えば現代人は「食べ過ぎ」・・量も回数も!パレオダイエットとは『旧石器食事法の考え方は、人間の遺伝学性質が農業が始まった頃(およそ1万年前)からほとんど変わっていないという考え方に基づいている。この考え方は進化論医学のテーマの一つである。パレオダイエットでは、現代人も旧石器時代の先祖の食生活を遺伝的に受け継いでいると考える。そのため、健康であるための理想的な食事法は、我々の旧石器時代の先祖と同じような食事をとることであると考えている』ウイキペディアより。

パレオダイエットは『旧石器時代の食事に立ち返ることを念頭に置き、農耕牧畜に頼らず、日常的に簡単に入手できる魚介類、鳥類、小動物、昆虫、卵、野菜、キノコなどの菌類、根菜、ナッツ類などを中心とする。旧石器時代には、自然界から容易に入手できなかった穀物、豆類、乳製品、芋類、食塩砂糖、加工油は原則的には避ける』(ウイキペディアより)のように主に食事内容ですが、旧石器時代においては食事は不規則であったと推測されますし、十六時間絶食など普通のことでしょう。

いやあ十六時間なんて絶対無理とお考えのあなた、グゥと鳴ったらブラックコーヒは胃に良くなさそうですから牛乳たっぷりのカフェオレでも。小生、完全朝食抜きで1ヶ月ほど経ちますが、すこぶる快適気持ちがいいのです!繰り返しますが、朝食抜きで「ガン予防」「ムシ歯予防」「肥満予防」「元気溌剌」「倹約可能」となれば・・やらないのはソンですよ。成功の秘訣二つ目:十六時間は固形物は胃に入れない!飲み物やミンティア・フリスクで乗り切る!0600




BBTime 318 おも白い

BBTime 318 おも白い
「三月の甘納豆のうふふふふ」坪内稔典

面白い動画を教えてもらいました。ご紹介の前に「面白い」の由来を調べてみますと・・『「面」は目の前を意味し「白い」は明るくてはっきりしていることを意味した。そこから、目の前が明るくなった状態をさすようになり、目の前にある景色の美しさを表すようになった。さらに転じて「楽しい」や「心地よい」などの意味を持つようになり、明るい感情を表す言葉として広義に使われるようになった』出典はこちら。次の画像はオヤジギャグです(笑)。

面白い動画とはANAの機内安全ビデオ。離陸前に見るべきだけど、慣れっこになって(はいけないのですが)ほとんど見ないビデオです。さすが全日空!と唸りました。いかにして搭乗客に周知徹底させるか。いかにして日本語を理解できない海外の客にも伝えるか。ルーティン(添乗員がすべきこと)なことであるけど、紋切り型ではなくお客に注目注視してもらえるか。感服しました。

仕事柄すぐに「歯磨き」に関連づけてしまいます。やらないといけないと分かっていても、やらないこと・できないこと多々あるなかで、歯磨きも恐らくそのひとつでしょう。ANA動画のように面白さ・楽しさ・エンターテイメントの要素を真摯に盛り込むことで「見なければならない」を「見たい!」に変える。スゴイ技ですが「磨かねばならない」を「磨きたい!」に変える工夫を歯科医としてヤルべきだと常々思います。現在「磨きたくなる歯ブラシ」のアイデアを煮詰めています。一日でも早く実現すべく・・・進めます!3220



おまけ:句の解説に「この句を有名にした理由は、なんといっても「うふふふふ」という音声を活字化した作者の度胸のよさにあるだろう。EPOのかつてのヒット曲に『うふふふ』があるが、彼女の場合には「うふふふ」を音声で(歌って)表現しているわけだから、度胸という点では稔典には及ばない。いずれも春の歌であり、春の喜びを歌っていて、両方とも私は好きだ」解説より。変えるためには「度胸のよさ」も必要なんですね。蛇足ですが本来は「黒衣」と書いてくろご、「黒子」はホクロです。

BBTime 285 一杯の珈琲

BBTime 285 一杯の珈琲
「珈琲は一杯がよし日向ぼこ」亀井杜雁

先日(10/23)朝・・ポタリング(自転車ブラブラ)終えて朝刊を開きました。まず目を向けるのは「折々のことば」・・飛び込んできたのは「森光宗男:もりみつむねお」福岡市赤坂の珈琲店「美美:びみ」のマスター

「一杯のコーヒーから店のあらゆる寸法を割り出す」森光宗男
「ともに焙煎(ばいせん)とネルドリップの名人、森光と大坊勝次の対談録『珈琲屋』から。椅子にもこれしかない寸法があると森光が言うと、道具から設(しつら)えまで「コーヒーを楽しむ」ことで決まると大坊が応える。森光が判断の根拠は後でしかわからないと言えば、大坊は「あきらかにしないからこそ、誰もが生きていられることがある」と返す。目の前の一事も大きな時空感覚で捉える2人。(鷲田清一)」朝日新聞折々のことばより。

まだ読んでませんが新潮社から出版された対談集「珈琲屋」のページには、
森光宗男「1947年福岡県久留米市に生まれる。1966年県立久留米高校卒業後、桑沢デザイン研究所(専門学校)入学のため、上京。ハワイ・オアフ島に半年間滞在の後、1972年東京・吉祥寺「自家焙煎もか」入店。マスターの標交紀氏に5年間師事した後、帰福。1977年12月福岡市中央区今泉に自家焙煎ホーム・コーヒー販売、ネルドリップの店「珈琲美美」を開業。1987年コーヒー産地視察のため、イエメンはバニー・マタル、ハジャラ、マナハを訪問。以来、モカコーヒーのスパイシーな香りに魅せられ、イエメン5回、エチオピア7回を始め、ケニア、インドネシア、フィリピンなどを訪れ、コーヒーのルーツをひもといた。2009年5月福岡市中央区赤坂けやき通りに移転。2012年、著書『モカに始まり』(手の間文庫)を出版。2016年には、自ら発案・監修したネルドリップ抽出器具「ネルブリューワーNELCCO(ねるっこ)」を「フジローヤル」より発売。一般家庭でも専門店に引けをとらないネルドリップの一杯を実現すべく、啓蒙活動を行う。2016年12月ネルドリップ普及セミナーの帰途、韓国の仁川空港にて倒れ、急逝。享年69。(2018年5月現在、お店は妻の充子さんが引き継いで営業中)」とのプロフィール

拙インタビュー記事「丸ごと味わう」聞き取り時に「何よりも印象的だったのは、一杯の珈琲が、毎日の生活のなかで、または日々のきつい労働のなかで“句読点”であったということです。この時に珈琲の本物の味とともに、珈琲を飲むということそのものの意味を垣間見たような気がしました」と語られました。

美美では必ずカウンターに座り、いつもマスターの珈琲のお点前(てまえ)を凝視しておりました。まさしく薄茶ではなく濃茶の点前さながら・・目の前に出てくるのは珈琲の濃茶・・啜るように頂きました。もちろん美味!掲句はブラジル移民の方の句のようです。薄茶は二服目もありますが濃茶は一服のみ。マスターの珈琲も「珈琲は一杯がよし」でした・・が、味を記憶に留めようと二杯目を注文しておりました。

「一杯のコーヒーから店のあらゆる寸法を割り出す」この逆がマスターの起点のような気がします。「一杯の珈琲が、毎日の生活のなかで、または日々のきつい労働のなかで“句読点”であった」から始まった人生ゆえの言葉でしょう。茶室が一碗から始まるのと同じです。今度の師走で亡くなって丸二年・・合掌。2550


BBTime 214 命の糧

BBTime 214 命の糧
「はなはみないのちのかてとなりにけり」森アキ子

開花宣言がここかしこで話題に花を咲かせてます。掲句を漢字で書くと「花は皆命の糧と成りにけり」となり違った趣(おもむき)のものとなります、ちなみに無季の句のようです。今回は命の糧について・・。

画像を見て「麝香鹿:ジャコウジカ」とわかる方は百人に一人千人に一人でしょう。香水のムスクを作り出す動物です。さて先日、万人に一人位しか御存じないであろう言葉をNHKラジオ第二放送で耳にしました。その言葉は「麝香間祗候:じゃこうのましこう」簡単に言うと天皇の話し相手の役職名で、明治維新以降に島津久光のような元殿様が任ぜられたようです。ネットで調べてみるとなんと麝香間祗候の弟分もあり、その名も「金鶏間祗候:きんけいのましこう」

この二つの言葉を生涯知らなくても生きてゆけます。しかし知ることで趣の違う人生となるかもしれません。レアな言葉や雑学のネタも同じだと思います。ついでにもうひとつ、これもラジオで知りました。日本の植物名で最も長い名前がこれ(21文字)!
「龍宮の乙姫の元結の切り外し:リュウグウノオトヒメノモトユイノキリハズシ」別名「甘藻:アマモ」です。明治であれば「龍宮乙姫元結切り外し」のような表記でしょうか。お時間ある方は長大語へジャンプ。

上の画像では髪の毛を束ねている白いキレですが「元結:もとゆい」と聞くと落語好きな小生としては「文七元結:ぶんしちもっとい」です。落語の中でも人情噺とよばれる泣き笑いのお噺、今回志ん朝師匠でどうぞ!落語もそうですが、はなも桜も花見も人それぞれに命の糧となり得ます。食べること、食べ物は命の糧そのものです。食べるを助ける「歯」は命の糧の糧となるのでは?5460
「歯はみんないのちのかてとなりにけり」カルノ


https://youtu.be/gzPxJezRkI8